第19話
私が初めて竹刀を握ったのは、確か七年ほど前だったと思う。
思い返してみても、剣道を始めたことに大した理由なんてない。
たまたま通りかかった道場で、竹刀を振るう近所の兄ちゃんが格好よかったというだけ。実に子どもらしい単純明快な動機だった。
そこから両親に頼み込んで剣道教室に通い始め、私はどっぷりと剣道の魅力に嵌まり込んだ。
ぴりぴりと張り詰めた相手と私だけの世界。相手の腹を探りながら足を運び、打突部位に向け渾身の一撃を叩き込む。
自分の太刀筋が鋭くなっていく感覚がたまらなく好きで、私は日々欠かさず刃を振り続けた。
強くなることは楽しいことで、よって勝つための努力は苦でも何でもなくて、むしろ逆にそれをしない人間のことが理解できなかった。
そんな尖りは私に強さをもたらし、中学校を卒業する頃には世代最高の逸材の一人に数えられるまでになっていた。
もちろん推薦の話も来ていたが、家を離れることに乗り気じゃなかったし、通学に時間がかかるのも嫌だったので、安直に家からの近さで高校を選んだ。
どこでやっても剣道が楽しいことに変わりはない、なんて感性を持っていた私は、知生の高校選びに変だとは言えない奴だったのかも知れない。
高校生になった私の前にも大きな壁が立ちはだかることはなく、早々にエースと呼ばれ持て囃されることになる。
ここまでの私は、我ながらかなりイケていたと思う。私の剣道人生は、まごうことなく順風満帆の極みだった。
しかし同時に、徐々に努力というものに楽しさを感じなくもなっていた。
周りからの期待だとか、託された想いだとか、やる気のない他の部員だとか、そういった不純なものが徐々に積み重なり、竹刀を振る手はどんどん鈍っていった。今も鮮明に思い出せる、鉛のような感情。それでも私は期待に応え続けた。
息苦しさにもがきながら、転機となる高校一年目の冬がやってくる。
三年生が引退し、新たなチームが始動してからというもの、私が練習の舵を切ることが増えていった。
うちの高校の実力は高く見積もっても中程度で、初戦突破が関の山、というのが定位置だった。
もちろん団体戦は私一人でどうにか出来るものではない。それでも彼女であれば優勝に導けるのだろうという根拠のない周囲の期待が私を取り巻いていたのだ。
だから私は寝る間も惜しんで地区大会のデータを集め、少しでも勝率を上げるようにチームを回し続けた。
部員の長所が嵌るよう、負けが込まぬよう、最悪でも大将の私で同点にするまで持ち込めばいい。この時の私を突き動かしていたのは、楽しさではなく焦燥だった。
焦燥に駆られたまま、新体制最初の大会が始まる。
ほとんどの試合が代表戦までもつれ込む長丁場になったが、私の研究成果はパチリとハマり、決勝戦まで駒を進めることができた。
ここまででも未踏の快挙だが、欲に際限がないのが人間の性である。どれだけチームを勝利に導こうが、私を取り巻く期待は晴れることはなく、より重く、より深く、私にまとわり続けた。
そして決勝の舞台。徐々に熱を帯びていく声援や、焦りを見せ始める常勝校の面々が、優勝の二文字に現実味を持たせていった。
左右に揺らぐ天秤の下、大将の私へとタスキが渡される。これまで通り、私が勝って、ようやく優勝だ。
声援を背に境界線を超え、ぼんやりと揺らぐ相手選手の顔を見つめ、膝に激痛が走った事までははっきりと覚えている。
そこからの記憶はほとんどなくて、次に私の瞳が映したのは、淡く映る蛍光灯の光だった。
後で聞いた話によると、私は何をするでもなく面二本を受け、朦朧としたまま膝の痛みを訴え医務室に運ばれたらしい。
日々の過負荷による衰弱と膝靭帯損傷のダブルパンチが、決勝という最高の晴れ舞台で降り注いだのだ。有無を言わせぬ敗北。私は剣道で初めて周りの期待を裏切った。
ベッドの上の私はそんな事を知る由もなく、周囲の気配に耳を傾ける。
「この子が勝っていれば優勝出来たのに最悪。せっかく面接受けが良くなる話題をゲットしたと思ったのにさ」
ベッドから起き上がれない私に声が向けられる。この声は部員達だろうか。この言葉で、私はようやく自身の敗北を理解した。
そうか、私は負けたのか。滲み出る敗北の痛みが、じくじくと胸の奥を溶かした。
どうやら私の意識が少し晴れたことに気が付かない部員たちは、会話を続ける。
「ねー。言う通りに練習してた私達が馬鹿みたいじゃない」
「強いからって粋がってて、正直鬱陶しかったんですよね」
「わかる。なに張り切っちゃってんのって感じだった。完全に巻き添えじゃん」
「たかが剣道ごときにマジになるとかほんとダサいわ」
薄く開いた瞳を横に動かす。黒いフレームで縁取られた視界には、息を漏らすように嘲り笑う香月先輩の顔が映った。
朦朧としていて噛み砕くのに時間が掛かったが、咀嚼した分ゆっくりと言葉が身体に染み込んでいった。
先輩も、同級生も、私が優勝に導こうと思っていた連中は、挙って私の敵になっていた。私が聞いていないとなれば、口を揃えて悪意を吐き出す烏たち。心身共に私より深い傷を負っていた者などいるはずもないのに。
私はみんなの期待に応えようとしたんだよ。みんなが強い強いって祭り上げたから、私も気合入れて引っ張ってたんだよ。実際ここまでは負けなかったじゃないか。決勝まで来れたのだって、大将で頑張った私のおかげでしょ。ヒーローにしてくれたっていいじゃん。私頑張ったよ。褒めてよ。ここまでの事をなかったことにしないでよ。私が大好きな剣道に酷いこと言わないでよ。
今ならいくらでも出てくる文句も、この時の私には一つも出てこなかった。溢れたのは、ただただ申し訳ないという気持ちだけ。
私は期待を裏切った。私は勝たないといけなかった。倒れるほど頑張っても、それでも勝たなくちゃ意味がない。滲み続ける敗北の色が、どんどんと心を溶かしていく。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。何度も心の中で呟き瞼を下ろした。絞った栓から滴が溢れる。
部員が帰っていき母が迎えにくるまで、私の懺悔は続いた。
次の日から、私は怪我を理由に部活を休み始めた。怪我は本当にしていたからサボりというわけでは無かったが、なによりあの罵声達を聞いて普段通りに振る舞える気がしなかったのだ。
そして竹刀を握らない日々は私に不思議と安息をもたらした。怪我で剣道が出来ないという不安よりも、もう期待に応えなくていいという解放感が勝っていたのだろう。それが何より悲しかった。
楽しさからくる努力が期待からくる義務に姿を変えていたことに、私はようやく気がついた。私を支えていた何かがプツリと途切れる。
そんな私が退部届を提出するまでに、そう長い時間はかからなかった。
こうして私は、青春の死骸を手土産に竹刀を下ろす事を決めたのだ。
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