陽炎と天日

第5話

 慣れないことをした疲れからなのか、貴重な休日は魂が抜けたように過ぎていった。

 あんな事があったのだ。ここからはいつも通りの学校生活とはいかないだろう。そんな予感を連れて、月曜日の朝がやってくる。

 学校に到着し、教室に入った私の目にみちるの姿が映った。特段珍しくもない景色ではあるが、私は急いで彼女に駆け寄った。

「おはよ」

「おっ、さやちんおはよー」

 みちるは脳天気に挨拶を返し、机の上に並べられた小銭を一つにまとめ始めた。

 朝から一人で何をやっているんだという疑問を抱きつつ、私は彼女に自身の鞄を向けた。

「なにか言うことない?」

 知生が教室にきた時、彼女がこの鞄を売ったであろうということを、私は根深く覚えていた。

 みちるは小首を傾げたあと、閃いたように指を鳴らした。

「髪、切ったね」

「切ってないわ」

「えー! じゃあなにー?」

「鞄! 渡したでしょ? 恵比知生に」

「えびちー? ああ、あの後輩ちゃんねぇ。渡したよぉ」

 言及する私に対して、彼女は楽観的な姿勢を貫き続けた。渡したよぉ、なんて気軽に言ってくれるな。モラルよ、どこに行ったんだ。

「人の鞄、勝手に渡しちゃ駄目でしょ」

「えー。だってぇ。楽しそうだったからぁ」

 さらに悪びれる様子もなく、彼女は小銭を財布に戻した。

 この子も本質的には知生と変わらない。ゴシップになる楽しい事が起きればそれでいいのだ。言及したところで根本を変えることなどできない。無駄な時間を使ってしてしまった。

