第21話

 からんからんと派手に音を鳴らす彼女の後ろ姿を追って五分ほど。辿り着いたのは、なんと見慣れた我らが母校だった。

「やっぱりここですよね!」

「ま、マジっすか」

「マジっすよ」

「え、まさか忍び込むつもりじゃ……」

「侵入経路はバッチリです。さあついてきてください」

 悪びれる様子もなく、知生はどんどんと足を進める。彼女の進む先は、魔法でもかかっているかのようにどこもかしこも施錠がされておらず、私はただただ驚く小判鮫と化した。

「学校に侵入って、ドキドキしますね」

 一応小声で知生が呟いた。目の前にはいつも私達が占拠している教室の扉があった。

 いつもの窓辺から花火を眺めるドキドキは確かに悪くない。むしろ風情があって良い。手法がイリーガルという点を除けば。

 からからと乾いた音を立て、教室の扉が開く。

「見つかったらどうしよう」

「適当に誤魔化せばいいんですよ。悪さしようってわけじゃないんですから」

「侵入すること自体が悪さなんだと思うけどね」

「まじめですねえ。花火だけ見れば帰りますし、いいでしょ」

 さも当然の事のように知生は言った。

 私は暗闇に浮かぶ時計に目を向ける。花火まであと十五分といったところか。教室は少しだけ肌寒く、ほのかに夏の終わりを感じさせた。

 飽きるほど見たはずの教室は、なんだか別の世界のように思える。仄かな衣擦れの音を頼りに私は知生に言葉を向けた。

「夏休みももう終わりだね」

「あっという間ですね。食べ残しはないですか?」

「おかげさまでお腹いっぱいだよ。もう食べられない。知生は?」

「ちいリスト夏休みバージョンも花火で完遂ですし、大満足ですよ」

「そう。よかった」

 知生は静止画のような緩慢な動きで窓に寄って行った。彼女の先にはただただ闇が広がっている。

 いつぞや二人で見た海を思い出した。お互いの事をほとんど知らないままこの教室に連れてこられて、海を見に行って、リストを手伝うことを決めたあの日。

 飲み込まれそうだった水平線を、私は今でも鮮明に覚えている。あれから一緒にいくつのリストを消化したのだろうか。

 時間が止まったような教室で私の心に芽吹いたのはそんな哀愁と、真っ暗な闇の先に知生が吸い込まれそうだという不安感だけだった。彼女を捕まえるように、私は言葉を伸ばす

「ひとつ聞いていい?」

「なんですか?」

「なんでちいリストを作ったの?」

 かさりという物音が響く。彼女は首を傾けたが表情は見えない。見えるのは方々を向いたお面の輪郭だけだった。

「最初に言ったじゃないですか。高校生活に後悔を残さないようにって」

「そうじゃなくて」

 じっとりとした教室には色がなく、モノトーンだけが微かに揺れていた。

 学校の連中に尋ねれば、間違いなく「変人」と返ってくるほど自分本位で不思議なこの子。私だってそう感じたことが山ほどある。

 けれど、そうじゃない瞬間に触れすぎてしまった。その瞬間瞬間が煙のように視界にかかって、どんどん実態が掴めなくなる。

 そこまで考えて、ようやく自身の質問の意図が理解できた。

 そうか、私は彼女のことをもっと知りたいんだ。自分のことを知ってもらった次は、教えてもらう番じゃないか。

「あ、そうだ。花火まで時間もあるし、一問一答大会なんてどうよ?」

「はあ?」

「懐かしくない? あの頃は知生のことを全然知らなかったけど、今なら有意義な質問ができる気がするんだよ」

「気分じゃないです」

「つれないこと言わないの!」

 いつかの電車の時のように、今度は私が知生の隣に身を寄せる。彼女の肩は、相変わらず細くて柔らかい。真っ暗な校庭を見つめ、私は言葉を続けた。

「じゃあ質問。なんで後悔を残したくないの?」

「残したい人なんていないでしょ」

「そりゃそうだけど、そう思った経緯とか、きっかけとか、そういうのを知りたいの」

