第9話

「ふう。そろそろ終わりにしようか。あー捗った。今回はいけるかもしれないわ」

 蛍光灯の明かりがぼんやりと光る教室で、私は大きく身体を伸ばす。

 テスト勉強を始めて数日が経ち、本番までの猶予がわずかになった金曜日。今日も今日とて学校に残り、私たちは勉強に励む放課後を迎えている。

 伸びと一緒に出た言葉通り、この一週間弱は非常に充実したものだった。

 そもそもここまで勉強時間を確保したということ自体が初の試みなのだが、我ながら過去一番の習得率だと思う。後は土日でどこまで詰め込めるかといったところか。

「調子が良いのは何よりですけど、調子に乗るのはテストが終わってからにしてくださいね」

「調子になんて乗ってないでしょ」

「ならいいですけど」

 目の前のツインテールは、クスクス笑いながら教材を片付け始めた。チクリと釘を刺された私も、彼女に倣って鞄に教材を詰め込んでいく。

 テスト前最後の平日という憂鬱な日に、好みの仮装に当たるとはラッキーだ、なんてことを思っていたが、やはり知生は知生だった。中身は全く可愛くない。

 しかしこの一週間で、学年一位を目指すという彼女の目標が妄言ではない事をありありと見せつけられた。

 この子は飛び抜けて学力が高い。教科を問わず、私が悩んでいるところは罵声付きで漏れなく解説してくれたし、宿題も毎日のように出してくれている。

 自分の勉強は大丈夫なのかと問うたこともあったが、「私は普段からやってますからね。それより人の心配してる場合ですか?」という二文で全てを封殺された。確かに私に人の心配をしている余裕などない。

 勉強が出来ない私が言うのも説得力がないが、おそらくこの子は天才と呼称しても遜色ない。非常に軽々しい表現ではあるが、こういうところも変人と囁かれ人を遠ざける所以なのだろう。

 脳を少しくらい分けて欲しいもんだ、なんてことを考えながらじろじろと知生を眺めていると、パチリと彼女の瞳がこちらを向いた。

「なんですか? お菓子ならありませんよ」

「強請ってないよ」

「まさか、空腹に耐えかねて私を食べる気ですか? やめてくださいね」

「本当に食ってやろうかしら」

 感謝や褒め言葉の一つでもくれてやろうかと思っていたのに、てんで褒めがいがない。私が食べ物のことばかりを考えてると思ったら大間違いだ。

「一つ質問してもいい?」

「手短にお願いします」

「ケチだなぁ。んじゃ手短に。なんでうちの学校を選んだの? もっと賢い高校でも余裕だったんじゃない?」

「帰る用意を止めてまでするほどの話ですかそれは」

「気になっちゃったのよ。言いたくないならいいけども」

 知生は息を深く吐いた後、やれやれと言わんばかりの表情でペンの先を窓の外に向けた。

「別に、簡単な話です。ダーツ投げて刺さったんでここにしました」

「そんなに適当に決めたの?」

「どこに行ったって私のやりたいことが変わるわけじゃないですしね。はい質問終了! 帰りますよ!」

 それだけ言って、知生は自分の世界へと帰っていった。私の驚きだけが取り残される。

 部活や学力、その他諸々を無視して、運だけに身を任せた高校選び。それも一人暮らしを強いられるほどの物理的距離間。慣れてきたと思っていたが、やはりこの子は私の常識の外にいたようだ。

 現状を生み出した運命の一矢に感謝と呪いを浮かべつつ、私は教材をカバンに詰め込む。お互いに用意が整ったタイミングで、知生は聞こえるか聞こえないかくらいの音量で呟いた。

「週末……」

 何かを考えるような素振りを一瞬見せた後、彼女は上目遣いで私を見つめ、ゆっくりと鞄を持ち上げる。

「沙夜子お姉ちゃん。テストの準備は万全かな?」

「……なにを企んでるの?」

「なんにも企んでないよぅ。どう? バッチリ?」

 知生がじりじりとこちらに歩み寄ってくる。大きな瞳が徐々に私に近づいてくる。急にキャラスイッチが入った知生は、朗らかな顔つきを浮かべてこちらを見つめ続けた。

 やっぱりこのキャラはかわいいなぁ、と呑気なことを思い浮かべつつ、私は言葉を返す。

「万全かはわからないけれど、頑張ってみるよ。土日もあるし」

「大丈夫? おうちで一人でお勉強できる?」

「確かにここよりは多少効率は下がるかもしれないね」

「だよね。知生が手伝ってあげようか?」

 額が顎にぶつかってきそうなほど、知生はずいっと身を寄せた。丸くて黒い瞳と甘い匂いに、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。