 諦めた私はやれやれと溜息を吐き、自分の席へと向かう。私が席に着くと、追随する様にみちるが前の席へと腰掛けた。

「まあそうカリカリしないでよぉ。お詫びと言っちゃなんだけど、一つゲームをしよう」

 彼女はそう言って、私の目の前に百円玉を差し出した。

「ゲーム?」

「今からコイントスするから、当てられたらお昼ご飯奢ってあげる。こっちが表ねぇ」

 みちるは数字が書かれた図面を私に見せた後、素早い手つきでそれを打ち上げた。クルクルと回る硬貨が綺麗な軌道を描き、ゆっくりと彼女の手に収まった。

 相変わらずマイペースだ。こんなものはお詫びなどではなくただの思いつきの遊びだろう。私には愛する母が作った弁当があると言うのに。

 まあいい。おやつを奢ってもらえると思えばお得だ。

「ほい、どっち?」

「表」

 みちるが手を開けると、再び三桁の数字と目があった。

「うそぉ。当たってんじゃん!」

「ごちそうさん」

「も、もう一回! そりゃ!」

 クルクルと再び硬貨が宙を舞う。光を吸い込んで揺れる円形が、再び彼女の手に収まる。

「今度は?」

「今度も表」

 開かれた彼女の手の上には、先ほどと同じ様相で収まる百円玉が顔を見せている。

「なんでぇ?」

 みちるはげんなりした顔つきで、硬貨を財布へと戻した。

 見えているんだから当たるに決まっている。私は動体視力がとびっきりいいのだ。この程度の速度なら、ほぼ百パーセント当てられるだろう。

 ふふんと私が鼻を鳴らしたタイミングで、始業のチャイムが鳴り響く。チャイムと同時に担任がガラリと扉を開けた。

「仕方ないなぁ。んじゃお昼は食堂ねぇ」

 みちるはそう言って、つまらなさそうな顔を浮かべて席に戻っていった。

 その後、アキが遅れて登校してきたことにより、私は彼女という圧倒的な存在を久しぶりに思い出した。

 合コンのことについて叱咤されるかと思い、私の勝気はすっかり削がれたが、当の本人はそのことなどすっかり忘れていたようで、いつも通りの一日が過ぎていった。

 そして時刻は放課後を迎える。

 知生との約束通り空き教室に向かい、物静かな教室の扉を開けると、本を読む知生が目に入った。

 彼女は物音でこちらを向いたあと、ぺこりと一礼して恥ずかしそうに前髪をいじり始めた。

 おっ、今日は長めのツインテールなのか、なんて気楽な感想を浮かべながら、私は少女の正面の席を陣取った。

「よっ。ちゃんと約束通り来たよ」

 謝辞を返した知生のやけに塩らしい様子に、私は首を傾げた。

 がらんとした教室には、私達二人以外の人影はなく、突如として静寂が生み出される。

 この空き教室が本来なにに使われているかを、私は知らない。おまけに文化部の部室としても目をつけられていない様子だ。

 人目につきにくいこの場所は、私としてもかなり都合が良かった。

 しかし問題は目の前の少女の様子だ。私は視線を深く目の前の少女へと向ける。

 恵比知生。学校きっての不思議ちゃん。

 みちるに聞いたところによると、どうやらその悪名は校内全体に響き渡っているようで、全ての部活に道場破りをしに行っただとか、危ない薬を使っているだとか、根も葉もない噂のような逸話が大量に蔓延っているらしい。

 そんな不思議で活発な彼女が、塩らしく本の縁をいじってこちらと目を合わせようともしないのだ。不気味で仕方がない。

 私はさらに首を傾けて、知生に言葉を向ける。

「な、なんだか今日は静かだね。どうしたの?」

「ううん、別に……」

「そ、そう」

 彼女はちらりとこちらを向いた後、すぐさま目を伏せてしまう。

 違和感が蠢くが、それよりも目の前の少女の小動物感が私の感性をくすぐってきた。

 ああ、なんて可愛い生き物なんだろう。今この瞬間だけで、彼女を手伝うと言って良かったという至福が生まれてきた。

 しかしながら、ここで私の小動物愛好家っぷりを悟られるわけにはいかない。恥ずかしいし。私はあえて素っ気ない声を用意した。

「今日は何をするの?」

「ちょっと待ってね。沙夜子お姉ちゃんがくるから、頑張って用意したの」

 私の小さなリアクションに、彼女は満面の笑顔を咲かせてそう返した。とんと胸が弾んだ。

「お、お姉ちゃん?」

「うん……。呼んじゃだめ?」

「だ、だめじゃない! むしろ良い! すごく良いわ!」

 早口でそう言ったあと、急に恥ずかしくなった私はゆっくりと椅子に体を預けた。

 お姉ちゃん。お姉ちゃん。何という素晴らしい響きなのだろう。私は一人っ子だけれど、昔から妹が欲しかった。なんなら弟でも良いのだが、とにかくお姉ちゃんと呼ばれてみたかったのだ。

