第11話
勝負の月曜日は雨だった。しとしとと鳴る水音を眺め、熱を帯びた湿気を連れ教室の扉をくぐる。
最後の足掻きのように教科書を漁るクラスメイトを一瞥し、私は自分の席へと向かった。
「おはよーん」
席に着くと同時に、背後から声をかけられる。雨の日特有のじっとりとした匂いを覆うように、甘い香りが近づいてきた。
この覇気のない挨拶は間違いなくみちるだ。気がつかなかった、もう来ていたのか。
「おはよ。勉強できた?」
「ぼちぼちって感じぃ」
そのまま空いた目の前の席に腰掛けたみちるは、やれやれと溜息を吐いた。毎度毎度席を占拠される気弱な男子の方が、よっぽど溜息を吐きたいだろう。
おちゃらけてラフな感じのみちるも、私より遥かに上位の成績だ。こんな奴がいるから私が見た目に反して馬鹿だなんておぞましいレッテルを貼られてしまうのだ。勘弁して欲しい。
「みちるのぼちぼちは当てにならないよ」
「自信満々ですぅとか言えるわけないしぃ。さやちんは? いつも通り?」
「いつも通り駄目そうだって言って欲しいの?」
「カリカリしすぎ。ベーコンかよっ」
「冗談だよ。私もぼちぼち」
ベーコンに限らず焼けばだいたいカリカリじゃないか、なんてふざけたツッコミが頭を過ぎったのも、普段のテスト前に比べて落ち着いている証拠だろう。
やれることはやった。後は野となれ山となれ。どうせ三日後には結果と睨めっこしなければならないのだ。
それでも目の前の秀才のように、テスト前の僅かな時間を悠長に過ごせるほどの余裕は持ち合わせていない。
「ほら、もうすぐチャイムが鳴るよ。賢い子は席に戻った戻った」
「ちぇーつれないのー。まあいっか。頑張ろうねぇ」
余裕綽綽な様子で、みちるは自席へと戻っていった。そんな彼女を見送り、私は急いでペンケースと教科書を取り出す。
知生の方は大丈夫だろうか。どう考えても私の補講回避よりも彼女の学年一位の方が重い枷だ。
どうか知生が学年一位を取れますように、なんて事を祈れば、人のことを気にしている場合ですか、と彼女はからかい笑うだろう。それでも念を送らずにはいられなかった。
一教科目は古文だ。最後に文法の見直しだけでもしておこう。ペラペラと教材をめくり、私は始まりの合図を待った。
教室に全三日の試験期間の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
回収されていく答案用紙に呪ないを込め、私は大きく息を吐いた。
英語教師が教室から出て行くと同時にペンケースに文房具を戻していく。堰を切ったようにどんどんと身体から力が抜け出す。
終わった。終わってしまった。もう結果は努力の届かない場所に行ってしまった。
あれだけ来て欲しくなかったテストも、終わってしまえばあっという間だったように思えるから不思議だな。
努力は絶対に実るだなんて絵空事を吐けるほどの可愛げは私にはないが、こればっかりは実ってもらわないと困る。
私は虚脱感の代わりに湧いてきた開放感を両手に込めて腕を伸ばした。
手応えは十分。後はいい結果を望むだけ。本来であれば開放感のまま遊び呆けたいが、肝心の知生はアルバイトらしい。余韻もへったくれもない。
大人しく図書館にでも寄って帰るか、それとも佳乃ちゃんとお喋りしてから帰ろうか。
伸ばした手を下ろすと、とんとんと肩を叩かれた。
「サヤ、今日空いてる?」
声の主はアキだった。先ほどまで同じテストを受けていたと思えないほど淡々とした様子でこちらを見下ろす彼女を見て、解けたはずの身体の芯が再び硬直していくのを感じた。
蛇に睨まれたなんとやら。カースト最上位様はいつだって威圧感がすごい。
「うん。空いてるよ。なんで?」
「テストも終わったしみんなで遊びに行こうかと思って。打ち上げ、来るでしょ?」
「ああ、うん。行く」
私が本当に打ち上げをしたい相手はあなた達じゃない、なんて言葉はもちろん吐けないし、なにより最近付き合いが悪いと言われていた手前、この誘いを断ることなんて出来なかった。
私は精一杯の作り笑いを浮かべ、輪の中心へと戻っていくアキの後を追った。
「ちょ、ちょっと、聞いてないんだけど」
打ち上げと聞かされ到着したカラオケボックスで、私は独り言をこぼした。
薄い光がくるくると踊り、閉じ込められた音がやんやんと飛び跳ねる空間には、十人ほどが集まっている。
