残光と火花

第15話

 ガラス越しに見える空にはペンキをこぼしたような青色が広がっている。

 待ちに待った夏休みのスタートは、眼が眩むほどの快晴だった。

 浅い瞬きと共に私は栞を文庫に挟み込んだ。光を吸い込んだ白に、鮮やかな赤が映える。窓際の席を選んだのは失敗だったな、なんてことを考えながら文庫を閉じる。

 フィクションから少し抜け出せていない、そんなぽやぽやとした感覚のまま、私は二つ目のドーナツを口に運んだ。

 夏休み初日にも関わらず、知生からの呼び出しによって今私は駅前のドーナツ屋にいる。

 無駄に朝早くに目が覚めて、普段は見ることのない情報番組を流し見し、進まない時計の針にうんざりしながら家を出たのが二時間前。そうして時間より大幅に早く集合場所に着いてしまった次第である。

 日差しを吸い込んで柔らかく揺れるアイスティーを眺め、イヤホンから流れる小粋なインストに身を揺らし軽食を摘む。私はなんと優雅なんだろうか。

 退屈を紛らわせるためイヤホンのコードをクルクルと回していると肩を叩かれた。軽く視線を向ける。ちんちくりんな体躯が目に入り、私はゆっくりと耳からイヤホンを外した。

「おはようございます」

「おはよう」

「本当にお早いですよ。なんでもういるんですか? 待ち合わせ時間を間違えたんですか?」

 訝しい顔を浮かべ、知生が私の隣に腰掛けた。柑橘系の涼しげな匂いがふわりと浮かぶ。

 今日の知生は肩出しのトップスにフワリとしたロングスカートを身につけていた。ウィッグは付けていないようだが、勉強会の時の私服とは違い、随分と力が入っているように見える。眼福この上ない。

