第17話
怒涛の夏休みも残すところ数日。
四十日弱の夏休みは、矢どころか鉄砲玉のような速度で進み、退屈する暇すらもなかった。
海にも行った。山にも行った。市民プールにも行ったし、キャンプもしたし、知生のバイトも手伝ったし、なんなら行く気のない大学のオープンキャンパスに顔を出したなんてこともあったか。
そして今日は夏祭り。この夏の風物詩とも言えるイベントが知生いわく、夏休みリストの最終項目らしい。
ひしめく色に目が眩みそうな日々だったが、これで夏休みが終わってしまうと思うとどこか寂しさすら感じてしまう。
こんな気持ちは、きっと夏を全力で謳歌した何よりの証拠だろう。なんとも私らしくない。
ぼんやりと待ち合わせ場所に足を運ぶと、人混みに紛れて知生と思われる影が見えた。
彼女は手元の携帯電話をいじっており、こちらに気付いた様子はない。私は拙い足元を必死に動かして知生に近づいた。
「おっす。かわいいお嬢さん。私とお茶しない?」
私に肩をぶつけられた知生は、嫌そうな顔を浮かべて携帯をポーチにしまい込んだ。仕返しとばかりにぶつけられた団扇の面が私の視界を遮る。
「ナンパはお断りです」
「ふふっ。お待たせ。待った?」
団扇を退け知生の全身を眺める。薄いオレンジ色の花柄があしらわれた浴衣は、肩口で揃った髪によく似合っていた。
薄い光で照らされていることもあってか、普段の爆発的な行動力が想像できないほど慎ましい様だ。
じろじろと姿を見られたことが不服なようで、知生は少し身をよじった。
「今来たところです。先輩が時間ギリギリに来るなんて珍しいですね」
「いやぁ。慣れない服は着るもんじゃないね。時間がかかって仕方がないよ」
「慣れなさすぎて別人に見えます。デカくて綺麗な怖い人が絡んできたのかと思いました」
「褒められてるような……貶されているような……。というかどうよ? この浴衣姿」
私はその場でくるりと一回転して見せる。
ひらひらと揺れる落ち着いた色合いの浴衣は、我ながら私のポテンシャルを最大限に引き出していると思う。
ゲレンデマジックならぬ浴衣マジックとでも言うべきか。今ならそこいらを歩く男の一人や二人、簡単に落とせるんじゃないだろうか。というか落ちろ。
私がくだらないことを考えているうちに、仕返しとばかりに知生から視線が注がれる。
「綺麗な色の浴衣ですね」
「でしょー! って浴衣だけかよっ。知生のもいいね。かわいい。ちょっと回って見せてよ」
「嫌です」
「なんでよー」
「しのごの言ってないで早くいきますよ!」
「えー」
感慨にふける間も無く、知生は人混みの方へと歩き始めた。うーん。後ろ姿も可愛いなあ。あれと並んで歩いたら、また私が大女に見えてしまいそうだ。まあいいけど。
こちらに気を止めることもなく弾む足を、私はいそいそと追った。
人混みをかき分けながら、私達は出店を巡った。
この地域では毎年花火大会が行われており、絶好の位置にあるこの神社には賑やかな出店がたくさん並ぶ。
それに合わせて、老若男女問わずこの一帯は人で溢れかえるのだ。そろそろベストポジションの陣取りが始まる頃だろう。
がやがやという喧騒や、香ばしさが混ざった匂い。時系列がバラバラなヒーローを模したお面達。時刻を忘れてしまうほどの光量。全ての情報が高揚感を煽ってくる。
徐々に近づく祭囃子に合わせて、私はかりかりとりんご飴を齧った。
「やっぱり人が多いなぁ。大丈夫? 潰れてない?」
「優秀なボディガードのおかげでなんとか生てますよ」
「私のことを言ってる?」
「当たり前でしょ。ああ、やりたいことが多すぎる! ジャージで来ればよかったです」
「風情のかけらもない……」
私に袖を掴まれながら歩く知生は、デパートではしゃぐ子どものように目を爛々と輝かせていた。
出店を巡り始めて一時間は経過しているのに、未だ彼女の勢いが衰える様子はない。
最初はあんなにも可愛かった後ろ姿には、もうお面が三つも付けられている。
もういくつ店を回ったかも思い出せないし、このままこのわんぱくケルベロスに付き合い続けていては私の身が持たない。
「ねえ、ちょっと休憩しない? 歩き疲れちゃった」
「えーっ! まだまだこれからでしょ!」
「足とか超痛いし」
「コマキサ先輩。食べたい物はありますか?」
なぜ急に食べ物のことを聞かれたのかは全くわからなかったが、私は胃袋に相談を投げかけた。
手には半分ほど残ったりんご飴、さっき食べた諸々。満足には程遠い。
「そうだね……やきそばとか?」
「流石の食い意地。先輩はあっちの木陰で休憩しててください。偵察がてら買ってきてあげますから」
「一人で行くの?」
「一瞬で帰ってきますから!」
「ちゃんと戻ってくるんだよー?」
私の言葉が到達したかどうかもあやふやなほどのスピードで、知生は人混みの中へと消えて行った。
なんという生命力なのだろうか。花火までに疲れ果ててしまわなければ良いけれど。