私、隣に座るアキ、アキの取り巻き数人、そして正面に知らない男が数人。男女比は綺麗に半々。
期末テストの打ち上げにしては、知らない奴が多すぎる。なんというかこれは、合コンじゃないか。
「サヤー! 飲み物はー?」
「あ、烏龍茶で」
奥の方から飛んできた声に、同じような声量を返す。
こちとらてっきりクラスの暇な人間を集めたテストお疲れ様会かと思っていたのだ。合コンなら合コンと素直にそう言ってくれればいいのに。
こういう集まりは気を使う場面が多くてただでさえ嫌なのに、反動でより負荷がかかってしまいそうだ。
解放感を言い訳に男漁りでもしてやろうか。いやそんな気分じゃないな。柄じゃ無いだけだけれど。
嫌がっている空気を出さないようにだけ気をつけて、浮かないよう適当にやり過ごそう。
そうして注文した飲み物が来る頃には、私もすっかり場の空気に溶け込んでいた。
「小牧沙夜子でーす。サヤって呼んでねー。よろしく」
順を追って回ってきた自己紹介を丁寧にこなした私は、烏龍茶を口に運ぶ。
疎らな拍手の後、ジロジロと私に向けられた視線から言葉が飛んでくる。
「サヤちゃんってバレーボールとかやってそう」
「思った思った。身長めっちゃ高いね。えげつないアタック打ちそう。タケが余計チビに見えるじゃん」
「うるせーよ!」
今し方名前を知ったばかりの男共が、何やら不名誉な盛り上がり方をしている。でけえ女だな、とでも言いたいのだろうか。うるせーよは私の台詞だバカタレ。
私はわざとらしく不服そうな顔つきを浮かべた後、静かに笑みを加える。私に自己紹介を促された男の子が、耳を触りながら自己紹介を始めた。
合コンは好きじゃないだけで苦手ではない。むしろ空気を読んで振る舞うことは得意だ。大きな女の子という適当なカテゴライズで、ふわっと乗り切ってやろう。
皿に盛られたポテトを口に運ぶ。強すぎる塩気が口内を満たした。
そのまま各々が流行りの曲やらを歌っていく流れになった。一番画面から遠い私は、最後の最後までおもちゃの様に音に合わせて身を揺らし続けた。
この流れは過去幾度となく味わっている。
アキすごーい、上手いねぇ、そう言った後にむざむざと下手を晒さねばならないのだ。もはや作業と言っても過言では無い。
そうして順番が回ってくる。知らない奴の前で歌うのは本当に慣れない。そういう意味では、私は絶対にアイドルにはなれないだろうな。いや、どの面下げて言ってんだよ。
適当な曲をタブレットに打ち込み、回ってきたマイクのスイッチを入れる。
業務のように一曲歌い切ったところで、正面に座る色黒の男の子が私に尋ねた。
「サヤちゃんはダンスとかやってるの?」
「えっ、なんで?」
「なんか動きが綺麗だったから」
立ち上がって身を揺らしていただけの私にそんな言葉をかけてくれるなんて、なかなかいい奴じゃないか。名前はなんだっけか……タケ、タケちゃんだ。そうだそうだ。
「そうかなぁ? ダンスなんて学祭で踊ったくらいだよ」
「マジで? センスあるよ絶対」
「ほんとに? ありがと。でも、なんでダンスなの?」
「俺小さい頃からダンスやっててさ、見ただけで分っちゃうんだよね」
ベタに鼻の下を擦る彼の隣から、お洒落なキノコヘアーが身を乗り出した。
「こいつ凄いんだよ。この間もなんかで入賞しててさ」
「いやいや、小さい大会だからね。でもまあちょっと自信あり、みたいな」
「そうなんだ。すごいね」
騙したなタケちゃん。私を自分語りの出汁に使うなんて。きっと私がフラワーロックでも、彼は同じことを言っていたのだろう。
苦笑いにならない様に必死に口角を上げていると、隣のアキから声が上がった。
「剣道のおかげでしょ。サヤの動きが綺麗なのは」
騒がしいはずの空間が、ぱきりと音を立てて止まった様に見えた。急いでアキの方を見ると、彼女は澄ました顔でコーヒーを飲んでいた。
「え、剣道? サヤちゃん剣道やってるの?」
「えっ、ああ、まあ、やっていたというか……」
話が流れることを期待したが、男子の一人が興味を示した様にこちらに言葉を投げた。答えに困る私を見て、アキが言葉を加える。
「中学から騒がれてたみたいよ。鳴り物入りでうちの高校に来たの」
「マジで! すごいじゃん!」
アキの一言で、全員の興味と視線がこちらに向いた。薄暗い照明がどんよりと曇っていく。