 心の浮きを悟られぬよう、私は大きく伸びをする。

「早くに目が覚めちゃってね。暇だったから来ちゃった」

「ドーナツ食べてるし。相変わらずの食いしん坊ですね」

「うるさいなぁ。小腹が空いたんだから仕方ないでしょ」

「そんなことより! 記念すべき夏休み一発目のちいリストですよ!」

 知生は溢れんばかりの笑みをこちらに向け、ポーチからノートを取り出した。きっちりとした字体が白いページに浮かんでいる。

「ちいリスト79、女子高校生っぽいことをして楽しもう……。随分とアバウトだね」

「聞くところによると、私が女子高校生でいられるのは、あと二年と半分ほどしかないらしいじゃないですか」

「なんで伝聞なの? でもそうだね。じゃあ私は残り一年半だ。早いなぁ時間が経つのは」

「せっかく女子高校生という肩書きがあるのに、それに即したことをしないまま高校生活を終えるのはどうかと思うんです」

「……珍しく一理あるね」

 私はもう高校生活の半分近くを浪費したことになるのか。急に現実を目の前に提示されたような気分だ。だからどうというわけではないが。

 感慨深さに耽る間もなく、知生から言葉が飛んでくる。

「ということで行きましょう! ほら、早く!」

「ちょっ、待ちなさいよ」

 彼女はすくりと立ち上がり、出口に向かって歩き始めた。私は急いで持ち物を鞄に仕舞い込み、トレイを返却口へと戻し知生の後を追った。

 知生の足が向かったのは、駅近くの商業施設だった。

 夏休み初日ということもあってか、普段の平日では見られない多さの人が行き交っている。

 ずかずかと自動ドアを潜った彼女は、ようやく足を止め堂々と腕を組んだ。

「まずはショッピングです。うーん。これぞまさしく女子高校生ですね」

 彼女には目の前を行き交うファミリー達が見えていないのだろうか。というか、これは本当に夏休みじゃないと出来ないことなのだろうか。

 私は浮かんだ疑問を溜息に折り込み、知生の肩に手を置いた。

「そうでもないでしょ。小学生も中学生もいっぱいだよ。特権感はないよ」

「御託は結構。こういうのは先輩の方が得意でしょ。ほら、案内してくださいよ」

「御託って……。まあいいわ。それじゃあとりあえず適当にぶらぶら見て回る?」

 知生はふんふんと息を吐きながら首を振った。

「貴重な初日、無駄にしている時間はありません。狙いを絞っていきましょう」

「あっそう。服でも買いに行く?」

「いりません。夏物はもう買い揃えましたし」

「はやっ。じゃあ小物とか」

「愛でる趣味はないですね」

「えっ。じゃあ雑貨?」

「生活に必要な物はある程度ストックしてあるので」

「あなた何しに来たの?」

「青春をしにきたんですよ!」

 お話にならない。ダラダラとなんとなく時間を使うことも女子高校生の醍醐味なのだ。というか今のが全却下されたらいよいよここに来た意味が無くなってしまう。

 でも確かに、くだらない事を話しながら何となく時間を過ごすとか、この子は苦手そうだな。

 もう一度炎天下に連れ出されるのも勘弁願いたいし、ここは私が一肌脱いでやることにしよう。

「ああもうわかったわ! しのごの言わずについてくる!」

 私は知生の手を引き、ショッピングモールを歩き始めた。


「コマキサ先輩はいつもこんなところで服を買ってるんですね」

「普通でしょ。ってまあちゃんとしたとこで買い始めたのは最近なんだけど。知生はどこで買ってるの?」

「私は適当に買ってますよ」

「微妙に返事になってないんだけど……」

 私は知生を引きずりながら、とりあえず目に入った服屋に足を踏み入れた。女子高校生っぽいかと言われれば甚だ疑問ではあるが、ちょうど服も欲しかったことだし、せっかくの機会を利用してやろうと思ったわけだ。

 店内には夏らしい生地の薄い服が多く並んでいる。ふんふんと彩りを物色していると、じっと服を眺めていた知生からお呼びがかかった。

「先輩。これ着てみてください」

「えっ、何急に。いやいや、これはちょっと」

「いいからいいから」

 知生は押し付けるようにハンガーを二つ私に手渡し、試着室の方へと押しやった。

 促されるまま試着室に入った私の手には、普段絶対に選ばない色合いの服が握られていた。しかも露出も多いし、背が高い私には似合わなさそうだし。

 自分に似合わない服の把握ぐらいはしている。だからこそ、知生が渡してきた服は身につけるのに勇気が必要な物だった。

 しかしまあ、試着室であれば似合っていないという針のような視線を避ける必要もない。着るだけならいいか。私は意を決して袖を通し、カーテンを開けた。露出された肩をカーテンがゆるりと撫でる。

 試着室前で待機していた知生が、パチリと目を見開いた。

「ど、どうかな?」

「いいじゃないですか。そういうのも似合うと思ったんですよね」

 クルクルと身を揺らす私を見て、知生は満足そうに頷いた。よかった。似合ってないですね、なんて言葉を向けられていたら、この直方体から出られなくなるところだった。

 改めて鏡で自身の全身を眺める。知生の言葉あってのことかもしれないが、思ったより良く出来ている。うん。割とイケてる。

「普段着ないタイプだから敬遠してたけれど、案外悪くないね」

「でしょー! 服なんて着たい物着れば良いんですよ」

「いや、これあなたが勧めたやつだからね」

「そうでしたっけ?」

 とぼける知生を無視して、私はカーテンを閉める。なんであの子はこんなにも適当なんだ。

 でもまあ、確かに普段着ないタイプの服の割に着心地はすこぶる良い。新たな発見をさせてもらった。記念としてこれは買って帰ろう。

 着替え終わった服を畳み試着室を出ると、さらに服を物色する知生の姿が目に入った。

 来た時にはぶつくさ言っていた彼女は、意外にもちゃんと買い物に付き合ってくれてる。ただただそれだけの事なのに、何か特別なことのようで嬉しかった。

 どうせなら知生にも何か着せてやりたいと思った私は、品定めをしながら彼女に近づいた。

「知生も私のおすすめ着てみてよ」

「私は買いませんって」

「合わせるだけなら良いでしょ。私が見てみたいだけだから」

「はあ? なおさら嫌なんですけど」

「ほらこういうのも女子高校生っぽいし! 今日の目標は何? ちいリストだよ!」

 適当な理由を付けてゴリ押してみる。

「……そう言われてしまえば、仕方ないですね」

 案外すんなりと頷いた知生にぴったりの服を探す。

 着せ替え人形で遊んでいるような高揚感のもと選んだ服を知生に手渡し、私の時と同じように試着室に押してやった。

 少し待つと、着替え終わった知生がカーテンを開けた。フリル多めのガーリーな服装に身を包んだ知生が堂々と私の前に姿を現した。

 うん、見込み通り可愛い。最高。今ならみんながネットに写真を晒している気分がわかる気がする。

 私は急いで携帯電話を取り出しカメラのボタンを押した。かしゃりという音が店内放送をかき消した。

「かわぁ……写真撮って良い?」

「言語が不自由ですね。そういうのは撮る前に聞くんですよ」

「はぁ……。これだけ可愛ければSNSで大バズりだよ。ありがとう」

「載せたら携帯ごと鼻頭を叩き割りますからね」

「こっわ」

 唐突の犯行予告だけを吐き出し、知生は勢いよくカーテンを閉めた。

 その後、結局私だけが服を購入し、新たな紙袋を提げて店を出た。なんだかんだ言って普通に買い物に付き合わせてしまった。

 まさかこの子と普通にショッピングを出来る日が来るとは思わなかった。いい服がないから作りましょうぐらいのことを平気で言ってきそうなのに。いや、今後言われるかもしれないな。

