第20話
長い独白を終え、私は目を伏せる。勝手に湧いてくることはあっても、この過去を自分から見つめたのは初めてだった。
私が物事に本気になれなくなったのは、間違いなくこの出来事以降。無意識下で期待というものを恐れていたのだろう。
後悔はない。何回やり直したって、きっと私は同じようになってしまうだろうし。だとしたらこの気持ちはなんなんだろう。
風呂釜のようにぐつぐつと沸く感情は、触れるにはまだ熱い。知生の言葉を借りるならば、まさに過ぎたるは及ばざるが如しなのに、割り切るにはまだまだ時間が足りなかったらしい。
「さっきの先輩が悪口を言っていた一人。あれだけのことを言ったくせに、罪悪感の一つも覚えていない顔で喋りかけてきたのは腹立ったなぁ。まあ本人は私が怪我で辞めただけだと思ってるんだろうけどね。ほんと、ムカつく。言い返せなかった自分自身にも」
私は乾いた口に水を流し込み、ふうと息を吐いた。吐き出した事のない心情を空気に触れさせただけで、半年以上に渡るモヤが少しだけ晴れた気がした。
「長々とごめんね。でもなんだか知生には喋りたくなっちゃったんだ。今まで誰にも言えなかったから、吐き出せてスッキリしたよ」
知生の方を向く。彼女は話の間もずっと高い空を眺めていた。
彼女から言葉は返ってこない。共感してくれているのか、呆れているのか、薄い照明のせいで表情がぼやけて感情が読み取れない。夏祭りというめでたい日に、我ながら嫌な空気を広げてしまったものだ。
私がもう一度水を口に運んだと同時に、沈黙していた知生が立ち上がった。スッと息を吸った彼女が私を見下ろす。
「コマキサ先輩の大バカっ!」
世界が揺れた。正確にいうと、距離感を無視した知生の大声が私に向けられたことで、衝撃が身体を震わせた。こんなに静かな公園なのに、じんじんと耳が鳴り続ける。
なんだったっけ。そうだ、大バカ。大バカと言われたんだ私は。数秒のショートから、私はようやく我に返る。
「だ、誰が大バカなのよ」
「だからコマキサ先輩だって言ってんでしょうが!」
そう言い返し、知生はお面の一つを顔に装着した。赤色のヒーローが、虚な目で私を見ている。
まさか過去の傷を話したことで、罵声を吐かれお面を被られるなんて思わなかった。
「一世一代の告白だったんだよ。茶化さないでよ」
「茶化してるわけないでしょ!」
ぴしりと人差し指を向けられたことで、私は反論ができなくなる。プラスチックを一枚挟んだはずなのに、知生の声は変わらず鋭い。
「なんで誰にも言わなかったんですか?」
「それは……」
お面越しに深々と溜息を吐いた知生は、大きく腕を組んだあと、こほんとわざとらしく咳をした。
「考えがごちゃごちゃしてて順番を間違えました。過去のことを話してくれてありがとうございます」
「い、いやいやこちらこそ」
「それを話せるほど信頼してもらえているというのは、正直心地いいです。素直に嬉しいです」
急に冷静になられたことで、会話のテンポを崩されてしまった。
こんな事を包み隠言ってくるあたり、本当に私と彼女とは大きく性質が異なるんだろう。
ほわほわとした感覚が浮き上がってくるが、それを抑えるように知生は言葉を続けた。
「決勝で負けた後剣道を辞めたって話、実は知ってました」
「えっ、なんで?」
「噂話ですよ。これだけのエピソードが有象無象の餌にならないわけないでしょ」
「そっか」
「あの学校で知らずに過ごす方が難しいくらいです」
普段素知らぬ顔をしているから、知生は知らないものとばかり思っていたが、言われてみれば彼女の言う通りだ。
剣道部に縁のないアキやクラスメイトが知っているくらいなのだから、下級生にその話が回っていてもおかしくはない。
「私って意外と有名人だったんだね」
「でも、陰口の話は知りませんでした」
「さっき言った通り、誰にも話してなかったから」
「私はそれが許せないんです!」
再び知生の導火線に火がつく。すっかりと日の落ちた空を背に、熱血漢の赤色戦士が私を見下ろしていた。
無機質なお面からは、やはり感情が読み取れない。だが身体や声の震えが、今まで見たどれとも違う。
きっと知生は怒っている。
「みんながみんな、先輩は逃げ出した弱虫だと勘違いしてるんですよ! 日々重くなる枷に耐えて、好きだった剣道を楽しめなくなって、それでも頑張って頑張って。たった一度期待に応えられなかっただけで酷い言葉を浴びせられて……。辞めて当然です。それなのに今なお、周りはあなたを誤解し続けているんです。そんなの許せるわけないじゃないですか。なんで言わないんですか! バカっ! コマバカ!」
「知生……」
「今の話を聞いて、先輩の行動を否定する人なんて多分いないです。というか、いたら私が拷問してやります。このまま先輩が報われないのは……辛いです」
知生の感情の揺らめきが私にも燃え移っていく。知生はやっぱり怒っている。でもきっとそれは、私だけに向けられたものじゃなくて、私の周りの人間に対してにもだ。
なぜ言わなかったという彼女の疑問には、いくつか答えがある。意識を失ったままのフリをして盗み聞きした罪悪感だとか、わざわざ事を荒立たせたくないという日和だとか。