彼女のこういう空気の支配感は、きっと天性のものだ。タチの悪いことに、本人は絶対にそれを理解している。
合コンにおいても、その王政は遺憾なく発揮されている様だった。私は乾いた喉に急いで烏龍茶を流し込んだ。
「いやいや、まあ昔の話で……。もう剣道はやってないし――」
「雑誌にも載ってたんだよねぇ。辞めるとかマジでもったいなーい」
私の言葉にのしかかる様に、アキの取り巻きの一人である栄理子が声を上げる。
この子たちは私がこの話題を嫌うことを知っているはずなのに、どうしてこうもずけずけと言葉を吐けるのだろう。理解できないし、決して面白い話でもない。
空調が利いているはずなのに、焦る心に同調してじんわりと汗が浮かんでくる。
「ほら、せっかくのカラオケなんだから、いいじゃん私のことは!」
「いやめっちゃ気になるし。そんなに強かったならなんで辞めたの?」
「確かに。深い理由がありそう」
「聞きたい聞きたい! 教えてよー」
逃げようとする私の言葉を、男子群が捕まえる。画面に映る華やかな映像から、少しずつ色がなくなっていく。私は大きく息を吸った。
大丈夫。今までもあったじゃないか。同じ感傷に浸りたいだけの人間たちが、エピソードに期待して私の言葉を煽ってくるなんてことは。特別なことじゃない。
怪我という適当な理由をつけていなせばいい。可哀想だねとか大変だねとか、そんな温い言葉に励まされたフリをしてやればいい。
そう、空気を壊さない様に、ゆっくり、明るく。
「負けたのよね、決勝で」
私の脳内で繰り広げられたおまじないは、アキの言葉で途切れた。こいつは今なにを言ったんだ?
「な、なによ急に」
「怪我とでも言おうとしてたのよね。嘘はダメよ」
彼女の言うことが芯を食っていたせいで、返す言葉がすんなり出てこなかった。空気に合わせて適当に言葉を置けば良いだけなのに、何故かそれが出来なかった。アキの言葉は続く。
「地区予選の決勝でね」
「ねえ、ちょっとアキ……」
「大将だったこの子が」
「やめてよ……」
「開始早々――」
「やめてってば!」
アキの声をかき消すように、私は声を上げた。もう空気がどうだなんて関係なく、これ以上嫌な光景がじわじわと湧き上がってくる話を聞きたくなかった。
「なんでわざわざそんなこと言うの?」
諦めのように出てきた言葉で、アキ越しに見えるみんなの顔が凍っていくのが見えた。
きっと私の顔に余裕がないからだろう。この子は何故場をこんな空気にしてまで、私を貶めようとしているのだ。本当に理解できない。
私の心を全て読んだかの様に、アキが言葉を放つ。
「最近猫目の後輩と楽しくやってるみたいだから、ちょっと悪戯したくなって」
「悪戯……?」
「そう。最近付き合いの悪いサヤに、ちょっとした罰ゲームよ」
本当に屈託のない悪戯気な顔で、アキはさらりと言い放った。
猫目の後輩。知生のことか。こういう場に顔を出さず知生とつるんでいたことを、アキはどうやら良くは思っていなかった様だ。
「なんで知ってるの……?」
「そりゃ、一緒に帰ってるところを見たからよ」
「なるほど。そういうことね」
そりゃそうか。あれだけ学校で一緒に過ごしていたし、なんなら私から誘って一緒にも帰っていたし。勘づかれない訳がない。
こういうことを危惧して、知生は「良いんですか」と聞いてきていたのか。本当にあの子は賢しいな。
というか、それはそんなにいけないことか?ここまでされないといけないことか?お前らにどこで迷惑をかけたんだ。自分の中にふつふつと何かが湧き上がってくるのを感じた。
「それで罰ゲームって――」
いや、冷静になろう。今ならまだ大丈夫。アキの気分に反すれば、私の高校生活は終わりだ。
たまたま運悪く私にコンパスが向いてしまったが、まいったなぁ、アキには敵わないや、へへっごめんごめん気をつけるよ、と媚びへつらえばいつも通りに戻れる。
簡単な話だ。空っぽな私にプライドなどない。場の空気に合わせてふわふわと浮かんでいれば良い。
少しの間を空けて落ち着いた私は、再び大きく息を吸い込んで言葉吐き出した。
「アホか。付き合いきれんわ」
私は立ち上がり、財布を開く。千円か……いや、二千円くれてやる。ポテトも食べたし。
そのまま札を二枚机に叩きつけ、私は部屋を出た。
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