「手伝う?」

「そう。知生一人暮らしだから、おうちで勉強してると寂しくて……。お休みの日にお姉ちゃんが来てくれて、一緒に勉強してくれると寂しくないなーって。……ダメかな?」

 くるりと身を捻り顔を上げた彼女は、唇に人差し指を当てて不安そうにこちらを見上げた。動きに合わせてツインテールがふわりと揺れる。私は思わず絶句してしまった。

 落ち着け沙夜子。いくら可愛くても、いくら心臓を揺らされても、これの中身は知生なのだ。

 しかもなんだこのあざとさは。自分の可愛さがわかっていますと言わんばかりの振る舞いじゃないか。

 流石の私でも、こんな不気味な提案に易々と乗るほど愚かではない。そこまで馬鹿じゃない。お姉ちゃんという魔法の言葉を向けられたって、冷静な判断くらいは出来る。

 しかしながら、提案自体は非常に魅力的だ。家で一人で勉強するより見張りがいる方が、遥かに効率が良いことは間違い無い。効率は良いほうが良い。当然だ。

 そうだ、私はただ魅力的な提案をされたからそれに乗っかるだけだ。可愛さに落とされるわけじゃない。うん。間違いない。

 数秒の制止ののち、私は大きく息を吸って知生を抱きしめた。

「する! もちろんする! 行っていいの? 行きたい! あーもう、寂しいなら早く言ってよー!」

 私は吸い込んだ息を全て吐き出しながら言葉を放った。

 私が大柄なのか知生が小柄なのか、はたまた両者なのかはわからないが、知生は私の腕の中にすっぽりと収まった。私は彼女を引き寄せる腕に更に力を加える。

 細いなぁ、かわいいなぁ、いい匂いだなぁ。先ほどまでの論理展開が吹き飛ぶほどの激情が脳内を巡った。それと同時に、背中に激痛が走る。

「あたっ、あいたたた、痛い!」

 この痛みは間違いなく背中を抓られている。誰に? いやこのツインテールしかいないでしょ。

 自問自答を終え、私は急いで知生から身を離す。

「つ、抓ったでしょ! 痛いじゃない!」

「こっちのセリフですよ! 窒息させるつもりですか!」

 腰をさする知生は深く息をして顔を赤らめていた。気がつかない間に私は思った以上の力を加えていたようだ。ひりひりとした痛みが、ゆっくりと魔法を解かしていく。

「だからって抓ることないじゃん……」

「喋れなかったんだから仕方ないじゃないですか。私だって抓るつもりなんて無かったですよ。単なる防犯ブザーです。通報案件です」

 ふうと大きく吐いた知生は、落ち着いた様子で眉を顰めた。どうやら先ほどまでのサービスタイムは終わったようだ。

 可愛らしい顔つきは消え去り、悪戯っぽい表情がやってくる。

「まあでも、チョロキサ先輩は私と一緒に勉強してくれるんですよね?」

「誰がチョロキサなの? 原型無さすぎ!」

「原型が無かったのはさっきの先輩のキャラですけどね」

「あーもう! 急に可愛くない!」

「ふふっ」

 サービスタイムの終了とともに、盛大に恥をかかされるこのシステムは、本当にどうにかならないものか。

 邪な私を、どうか無邪気に引き出さないで欲しい。私はクールキャラを推していきたいのだ。

 私は大きく息を吐いて心を落ち着かせる。よくよく考えれば、一緒に勉強すると言っても私はこの子の家の場所を知らない。

「家に行けばいいんでしょ。どこなの?」

「駅まで迎えに行きます。十時に見角駅集合です」

「見角ね。わかった」

 ぼんやりと路線図を思い出しながら、抓られた背中をさする。驚くほどあっさりと背中の痛みは消え去った。

「じゃあそういうことで」

「えっ、もう帰るの?」

「はい。伝えることも伝えましたし」

 知生はすっと切り替えたように鞄を持ち上げ、そのまま出口に向かった。言いたいことだけ言って終わり、という彼女の自己本位スタイルはこんな時でも変わらないようだ。

「ちょっと、途中まで一緒に帰ろうよ」

 私は急いで鞄を持ち上げ、小走りで知生に駆け寄る。彼女は不機嫌そうに首を傾けてこちらに顔を向けた。大きな瞳がじろりと細くなる。

「いいんですか?」

「顔怖っ。いいでしょ。何の問題があるの?」

「私側には何の問題もありませんけどね」

 知生ははあと息を吐いて目を伏せた。一緒に帰るくらいなんだというのだ。たまたまこの一週間まったくそんな空気にならなかっただけで、私側にも何の問題もない。

「じゃあ決まり。一緒に下校ってなんか良くない? 青春っぽくて」

「先輩、なんか私みたいなこと言ってますよ」

「自覚あったんだ。ふふっ。ちいリストにはないの? 一緒に帰る的なやつ」

「ありませんよそんなもの」

「じゃあ足そうよ。番外編!」

「普通に嫌です」

「なんでよー!」

 教室の電気を落とし、暗くなった廊下を二人で進む。いつもより足が軽いのは気のせいか、はたまた空腹のせいか。

 非常に抽象的で感覚的なイメージだが、なんだか自分自身のこんな感じもひどく懐かしいような気がした。学校でこれだけ気を抜いて会話をしたのはいつぶりだろうか。もう思い出すのも野暮ったい。

 これも知生の魔力なのだろうか。であれば佳乃ちゃんが言っていた通り、からっぽな私に熱が注がれるのも時間の問題なのかもしれない。

 数日後、先程の知生の言葉に含まれてた意味を思い知らされることになるのだが、そんなことにもちろん気が付かない私は、浮いた心のまま知生の隣を歩き続けた。

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