はあ、と溜息を吐いた私は、適当な出店でラムネを買い、ふらふらと人気の少ない方へと足を進めた。
木陰には人もおらず、加えて少し祭りの気配が遠くなったせいか、なんだかとても孤独な気持ちになる。
カップルであればムーディなシチュエーションかもしれないが、今の私にこの減色は心許ない。私は意味もなくしゅわしゅわと弾ける炭酸を眺めた。
「夏休み、楽しかったな」
無意識に口から独り言が漏れた。
もうすぐ高校二年生の夏が終わる。今日みたいな楽しい時間も、泡のように思い出となり、日々に混ざって溶けていくのだろう。こんな寂しさも今は愛おしく思える。
暗闇に小さな笑みが浮かぶ。それに呼応するように、雑草がかさりと音を立てた。
「あれ? 小牧?」
突如かけられた声に私は驚き身を揺らした。赤い提灯を背景に、数人の影が見える。そのうちの一人が徐々にこちらに近づくにつれ、影が鮮明になってくる。
「やっぱり小牧じゃん。久しぶりだね」
「香月先輩……。お久しぶりです」
こちらに近づいてきたのは、一つ年上の先輩だった。それも剣道部の。先ほどまでの高揚感が、彼女の登場に合わせ一瞬で色を変えた。
「こんなところで何やってんの?」
「友達と遊びに来ていて、休憩中で……」
「ふーん」
じろじろとこちらを見る目が、重力を発生させたかの如く身体を重くする。嫌な思い出に蓋をするように、私は言葉を発した。
「先輩こそこんなところで何を?」
「小牧っぽい人影が見えたから見に来たの。さっき文香達にも会ったよ」
「そうなんですね」
「ほんと久しぶり。いつ以来だっけ?」
「半年ぶりくらいじゃないですか?」
「もうそんなに経つかぁ」
「早いもんですね」
適当な相槌を返し、私はすがる様にラムネの瓶を強く握った。
どの面下げて、という憤りがふつふつと煮え始める。
認識というか、価値観は本当に人それぞれなんだなと思い知らされる。私はこの人には会いたくなかったし、見かけても声なんてかけない。
なんと言っても、私が剣道を辞めた一因が彼女たちにもあるからだ。
実際ドロドロとした忘れたい感情が溢れてきているし。文香という剣道部時代の同期の名前も、嫌な感情を生み出す要素にしかならなかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼女は呑気に言葉を放る。
「受験勉強の息抜きに来たけど、こうも人が多いと嫌になるわね」
「部活はどうしたんですか?」
「早々に負けて引退したわ。文香に聞いてないの?」
「はい……。最近会ってないので」
もう一度聞きたくない名前が目の前に姿を現した。私の返答に彼女はわかりやすく眼を丸くした。
「同じ学年なのに? あんた達仲悪いの?」
「いえ、そういうわけでは」
「ふーん。そっか。あんたも私ももう剣道部じゃないんだから、そんなにかしこまらなくていいよ」
「はい」
私は精一杯の営業スマイルを浮かべた。あまりにケロっとした彼女の様子に、内心腹わたが煮え繰り返りそうだったが、ここで本心を出せるほど私は無邪気ではない。
それよりも文香達も来ているということも分かったのだから、一刻も早く祭り会場から離脱したくてたまらないのだ。
会話を終わらせる言葉を探したが、私が口を開かない事をいいことに、彼女はさらに会話を続けた。
「怪我は治ったの?」
「えっと、まあだいたいは」
「剣道部に戻らないの?」
「どうでしょうね」
「戻ればいいのに。あんた強くてみんなの憧れだったんだから」
「そう……ですか」
わざとらしく息を漏らし、私は残ったりんご飴を齧った。しゃりしゃりと感情を削ぎ落としていく。
ぶん殴ってやりたい。思いっきり。飴の方の手がいいか、瓶の方の手がいいか。憎悪を奥歯に詰め込み、ゆっくりと噛み砕く。
張り付くような甘みが口内を満たしていく。
「お待たせしましたぁ。焼きそばでぇーす」
落ち着かず下駄を眺めていた私に、言葉が降り注いだ。
遅いよ、知生の阿呆。顔を上げると、両手に大量の戦果を抱えた知生が、ゆっくりと私たちに近づいて来ていた。
「おや? お客さんですか」
キョトンとした顔を浮かべる彼女を見て、香月先輩はふっと息を漏らした。
「あはっ。最近おかしな後輩とつるんでるって噂、本当だったんだ。ウケる」
からんとビー玉が揺れる。ふっと上がってきた血液を抑え込むため、けらけらと笑う顔に睨みを返す。
もう限界だ。これ以上こんなところにいてはいけないという危険信号が、私の身体を動かした。
「誰ですかこの失礼な人は……ってちょ」
「ツレが来たんで失礼します」
私は返答も待たず、眉を顰める知生の手を引いて歩き出した。なんですかと苦情の声が聞こえるが、それを無視して人混みを割って行く。
よく我慢した、偉いわ沙夜子。むかつく。ああむかつく。憤りを下駄に込め、かつんかつんと足を進めていく。
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