第18話

 気がつくと私達は、祭り会場から随分と離れた公園にいた。

 公園に入った途端、私は我に返ったようにはあと溜息を吐く。花火が上がる方向とは反対に歩いてしまったのは誤算だった。公園には人もいないし、祭りの気配など全くの存在しない。せっかくの楽しい気持ちが台無しだ。

「ごめんね、こんなところまで」

「先輩が無理やり引っ張ってくるから、お面を一個落としちゃったじゃないですか」

「それ、そんなに重要?」

「当たり前でしょ。大きな文句も言わず付いてきた私を褒めて欲しいくらいです。まだまだやりたいことがたくさんあったのに」

「ほんとごめん。えらいえらい。ありがとね」

 お面のついた頭をゆっくりと撫でる。汗で少し湿った髪が、束になり揺れた。猫のように身を反らせた知生は、じろりと私の方を睨みつけた。

「ところで、誰ですかさっきのは」

「一個上の先輩……。剣道部の時の」

「ああ、なるほど。逃げなきゃ駄目なほど嫌いなんですか?」

 私はゆっくりと息を吸い込んだ。それなりの距離を歩いたこともあってか、思考は随分とクリアになっていた。

「逃げたんじゃないよ。あのままあそこにいたら瓶で頭かち割っちゃいそうだったから」

「怖っ。珍しいですね。先輩がそこまで怒るなんて」

「冗談だよ冗談」

「本当ですか? 実際怖くて何も言えませんでしたし、目もキリって感じでしたし。野生動物みたいでした。がるるるるーって」

 知生の腕で水風船がぷよぷよと跳ねる。

 そういえば、彼女の前でこんな姿を見せたことはなかったかもしれない。いつもは引っ張られるばかりだったのに、有無を言わせず引っ張ってきてしまった。

 私は未だしかめっ面な知生の頭を更に撫で続けた。

「怖がらせてごめんね。ああ、癒される。枕元に置いておきたいわ」

「それはそれで怖いですからね」

「うそ。愛嬌をたっぷり詰めたのに」

「相変わらず愛が重いですね。ほら、せっかくですから焼きそばを食べましょうよ」

 やれやれと息を吐きながら、知生はベンチに向かった。装飾品で賑やかになった後ろ姿が、ゆらゆらと揺れる。

 祭も半端に終わり、花火も遠くなった。山ほど文句を言いたいだろうに、彼女はそれをしなかった。

 なんとも知生らしくなくて、どことなく知生らしい、そんな不思議な距離感。上辺の言葉じゃなくて、本当に私は癒されていた。

 怒りで離れたと思っていたけれど、私は間違いなくあの場から逃げ出したんだろう。

 怒りに傾倒した傍ら、向き合いたくない過去に私の大切な現在を馬鹿にされそうな気がして、怯えていたのだ。

 野生動物とは上手く言ってくれたものだ。その通りじゃん。恥ずかしい。

 私はベンチを陣取った知生に並んで腰掛ける。彼女は戦利品を整理しながら、買い込んできた食材を並べ始めた。

「随分とたくさん買ってきたんだね」

「コマキサ先輩の食いしん坊さを舐めないでくださいよ」

「本人に言うことかなそれ。流石の私もその量は――」

 並んだ食材たちが香ばしい匂いを放つ。ソースの独特の香りが私の気分を祭へと連れ戻した。じゅるりという音がなりそうなほど、急速に唾液が作られていく。

「食べられそうだね」

「プライドに持久力がないですね。全部食べちゃダメですよ、私も食べるんですから」

「むー生意気だなぁ。でもありがとう。慎ましくいただくわ」

「ガツンといっちゃってください!」

 どっちなんだよ、と脳内でツッコミを入れつつ、私は焼きそばを摘んだ。

 時間が空いたせいか熱々とは言い難かったが、濃い味付けが身体中に染み渡った。横では知生がたこ焼きを口に運んでいる。

「たこ焼きうまぁ。作れば安上がりなのにあんなぼったくりみたいな金額取られることも含めてお祭りの醍醐味って感じですよね」

「急にドライになるのやめてよ。冷めちゃうじゃん」

 このたこ焼きも、熱々だったらもっと美味しかっただろうな、なんて感想が浮かんだ直後、凄まじい勢いで申し訳なさが芽吹いてきた。

 この子は今日の夏祭りを楽しみにしていた。ぴょんぴょんと跳ねながら出店を回り、年甲斐もなく遊戯に勤しみ、こんなに大量の食べ物まで買い込んできてくれたのだ。熱くて火傷した、ドジだなぁ、なんて会話がこのたこ焼きで出来ていたはずなのに。

 それを私の身勝手な行動で台無しにしている。そんな事実がふと身に宿ってしまった。

「ごめんね」

 申し訳なさが私の口を動かした。

「もっとお祭りを楽しめたはずなのに、私がこんなところまで引っ張ってきたせいで――」

 動いていた私の口が蓋をされる。冷めたソースの味が口に広がる。気がつくと、知生がたこ焼きを私の口に放り込んでいた。

「過ぎたるは及ばざるが如し。謝罪は一度貰いました。二度もいりません」

「でも――」

 言葉を封じるように、もう一度口にたこ焼きが放り込まれる。くそ、なんでこんな時に限って大玉なんだ。

「でも、じゃないです。私は今を楽しんでるんです。水を差さないでください」

 でも、もっと楽しい時間を過ごせたかも知れないじゃない。そう言おうと口を開いた途端、再びたこ焼きが放り込まれた。口の中がたこ焼きまみれだ。息ができない。

 私は急いでそれらを咀嚼し、水で一気に流し込んだ。

「ち、窒息するわ! わんこそばかよっ!」

「蕎麦じゃないですよ」

「わかってる! 例えだよ!」

 深く息を吐きながら、私はもう一度水を口に含んだ。歯に青海苔が付いてたらどうしましょう、なんて麗しいことも考えられないほど、必死に水を流し込む。

 もう色んなことが水と一緒に胃袋に流れていった気がした。

「私はどこにいたって楽しいです。こんな私に付き合ってくれるお人好しもいることですし。だから、必要以上に謝るのは禁止ですよ」

「わかったよ。ありがと。これでいい?」

「よくわかってるじゃないですか」

 知生は愉快そうに微笑んで遠くの空を見上げた。視線の先には薄く星が浮かんでいる。

 なんて綺麗な横顔なんだろう。強くて鋭い瞳が、私の心を動かした。

 彼女ぐらい強かでありたい思った。私と一緒に楽しんでくれている彼女に水を差さなくて済むように、逃げ出さない自分でいられるように。

 そのためには、やっぱりあの過去は綺麗さっぱり流しておかないといけない。熱くて脂っこくて胸焼けしそうでも、ちゃんと飲み込まないといけない。

 そう思った私は、知生と同じように空を眺めて口を開く。

「昔話していい?」

 知生の顔がこちらを向いた。どんな顔をしているかはわからないが、言葉無くゆっくりと頷いた気配があった。

 知生に話すことが向き合うことになるかはわからない。けれどこの話は、両親にも親友だった人間にも、佳乃ちゃんにも隠してきた、誰にも打ち明けなかった私の向き合いたくない過去だ。

「私の記憶の一番嫌なところ、知生には知ってほしい」

 そう言葉を置いて、私は過去の記憶に想いを馳せた。

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