しかし今ベストアンサーが仕上がった。私はあの時抱いた感情を、他人には理解してもらえないということを恐れていたんだ。
だから知生の怒りはむしろ心地よかった。彼女はそれを読み取ってくれたからこそ怒ってくれているんだ。
私が言葉を探している様を見て、知生は大きく息を吸った。
「話してくれたんですから、今更過去のことをとやかく言っても仕方ないですね。バカって言ってすいませんでした」
「ううん……。バカだよ、私。自分のこと全然わかってなかった。ありがとう」
私は本当にバカだ。私はただただこの感情を誰かに理解して欲しかったのだ。それを遮っていたのは、他でもない怯えた自分自身。美学なんかとは程遠い。
ようやく本当の意味で、自分自身を見つめ直せた気がした。だからこの先どうだなんて結論はまだ出ないけれど、幾重にも重なった雲が晴れただけで、私はすっかり満足してしまった。
ゆっくりと立ち上がる私に合わせ、知生は一歩足を後ろにやった。
「剣道選手としてどうかなんてことは私にはわかりません。けれど、期待に応えようとして頑張り続けたあなたは、尊敬に値する先輩です。沙夜子先輩はすごい人です。誇らしいです。キラキラです! 自信を持ってください!」
ぱさりと軽い音を立てて、赤色戦士の鉄拳が私の左胸を打った。その一撃は、雪が溶けた心に更に熱を注ぐような心地よさだった。これは私がマゾヒストだからではない。きっと。多分。
「よく今まで一人で頑張りましたね。お疲れ様でした。よしよしです」
私のリアクションを全て素通りし、知生が私の頭に手を伸ばす。今度は言葉が私の胸を打った。
ああなんだ。私はただこうして欲しかったんだ。おつかれ、頑張ったね、次こそは優勝しようね。そんな言葉をかけてもらえていれば、きっと私はこうはならなかった。
両親も、佳乃ちゃんも、ひょっとしたらどこかの誰かさんだって、私が想いを吐き出すのを待っていてくれたのかもしれない。そう思うと、やっぱり私は知生の言う通りコマバカだ。語呂悪すぎでしょ。バカみたい。
私はふうと息を吐き、静かに微笑んだ。今はもっとこの心地よさに溺れていたい。
「もっと撫でて」
「えっ」
「なんか嬉しくて。もっと撫でて欲しい」
無表情の赤色戦士が、ピタリと動きを止めた。
「珍しく素直でキモいです。あと身長差ありすぎ。もう無理です。腕が吊る」
「あなたはいつも通り素直すぎ」
背伸びをしていた知生がふらふらと私から離れた。よろけた拍子にお面が外れる。
くすくすとその様を見ていた私は、灯りに照らされようやく見えた知生の表情に驚かされる。
目が真っ赤。しかも腫れぼったい。
「まさか、泣いてたの?」
知生は再びお面を被り、堂々と胸を張った。
「私は報われない物語が嫌いなだけ。これはただの悔し涙ですよ」
泥水を吸い脈々と育った醜い感情は、どうやら目の前の少女の共感とお涙を思いの外頂戴出来ていたらしい。
そこまで私のことを本気で考えてくれたのか。居ても立っても居られないほど嬉しい。この昂りこそ、私の現在だ。
「照れ隠しなんてしなくていいじゃん」
色んな感情から解放されたおかげで、なんだか心が軽い。急に祭りの気分が舞い戻ってきたようだった。私はゆっくりと知生のお面を外す。
「うざざざざ。激うざですね!」
「うざくてもいいよ」
「ちょっと! 真顔やめてください!」
「もっと顔見せて」
「顎クイもやめてくださいっ!」
「あれ、これキスぐらいならしてもいいんじゃない? やばぁ。新たな花園開いちゃうわ」
「開いてんのは先輩の瞳孔ですよ!」
知生はくるりと身を返して、私からさらに距離をとった。ふうふうと荒い息が威嚇してくる猫みたいで面白かった。
「冗談だよ」
「落ち込みからの反動ヤバすぎでしょ。危うく一線越えさせられるところでした」
「屋外はちょっとなぁ。雰囲気が」
「室内でももちろんダメですからね」
私はもう一度ベンチに腰掛けた。隣には熱を奪われた食べ物達が、形を変えず居座り続けている。
ぶつぶつと小言を吐きながら、知生はちらりと携帯電話に目をやった。暗闇に浮かんだぼんやりとした光を眺めながら、私は残ったたこ焼きを口に運ぶ。
「ああ!」
一噛みしたところで、知生から爆音が響いた。私は危うく漏れそうになる生地を、慌てて胃に流し込んだ。
「っ! ごほっ。な、何よ急に。びっくりした」
「私とした事がすっかりと忘れていました。先輩!早くそれを片付けてください!」
知生は飛び出しそうなほどの勢いで食べ物達に指を向けた。
「片付ける? なに? どこかに行くの?」
「花火ですよ花火! これを見なきゃ何しに来たんだって話ですよ!」
確かにこの場所からだと花火は見辛い。けれどもう会場付近は人で溢れかえっていて場所取りどころではないだろう。
「流石にもう見られる場所なんて……」
「ふふふふっ。この日のために、特等席を用意してあるんですよ」
「うそっ。ほんとに? どこそれ?」
「うだうだ言ってる時間はありません! 早く片付けて行きますよ!」
知生の勢いに圧されるまま、私は荷物を一つにまとめた。
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