 うっかりと願望が叶ってしまった事で、柄にもなく有頂天になってしまっている。顔の筋肉も言うことを聞いてくれない。

「沙夜子お姉ちゃん。今日も一緒に楽しもうね」

 にやけ顔が治らない私に、少女はとどめを刺した。ああだめだ。この可愛い生き物を連れて帰りたい。もうロリコンでもショタコンでもいい。

「うん! 頑張ろうね! あーもう、可愛いなぁ」

 それまでのことなど全て忘れてしまうほど舞い上がった私は、知生の頭を撫でようと手を伸ばす。

 伸ばした手をがしりと掴まれたことで、急に華やいだ景色が元に戻っていった。

 間抜けな声を漏らした私は、急いで知生の顔を見る。私の手首を掴む知生は、ニヤリと八重歯を光らせていた。

「コマキサ先輩、ちょろすぎますよ」

 知生は手を離し、ゆっくりと立ち上がった。

 先程までの塩らしい様子はどこにいったのか、彼女は堂々とした足取りでホワイトボードの方へと歩いていった。

「えっ、ちょ、ちょっと」

 動揺する私に悪戯な笑みを向け、彼女は大きく胸を張った。

「今日のテーマはいじらしい美少女妹系キャラです。ふふっ、先輩はロリコンなんですか?」

「ち、違うよ!」

 やられた。意味不明なキャラ設定に完全に弄ばれた上に、癖まで知られてしまった。徐々に現実に熱が戻ってくる。

 何をやっているの沙夜子。この子は筋金入りのカメレオンだったじゃない。擬態に気づかず抜け抜けと、ああ、恥ずかしい。キャラじゃないことをしてしまった。

「どうです? 妹キャラは可愛かったですか? 沙夜子お・ね・え・ちゃん」

「最悪だわ」

「意外な一面ですねぇ」

「もう! それで? 今日は何をするの?」

 私は恥ずかしさに耐えかね、話題を戻しながら顔をそっぽに向けた。

 知生もそれで満足したようで、前回同様ホワイトボードに文字を書き始めた。

「さてさて、今回のちいリストはこちらです!」

 ばんと叩かれたホワイトボードが揺れる。誘い出されるように、私は文字を口に出す。

「ちいリスト47、部活動に打ち込もう……?」

「はい、その通りです!」

 知生は自信満々に腕を組んだ。

 部活に打ち込むか。前回の海よりも、幾分ハードルが下がった気がする。何というか、思っていたよりもイージーそうだ。

「部活か。そういえば、恵比ちゃんは部活に入ってないの?」

「入りたいものがなかったので。あと、私のことは知生でお願いします! 甲殻類アレルギーなので!」

 微妙に言葉は足りないが、入りたいものがなかったから入っていないということで良さそうだ。

 その名前で甲殻類アレルギーとはかわいそうな。呼び方でどうこうなるものでもないが、本人がそういうなら合わせてやろうではないか。

「じゃあ知生ちゃん、改めて。部活に入っていないなら、リスト達成は部活に入るところから始まるんじゃないの?」

「体験入部の期間に全部活に行きました。けれどぴんとくるものがなかったんですよね」 

 体験入部の期間などたかが知れている。その期間内に全部活を回るなんて、なんと恐ろしい生命力なのだろう。

 全部活に道場破りという噂も、尾鰭が付いているとはいえ真実に近いのかもしれない。 

 呆気にとられる私を見て、知生は人差し指を立てて言葉を続けた。

「ほら、スポ根物とかでよくあるじゃないですか。なんとなく入部したら凄い才能があったとか、私の力で全国に導くだとか。そういうのに憧れてるんですよ」 

「フィクションの話でしょ? 現実はそうそう上手くいかないよ」

「だからピンとくるものが無かったって言ったじゃないですか」

「……それじゃあどうするつもりなの?」

 ここまで話を聞いて、薄々次の展開が予想できてしまった。部活に打ち込みたい、けれども打ち込む先がない。

 だとしたらおそらく彼女はこう言うだろう。

「ないなら作ればいいと思いません?」

「ああ、やっぱりそういうことなのね」

 悪い予感は外れてはくれなかった。

 しかし、これはまずいことになった。私自身、部活にはあまりいい思い出がないのだ。本気で打ち込むつもりなら、下手をすれば、これは海よりもハードルが高い項目だったのかも知れない。

