第14話

 空気がなまじ読めてしまうというのも考えものだと思う。

 いつもと同じ、むしろ夏休みを目前にして色めきがあるはずの教室が、私には薄暗い檻のように見えた。

 教室では誰も私と目を合わせようとしないし、いつも気軽に近づいてくるみちるでさえ今日は話しかけて来なかった。

 小牧沙夜子をシカトしよう、という号令でも出ているのだろうか。昨日の今日でこれとは、手が早いことこの上ない。

 本来であれば絶望的なこの状況に、本でも読んで適当に乗り切ろうだなんて楽観思考を返せたのは、自身が孤独ではないという自負が生まれたからだろう。こんな状況、今の私にはかすり傷にもならない。

 そんなこんなで一言も発しないまま一日の授業行程が終わり、空き教室に向かう頃にはすっかりいつもと変わらぬ私になっていた。

 いや、テスト結果のおかげでむしろいつもより高揚しているぐらいだった。

 ふんふんと鼻歌を口ずさみながら扉を開けると、空き教室には既に佳乃ちゃんがいた。

「おや、こまちゃん。遅かったね」

 机に大量の書類を並べた彼女は、我が物顔で教室を占拠していた。私はなんなら終礼後いの一番にここに向かったのだ。随分と前からその場にいたような素振りを見せている彼女の方が明らかにおかしい。

「佳乃ちゃんが早いんだよ」

「佳乃ちゃん、じゃなくて山上先生ね」

「はいはい」

 定番の返しをする佳乃ちゃんは、たまにこうやって職員室から逃げ出してくる。

 本当はこのために教室の使用許可を取ったのではないかとさえ思ってしまうほど、彼女はこの教室の景観に馴染んでいた。私としてはありがたい話なのだが、この大人は本当に大丈夫なのかといつも心配になる。

 そんな彼女の周りに人影は見えない。

「あれ? 知生は?」

「終礼後すぐに教室から出て行ったけど……。どこに行ったんだろう?」

「そっか。あの子本当に猫みたいだね」

 私は書類を並べる佳乃ちゃんの向かいに腰かけた。机を彩る古文に嫌悪感が湧かなくなったのも、この一週間の成果かもしれない。

 というか、佳乃ちゃんは現代国語担当なのに、何故古文のプリントが机を占拠しているんだろうか。例ならずあやし。

「なにやってるの?」

「楽しい楽しいプリント作成だよ」

「古文? 佳乃ちゃん今年は古文も教えてるの?」

「ううん。受験生からリクエストがあったから作ってるの。一応国語の先生だからね。でも本職の先生がいる手前、現文教師が出過ぎた真似をするのも角が立つから、こそこそしてるの」

