第8話
湿度の高い教室には、ペンの音とセミの声がじっとりと響いている。私は汗ばんだシャツをパタパタと仰ぎ、チョコレート菓子を口に運ぶ。どろりとした甘さが口いっぱいに広がった。
これは絶対に冷えていた方が美味しい。大人しく菓子パンを買っておけばよかった。そんなことを考えながら、私は視線を時計に向ける。なんだ、まだ三十分しか経っていないじゃないか。
知生に触発されて芽吹いていたやる気は、ものの数分でチョコレートのように溶け落ちた。
さっきまでサクサクと動いていたペンも、机の上で頭を垂れている。ペン同様落ちた視線が、ノートをぼんやりと眺めた。並んだ数式が嫌というほどこちらを見つめ返す。
こんな数式を覚えていつ使うんだ。私の人生のどこで役に立つと言うんだ。まずはそこから教えてくれ。
勉強を始めれば必ず湧き上がる言い訳が、やる気にとどめを刺していく。
「先輩、集中力切れるの早すぎ」
正面から溜息と共に、私の心を読んだかのような言葉が飛んできた。ノートにぽたりと汗が落ちる。
「何を言うの。私はまだまだやる気満々だよ」
「こんな勉強、なんの役に立つんだとか、どうせそんなこと考えてるんでしょ?」
「驚いた。エスパーじゃん」
「顔見りゃわかりますよ」
そんな具体的な顔をしていたつもりはないが、脳内を見られているかのような正解率だ。
知生はペンの先をこちらに向けた。
「コマキサ先輩には、将来の夢とかないんですか?」
「今のところは白紙だね」
「相変わらずですねえ。じゃあなりたいものができたと仮定してください。例えば動物園で働きたいと思ったらどうしますか?」
「動物園? また癖のあるものを……」
猫の真似をする知生に微笑みを返し、私は頭を傾ける。
「そうだね、どうやったらなれるかを調べるかな」
「調べた結果、知識が必要だとわかったらどうします?」
「勉強するでしょうね」
「ですよね。知識を蓄えるためには勉強が必要不可欠なんですよ」
まさか後輩に勉強の必要性を説かれるとは思わなかった。
しかしながら、私には動物園で働く予定もなければ、数学者になろうという気持ちもない。結局のところ、そもそもの必要性と将来性を見出せないから数式と向かい合えないのだ。
私は腕を組んでふうと息を吐いた。
「でも、それはなりたいものだから頑張るんじゃない? 私は数学なんて絶対人生で使わない」
「数学を勉強している、と思わないことですね。注目すべきは、好き嫌い問わずやらないといけない時にやれるかどうか、ですよ」
「どういう意味?」
「やりたいことができた時、勉強自体の仕方がわからないって致命的ですよって話です」
「わかるような、わからないような……。なんの話だっけ?」
「学習の意義について、です」
知生は更に大きくペンを振った。目の前で揺れる棒が、くにゃくにゃと脳を揺らしてくる。果たして、私たちはそんな話をしていただろうか。
「テストっていうのは、いわば自分の勉強の仕方でどれだけ知識が定着したかということを測る秤なんですよ。得意な箇所はこうやって定着させる、苦手な箇所はこうやって克服する、そういう過程を学ぶことも学習の大義だと思います。嫌な物への向き合い方を学んでいると、まあ騙されたと思って頑張ってくださいな」
長々と説法を垂れた後、知生は姿勢を戻して再び教材に目を向け始めた。言いたいことだけ言って、反論の隙も与えないつもりのようだ。
なんだかいろいろ有耶無耶にされた気がするが、まあ何というか、言いたいことはわかる。耳が痛いほどに。
変人にしては真っ当な意見をぶつけてくれたものだ。もちろん言い返したい言葉もあるが、反論を述べることすら恥ずかしいことのように思えてきた。
「わかったわ。ちゃんとやるよ」
「当然です。二回目ですよこのくだり」
知生はこちらを向くことなくペンを動かし続ける。目の前で必死になられるとこちらもサボれなくなるじゃないか。そういえば、誰かと一緒にこうやって勉強するなんて初めてかもしれない。
熱と甘さを含んだ息を精一杯吐き出して、私はもう一度ペンを握った。
二度目のやる気は思いの外持続し、息抜きがてら目を向けた窓の外はすっかり暗くなっていた。
目の前に監視役がいる状況は私に合っていたようで、この時間は大して苦でもなかった。しかしながら、限界であることには違いない。
「あー。疲れた。今日はおしまい」