「言わなきゃ駄目ですか?」

「今は私のターンだよ。質問なら私の質問に答えた後にどうぞ」

「……そう来ましたか」

 少しの間の後、知生は諦めたように笑みを浮かべた。薄く向けられた瞳から、何かがこぼれそうな気がした。

「私の人生は、結末が決められているつまらない物語なんです」

「……どういうこと?」

「単純で平凡な、どこにでもある話ですよ。高校生活が私に許された最後の余白なんです。私が自分の意思で輝けるのは、この三年間だけ。自由に目に見える終わりがあるから、周りよりほんの少し本気なんですよ。それだけです」

 知生の困ったような笑い方が真に迫っていて、私は言葉を返せなくなる。彼女の視線は逃げる様に窓の外に移っていった。

 自由に目に見える終わりがあるから、と彼女は言った。独り言のようで抽象的で、しっかりと落とし込めたわけじゃない。

 だからどう踏み込んでいいのか全くわからなかった。私も知生くらい上手く振る舞えたら、もっと想いを吐かせてあげられるのに。それが歯痒い。

 再びの静寂が二人を包み込んだ。深い闇の先では山吹色の星がゆらりと光を放っていた。

「先輩は今幸せですか? 楽しいですか?」

「えっ、なに?」

「次は私のターンでしょう? 自分からふっかけたくせに」

「相変わらずマイペースだね」

 私は窓に背を向け、暗闇に包まれた教室を眺めた。

 確かこの質問は、かつて知生が投げかけてきたものだ。

 それなのにあの時とは全く違う印象の言葉に聞こえるのは、彼女の想いに少し触れてしまったからだろうか。はたまた自分の濁りを全て吐き出した後だからだろうか。

 さっきの問答で全てがわかったわけじゃないが、知生がちいリストにかける想いの根幹のようなものに触れられた気がした。

 だからこそ、彼女と過ごしたこの期間に「そこそこ」だなんて評価を返す気にはならなかった。

 もとよりそんな評価を下すつもりもないわけだが。

 私は目一杯の笑みを浮かべ、知生に視線を送った。

「そうだね、楽しいし幸せだよ。後悔する隙がないほどに」

「ふふっ。良い答えです」

 遠くの空で咲いた音が、重々しく空気を揺らした。音につられるように、私達は会話を止め窓の外を眺める。どうやら花火大会が始まったようだ。

 絶え間なく開く無数の光が、閃々と輝き星たちを覆っては落ちていく。

「始まったね」

「そうですね。ちょっと遠かったかもしれません。迂闊でした」

「まあいいんじゃないこういうのも。私は好きだよ」

 入浴剤を垂らした浴槽のように、じわりじわりと空の色が染まっていく。

 気の利いた事を言おうと思ったが、何を言っても陳腐になるような気がして、私はただただ花火を眺めた。遠くに見える花火は、それほどに綺麗で儚かった。

 隣に並ぶ少女の瞳にも、薄らと色が反射している。

「知生」

「なんですか?」

「さっきの続き、今じゃなくても良いから、いつか話してくれると嬉しいな」

 曖昧で抽象的で、きっと彼女のこと全てをわかったわけじゃない。

 でも、この先は踏み込んではいけない領域だ。というか踏み込んだところで今の私には何をしてやることも出来ないだろう。

 彼女がいつか私の力を必要とした時、その時は全力で寄り添えばいい。彼女がそうしてくれたように。

 私は窓の先に視線を移した。折り重なる光がゆらゆらと落ちていく。

「さっき話した事以上のことは、何もありませんよ。……でも」

 遠い花火の囁きにかき消されそうなほど僅かな声が暗闇に浮かぶ。

「いつか、話せる日が来ると良いですね」

 こうして、花火と共に高校二年生の夏休みが終わっていく。

 数日後始まる学校生活に対して考えないといけないことがあったはずなのに、そんなものは火の粉のように思考の隅へと落ちていった。

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