 私は大きく溜息を吐いて、知生に視線を向けた。

「作るって……部員とか、顧問とか、そもそもなにをやるかとか、目処は立ってるの?」

「うーん。コマキサ先輩が入るってこと以外は決まってないですね」

「そういうのはなにも決まってないって言うんだよ」

 知生は再び私の前へと腰掛けた。

「でも、どうせやるんなら楽しいことがいいなぁと。先輩はやりたいこととかないんですか?」

「ないわ」

「なんと虚無な人生なんでしょうか……」

「人生規模で言わないでよ。じゃああなたはあるの?」

「やりたいことが多すぎて絞れませんね」

「なんと多欲な人生なのかしら……」

 だったら私抜きで適当に部活を選んで入ればいいのに。そう思ったが、おそらく今回のリストは、自身で部活を作ると言うところに大意が置かれているのだろう。

 であれば、なんでもいいからとりあえず部活をつくらせてしまえばいいわけだ。

 なるべく大会なんてものがない方がいい。さくさく話を進めてしまおう。まずは方向性を定めてやらねばなるまい。

「やりたいことがたくさんあるのはいいことだけれど、何か一つに絞らないと人も集められないんじゃない? 部員ってたしか最低五人は必要でしょ?」

「とりあえず顧問がいないことには始まりませんよね?」

「えっ、私の話聞いてる?」

「ということで、私は顧問を探してきます! 部員探し、頼みましたよ!」

「あっ、ちょっと!」

「よろしくです、沙夜子お・ね・え・ちゃん」

 知生はすっと立ち上がり、言葉を残して教室から姿を消した。

 ポツンと取り残された私の耳に、ブラスバンドの音がふわりと届いた。

 話を進めようと思ったのに逃げられてしまった。しっかりと私の言葉も無視されたし。まあお姉ちゃん呼びは悪い気はしないけど。

 というか何をやる集まりなのかも分からないのに、人など集められるわけがないではないか。

 ただでさえうちの学校は部活動が盛んで、私や知生のように暇を持て余している人間の方が少ないのだ。顧問だって、避けられるに決まっている。

 大きな溜息を吐きながら、私は渋々教室を後にした。


 目処もないのでとりあえず自身の教室へと戻ろうとしたところで、私の頭にふと疑念がよぎった。

 よくよく考えれば授業が終わってそれなりに経った今、都合の良い帰宅部など学校に残っていないんじゃないだろうか。

 実際私が時折暇つぶしに本を読んでいる時、周りに人がいた記憶がない。まあ、今日に関してはいたらいたで困るわけだけど。

 何故だか複雑な気持ちを抱え、私は教室へと到着した。

「あっ」

 教室の扉を開けた私は愚かにもうっかりと声を漏らしてしまった。

 無人かと思われた教室に残っていた人影は、私の声にじっとりとした視線を向ける。

「あら、サヤじゃない。何してるの?」

「ちょっと忘れ物を……」

「ふうん。そう」

 私はまごつきながら、退屈そうに校庭を眺める彼女の周りを見渡した。いつもならいるはずの取り巻きが一人もいない。普段はその取り巻きには私も含まれているわけだが。

「アキこそ何してるの?」

「時間を潰しているだけよ」

 教室に一人残っていたのは、二階堂明那だった。普段なら絶対にこんな時間まで教室に残っていないくせに。ちくしょう。

 合コンの件が負い目になっている今、寄りによって彼女を引き当てるなんて、自分の運の悪さを呪うしか無くなってしまう。

「みんなは?」

「ゆっこは彼氏とデート、他も予定があるって言って帰ったわ」

「なるほど」

 それなりの相槌を返し、私は自分の席に近づきわざとらしく机を漁った。

 忘れ物があると言った手前、何か持って帰らないと。どれを取っても荷物になるじゃないか、ちくしょう。

 そういえば、アキは部活に入っていない数少ない該当者の一人だ。いっそ誘ってみるか。いやいや、ありえない。この手の話に彼女が乗ってくるわけがないし、そもそも知生との交流を彼女に知られたくない。であれば、足早にこの場を去るのが正解だろう。