大きく吐き出した息と共に、覇気のない私の声が響いた。ぐっと伸ばした両腕が、肩の凝りを解いていく。
「意外と頑張りましたね。やればできるじゃないですか」
私の伸びに合わせ、知生は何事もなかったかのようにペンを置いた。
同じ時間机に向かっていたはずなのに、私と彼女の疲労度には天と地ほどの差があるように見える。そこだけは本当に不思議だが、この疲労感は悪くはないように思えた。
「久々にここまで真剣に勉強したわ」
「達成感はそのぐらいにしておいてくださいね。燃え尽きるとかありえないんで」
「わかってるよ」
おっしゃる通りではあるが、もうちょっと褒めてくれてもいいじゃないか。深い溜息を吐いた後、私はチョコレート菓子を口に運ぶ。くうとお腹が鳴った。
「あーあ。お腹すいた」
「コマキサ先輩、それよく言いますよね」
「うそっ。そんなに?」
「言ってますよ。毎回毎回お腹すいたーって。よくお菓子食べてますし。細いくせに意外と食いしん坊さんなんですね。あ、褒めてないですよ」
「どうせなら褒めなさいよ……」
気がつかなかった。私は無意識下でそんな欲を出していたのか。それにも驚きだが、意外と知生が私の癖を見ているということにも驚きだ。
自由奔放なくせして自分以外のこともしっかりと見ているとは厄介な。
意図せぬところで恥をかいてしまった私は、いそいそと教材を片付け始める。ニヤけた顔を浮かべる知生も素早く教材を鞄にしまった後、すっと立ち上がった。
「さあ帰りましょうか。よかったですね、晩御飯が待っていますよ」
「あー! からかってるでしょー!」
「ただの事実でしょ。からかってないですよ。せいぜい間食のしすぎで太らないように気をつけてくださいね」
「余計なお世話だよ!」
やっぱりからかっているじゃないか。本当に失礼な奴。そもそも私は食べても太らない体質なのだ。お菓子を摘まんだくらいで体重に大きな影響はない。口論ではきっと勝てないから言わないけれど。
しかし、ここで言葉を飲み込むだけでは先輩としての威厳が立たない。
知生に続いて立ち上がった私は、残ったチョコレートを手に取り、それを反論の代わりに知生の口へと放り込んだ。
「はい、これで知生ちゃんも共犯ね。君も太らないよう気をつけるように」
私の手からチョコレートを受け取った知生は、手の甲で口を抑えてそっぽを向いた。
「な、なにふるんふぇふは!」
「え、なに? わかんないよ」
溶けたチョコレートで口の中がドロドロになったのか、本当に何を言っているかわからなかった。こちらに睨みを向けた彼女は、何度かの嚥下のあと口を開いた。
「んぐっ。何するんですか!」
「何って、からかった仕返しだけど。おいしい?」
「ああもう、先輩そういうところありますよね!」
知生は大きく声を上げた後、諦めたように扉へと足を進めた。
しめしめと思い鞄を持ち上げると、少し距離の空いた知生の方からノートが飛んできた。しかも、それなりのスピードで。
なんとかキャッチすることが出来たが、間違ってもノートは投げるべきではない。常識だ。
「ちょ、ちょっと! 危ないでしょ! モラルが足りてないよ!」
「それ、宿題です」
「はあ? 何を言ってるの?」
「明日までにやってきてくださいね。それじゃ」
「えっ」
私が惚けている間に、知生はすたこらと教室から出て行った。急に音がなくなったことで、なんだか教室が薄気味悪く思えてきた。
取り残された私の手には、彼女から投げられたノートだけが収まっている。
「な、なんなの……。一緒に帰ろうと思ったのに」
不安から大げさに声を上げた私は、知生から放られたノートをめくる。
どうやら卸したてのそのノートには、数ページに渡って設問が並べられていた。丸みのない意外と厳格なこの字は、間違いなく知生の文字だ。
しかも並んでいる問題は、私が今日やっていた箇所ではないか。もう二年生の内容まで理解しているのかあの子は。すごいな。
いやいやそれよりも。まさか、私が黙々と問題を解いている間、彼女は自分の勉強ではなくこれを作ることに注力していたのか。
本当にあの子の考えている事はよくわからない。どういう感情になるのが正解なのかもわからない。しかし、これは間違いなく彼女に感謝すべき案件だ。
じんわりと湧き上がる温かさを感じながら、私はノートを鞄へと仕舞い込んだ。
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