 今日ばかりは、私の持てる知識全てでこの子に女子高校生っぽい事をさせてやろう。そう心に決めた私は、隣を歩く知生に言葉を向けた。

「よしっ。次は流行りに便乗しにいきましょう!」

「なにするんですか次は」

「やっぱり映えだよね、映え。映えるものを食べに行こう」

「さっきドーナツ食べてたじゃないですか」

「デザートは別腹なの。ほら行くよ」

 定番のセリフに眉を顰める知生の手を引き、私はショッピングモールを闊歩した。


「そういえば先輩って意外と文学少女ですよね」

 忙しく動いていた知生の足は、本屋の前でスピードを落とした。

「意外とは……?」

「言葉通りですよ」

 歩みを止めた私達の目の前には様々な文庫が陳列されていた。

 この商業施設の本屋は、地域でも最大規模のものだ。並ぶ文庫に心を踊らされながら、表紙を物色していく。

 失礼な知生の言葉に溜息を返しつつ、私は適当な表紙を指差した。

「だってさ、物語っていいと思わない? 自分以外の人生を歩んでいるみたいで」

「まあ、わからなくもないです」

「でしょ? ほら、本の中だと何にでもなれるじゃない。私ってあんまりやりたいこともないからさ。冴えない現実の憂さ晴らし、みたいな」

 両手を合わせてそう言った私に、知生は大きな笑みを返した。私はそんなにおかしな事を言っただろうか。

「本の中だけじゃなくって、現実でだって何にでもなれますよ。心持ち次第で」

 知生はさらに笑みを深めたあと、大きく息を吐いた。何気ない動きのはずなのに、何故だかそれが私には魔法のように見えた。

 つむじと入れ替わるように、まん丸な瞳が私を捉えた。そのまま彼女はゆっくりと私の腕に巻きついてくる。

「沙夜子お姉様。次はどこへ連れて行ってくださるの?」

「えっ」

「わたくし、お姉様とこうやって一緒に外出できる日を、病床でずっと待ち望んでおりましたの」

「は、はあ」

「愛するお姉様との僅かな一時が叶えば、わたくし、死さえも恐れることはありませんわ」

「え、ええ……」

 スイッチが切り替わったような知生の突然の豹変に唖然としてしまう。

 なにが起こったのだ。この本屋は変な時空に繋がっていたのだろうか。

 呆気にとられ言葉を失っていると、右腕に擦りつく小動物が、ちょいちょいと私の鞄を指差した。

 私の鞄の中には、化粧ポーチと携帯と財布。後は暇つぶしの文庫本くらいしか入っていない。ここまで内包物をなぞって、ようやく思考が文庫本へと留まった。そうか、本か。

「あ、わかった! 花江ちゃんだ!」

「ピンポーン。さすがお姉様ぁ」

「怖いよ急に……」

 知生は片足を上げ、両腕で大きな丸を作った。

 花江ちゃんとは、私が今朝読んでいた本の登場人物だ。姉の事が大好きな妹ちゃん。そんな彼女に知生は成り切っているのだろう。

 いつの間に私が読んでいる本をチェックしていたんだ。

 ようやく状況の整理が出来始めたタイミングで、知生はすっと私から距離をとった。仮面が剥がれたように、いつもの知生が帰ってくる。

「ほらね、現実でだって、強く思えば何にでもなれるんですよ。いつでも心は自由です」

「それが言いたかったのね」

「はい。空っぽだとかなんとか言いながら、先輩はいつも窮屈そうですから」

 さらりと心を撫でられた気がした。視界に映る背表紙達が、急に様々な色をこちらに向けてくる。

 窮屈。なるほど。私が日々抱えていた重さにぴったりの言葉だ。今の何気ない会話で、私はそんな心象を吐露していたのか。

 この子は本当に私の心をくすぐるのが上手い。普段は全くと言って良いほど共感力がないくせに、なんだかんだ私の事をよく見ている。いつもいつもそれがこそばゆい。

 こんな言葉どうせ彼女は受け取ってくれないし、何より素直に伝えてやるのは悔しい。

 私は言葉の代わりに、跳ねるように知生の腕をとった。

「窮屈か……ふふっそうかも。じゃあ今日くらいは、自由な時間に付き合ってもらうね」

 腕を取られ身を引いた知生は、私の顔を見た後、ふっと呆れたように息を吐き足を進め始めた。

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