 わざとらしく声を潜める佳乃ちゃんは、ふふんと息を吐いた。なるほど。それでここに来てせっせと作業に勤しんでいるわけか。

「あーあ。私も佳乃ちゃんに古文教えて欲しいな」

「珍しい。こまちゃんが勉強しようとするなんて」

「いつまでも勉強しない私だと思ったら大間違いだよ」

 私は水を得たように鞄の中から答案用紙を取り出した。かつて副担任だった佳乃ちゃんであれば、この一枚の希少価値が分かるはずだ。

 ぱらりと目の前に差し出された紙を見て、佳乃ちゃんは目を大きく見開いた。

「は、八十二点? 嘘でしょ? なにこれ、ドッキリ? リアクションを試されてるの?」

「嫌な驚き方しないでよ。正真正銘、今回のテスト結果だよ」

 私が佳乃ちゃんに向けたのは、今日返ってきたばかりの化学の答案用紙だ。

 彼女が驚くのも当然で、私自身、これが返ってきた時はなにが起こったのかよくわからなかった。

 高校生活を通して一番苦手としている化学で、赤点回避どころか平均を数十点上回る点数が返ってきたのだから。

 佳乃ちゃんは私から答案を奪い取り、ふるふると身を震わせた。

「凄い! 凄いよ! びっくりしちゃった」

「どうよ。私だってやれば出来るんだから!」

「それは先生もずっと言ってたじゃん。やらないのが難点だっただけで」

「そ、そうだね」

 口を尖らせる佳乃ちゃんに対し、少しの申し訳なさが生まれる。

 彼女は私が本気になれないと分かった上で勉強をやれと強くは言ってこなかったし、私もそれに甘えきってきた。

 そんな状況を知らぬところでいとも簡単に払拭してきた私を見て、ひょっとしたら腹の一つでも立てるかもしれない。

 しかし、どうやらそんな私の考えは杞憂だったようだ。

「自分の事のように嬉しい。頑張ったね、すごく偉いよ!」

 心底嬉しそうに笑みを浮かべる佳乃ちゃんを見て、罪悪感の濃度が上がってしまった。

 こんな天使のような人の言葉でも点かなかった火が、知生の言葉で簡単に点いたことが、今になってものすごく失礼なことのように思えてきた。

「ごめんね」

「ん? どうしたの?」

「いや、佳乃ちゃんさ、結構気に掛けてくれてたじゃん? それでも頑張れなかった私が今になって力を入れるって、なんか感じ悪いよね」

 私の吐露を聞いて、少しぽかんと間を空けた佳乃ちゃんは、スイッチが入ったように息を漏らした。

「相変わらず空気読みすぎガールだなぁこまちゃんは」

 くすくすと笑いながら、佳乃ちゃんは答案用紙の点数を指でなぞった。

「生徒の成長を見て素直に喜べないような先生じゃないよ私は。その動機が私じゃなくっても、嬉しいことには変わりないんだぜ」

 答案用紙を机にぶつける佳乃ちゃんは、人差し指とウインクをこちらに向けた。差してきた西陽に反射して、薬指がきらりと光る。

 大人だなぁ、と思った。ちゃん付で名前を呼ばれるほど子どもっぽくて、すぐに職員室から逃げ出してくるし、無邪気なリアクションをくれる佳乃ちゃんも、間違いなく私より辛苦をたくさん味わった大人なんだ。

 だから私が懸念したようなことで相手嫌うほど、余裕がないわけがなかった。佳乃ちゃんの言葉通り、要らぬ空気まで読みすぎたのかもしれない。

「佳乃ちゃんは大人だなぁ」

「君が入学した頃から、私は大人だったでしょー?」

「そうかもね」

 胸を張る佳乃ちゃんは、やっぱり子どもっぽくて可笑しかった。

 でもこの余裕が私やアキ、クラスみんなにあれば、きっと私が今日のようにクラスで孤立することもなかったのだろう。

 誰が偉いだとか、誰のおかげだとか、そんなしがらみ無くたって、私たちは楽しく生活が出来るはずなのに。立ち位置だけを気にして生きるなんて、青春のリソースの無駄遣いだ。

 ふと、私の中に疑問が芽吹いた。

「あのさ、大人になるってどんな感じ?」

「なんだね急に。思春期だなぁ」

「いいじゃん、教えてよー」

 私の質問に、彼女はうーんうーんと呻き声を上げた。

「そうだなぁ。色んなことに責任感を持つようになったとか、他の人を尊重できるようになったとか、そんな感じ?」

「あやふやだなぁ」

「質問が難しすぎるんだよ。こればっかりはこまちゃんがどういう時間を過ごすかによっても変わるだろうし……。的確な答えを用意するのに数ヶ月を要するよ」

 困ったように笑う佳乃ちゃんを見て私も笑った。きっとこの答えは、私が自分で見つけていかなければならない物なのだろう。今私が抱えているいざこざも、成長痛と考えれば多少心地よい。

 こうやって気軽に話ができる人が近くにいるというのは、とてもありがたいことだと今でははっきりとわかる。知生にしろ佳乃ちゃんにしろ、きっと私は今恵まれた環境にいるのだ。

「ねえ、来年はちゃんと私の担任になってよ」

 私は無茶なお願いを嘯いてみる。佳乃ちゃんは笑みを深めて指を振った。

「そればかりは約束出来ないなぁ。決められた配置で頑張るのも大人だから」

「なにそれ、都合いいね」

 くすくすと笑い合う私達の声を遮り、教室の扉が開いた。勢いよく開いた扉から、小さな人影が姿を現す。

「やあやあ皆様! お待たせしました!」

 元気よく室内に入ってきたのはもちろん知生だった。彼女は放り投げるほどの勢いで鞄を置き、空いた席に腰掛けた。

 ふわりと浮いたプリントを素早く受け止めた佳乃ちゃんが、そそくさと知生の前にスペースを作る。

「おつかれちーたん。遅かったね」

「は? たん付けとかキモいです。キモキモです。レバーです」

「き、キモって……」

 返す刀で罵倒されてしまった。しかも恐ろしく苦い顔で。予想はしていたけれど、あの可愛い可愛いちーたんはここには来てくれなかったようだ。

 いろいろと突っ込みたくなったが、テスト結果を自慢したい気持ちが勝ってしまった私は、急いで今日返ってきた教科の答案を全て机の上に置いた。合わせて佳乃ちゃんが化学のテストをそれに重ねる。

「言ってた通りバッチリだったよ。返ってきてないのは自信のある教科だけ。見事赤点回避! ――多分!」

「先輩ならそのくらい当然ですよ。これで夏休みの計画は安泰ですね」

「うん、そうだね」

 ぺらぺらとテストをめくった知生は、さらりとそれを私に突き返した。

 さっきの佳乃ちゃんの反応を見た後だから余計にかもしれないが、少しだけ寂しい気持ちになってしまった。

 なんという我儘な感情なんだろう。あれだけ手伝ってもらっておいて、私はまだ褒め言葉が欲しかったらしい。

 知生に他人への興味を期待するなんて、愚かなことをしてしまった。肩を落としてテストを鞄にしまう私に、知生から声が飛んでくる。

「先輩、口を開けてください」

「えっ、な、んぐっ」

 顔を上げ言葉を発した途端、口に何かを放り込まれた。柔らかい甘味がじわじわと口の中を支配していく。

 文句を言ってやろうと思ったが、口内に蔓延る甘さがそれを許さなかった。甘い、美味い、なんだこれ。

 咀嚼が終わった頃にようやく、知生から放り込まれたのがチョコレートだということを理解した。知生の手元には、値が張りそうな外装が見られる。

「これって……」

「ご褒美です。まあもう飲み込んだあとでしょうけど」

 それだけ言って知生はそっぽを向いた。まさか褒美を用意しているなんて。差し詰め、冷たい口調の影に隠れた労いなのだろう。そうに違いない。

 あまりの唐突さと、落胆からの反動で、心が甘く溶かされてしまった。

「やばぁ。なにそれキュンときたぁ」

「えっ、気持ち悪っ」

「もう気持ち悪くてもいい。かわいい。好き」

「囁きがキモすぎです!」

 知生は心底嫌そうに私の手を払った。

「犬の躾にはご褒美が必要だとどこかで読みました。それを実践しただけですよ」

 嫌そうな顔のまま放たれた言葉で、心はすぐに冷えて固まってしまった。この子の普段の行いから考えても、今の言葉が本心である気がしてならなかった。

「犬っ? ひどい! やっぱり嫌いだよ!」

「安定のチョロさですね。でもまあ頑張りましたね。その努力は褒めるに値します」

 やれやれと堅い言葉を放り込んだ知生は、ホワイトボードを向いて腕を組んだ。

「可愛くないなぁ褒め方が。萌えないよ」

「褒めて欲しいのか萌やして欲しいのか、どっちかにしてください」

「褒め萌やして欲しいわ」

「もちろん嫌です。ほら、ふざけてないで夏休みリスト消化作戦の話をしますよ」

 口論が途切れると同時に、佳乃ちゃんの方から大きな笑い声が聞こえた。私と知生が視線を向けると、佳乃ちゃんはそれに気がついたようにハッと顔に力を入れる。

「ど、どうしたの?」

「ううん。ただ二人が面白くて」

「面白い?」

「知生ちゃんは教室ではこんな顔しないし、こまちゃんも昔に戻ったみたい。不思議な光景で、面白くなっちゃった」

「そ、そう? いつも通りだよ」

「ほんとかなぁ? なんて言うんだろこういうの……エモい? うん、エモいでいこう」

 佳乃ちゃんはそう言って、再びくすくす笑い始めた。

 現国教師とは思えない語彙力だったが、なんだかその声がくすぐったくて、私は深く椅子に腰掛けて黙り込んだ。

 佳乃ちゃんは人差し指を上げ、咳払いを一つ挟む。

「ごめんね、遮っちゃった。夏休みの計画立てるんじゃなかった? 気にせず進めていいよ」

「もちろんそのつもりです。じゃあまずは予定調整から始めましょうか」

 知生は気にする様子もなくそそくさと立ち上がり、ホワイトボードに文字を書き始める。あなたのことも弄られてたよ今。どうせ気にしてないでしょうけど。

 じっとりとした暑さの中、私は知生の言葉を聞き続けた。


 結局、翌日以降のテスト返却でも私の手元に赤点が返ってくることはなかった。

 最終結果としては、無事補講回避どころか、学年順位を大幅に上げるに至ったのだ。

 三者面談では担任から絶賛の嵐を受け、結果としてお小遣いの増額まで検討してもらえることになった。まさに神様仏様知生様だ。

 頑張ってみるもんだな、などという満足感を胸に浮かべていたが、宣言通り学年一位を実現していた知生の前では、私の功績など霞と化したのだった。


 兎にも角にも、今回のちいリストは成就となった。

 こうして無事……かはわからないが、私たちは夏休みを迎える。

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