 私はゴソゴソと机を物色し、適当な教科書を一冊手に持ってアキの方を向いた。

「アキはまだ帰らないの?」

「ん。まだ帰らない」

 アキから短い返事が返ってくる。窓の外を眺める瞳は、こちらを向こうともしない。頬を支える細い手が、なんとも女の子らしくて、私なんかとは大違いだ。

 長い睫毛に細い指先。夕陽が差す教室に、恐ろしいほどマッチしていた。絵になるという言葉はこの子のためにあるとさえ思わされる。

 かなり曖昧な直感だが、放課後の教室でこんなアンニュイな感じになっているんだから、彼女は間違いなく何かに悩んでいる。

 しかし、こういう時の彼女はもれなく機嫌が悪い。余計につついてヒエラルキーの頂点様に角が立つというのもややこしい。触らぬ神に祟りなし。逃げよう。

「そっか。じゃあまた明日ね」

 私の言葉に、アキは小さく手を振った。無言に対して言及することなく、私は急ぎ足で教室を後にした。

 その後必要もない教科書を片手に校内を物色したが、結局特に収穫もないまま私は再び空き教室に向かう。

 どうせ知生の方も収穫なく帰ってきているはずだ。次はどうやって話を進めてやろうか。

 思案を浮かべながら教室の扉を開くと、こちらに気づいた知生が訝しい顔を浮かべた。

「あ、先輩。遅いですよ。ん? 何持ってるんですか?」

「教科書、化学の」

「誰が教科書取りに帰ってきてくださいなんて言ったんですか。部員は?」

「いるわけないでしょ」

「えーっ!」

「えーって……そっちこそ」

 言葉を続けようと教室に踏み込んだところで、私はハッとさせられる。

 うだうだと知生の相手をしていて気がつかなかったが、数十分前に私が座っていた席に、先ほどまではなかった人影があるではないか。

 まさか、そんな馬鹿な。驚いて知生を見ると、彼女はどうだと言わんばかりに鼻を鳴らした。

「そっちこそ、なんですか?」

 自信満々な知生は、にんまりとした顔を浮かべながら人影を指差した。指を向けられた女性は、私たち二人を交互に見た後、へらりと笑みを浮かべる。

「よ、佳乃ちゃん!?」

「佳乃ちゃんじゃないよ、山上先生だよ!」

 彼女はガタンと机を揺らして立ち上がり、小さな頬を膨らませた。

 知生と一緒に教室にいたのは、間違いなく教員だった。それどころか、去年私のクラスの副担任をしていた人物だ。

 山上佳乃先生。現国の佳乃ちゃん。小柄でとっつきやすいこともあってか、みんなから佳乃ちゃんと呼ばれている。

 彼女は決まって威厳を振りまこうとしているが、実らず結局佳乃ちゃんが定着していた。そんな可愛らしい先生。今年度から関わりが無くなったが、私的好感度激高な先生だ。

 なぜそんな人物がこんなところにいるんだ。いや、考えるまでもない。知生が連れてきたのだろう。

「嘘でしょ……。まさか本当に顧問を見つけてきたの?」

「当たり前でしょ」

「いや、全然当たり前じゃないんだけど」

 混乱する私を無視して、知生は佳乃ちゃんに歩み寄った。ホワイトボードの前に、似たような背格好が二つ並んだ。

「どうやら知り合いみたいですね。手間が省けました」

「いやぁ。先生びっくりだよ。まさか知生ちゃんとこまちゃんが仲良しだなんて」

「いや、仲良しではないよ」

「えっ」

「ビジネスパートナーみたいなもんです」

「ええっ!」

 佳乃ちゃんは交互に突っ込む私と知生を見て、大きく首を傾げた。いつから私たちはビジネスパートナーになったんだ。私も首を傾げたくなった。

 唖然とした雰囲気が漂う中、場の空気を整えるかの如く、知生は一つ咳払いを挟んだ。

「というわけで、顧問の山上先生です」

「あっ、はーい。顧問の山上先生でーす」

 佳乃ちゃんは大きく手を挙げて、仕切り直した笑顔をこちらに向けた。

 彼女は何故この得体の知れない状況でこんな顔ができるんだろうか。私にはさっぱり理解できなかった。

 私が世間とズレているのかという錯覚が芽生えてきて、苦笑いを佳乃ちゃんに返した。

「いいの? 簡単に引き受けちゃって」

「もちろん! かわいい教え子の頼みだもの。で? 何をする部活なの?」

「えっ」

「えっ?」

「聞いてないの?」

「う、うん。顧問になってって言われて付いてきただけだから……」

「あー……」

「えぇーなにその反応! そんなにまずい部活なの?」

 私の虚を突かれた顔を見て、佳乃ちゃんもキョトンとした表情を浮かべる。まさかと思い知生を見ると、わざとらしくそっぽを向いて髪をいじり、口笛を吹いていた。何シラを切っているんだ。

 この子、詳細は何も言わずに佳乃ちゃんを連れてきたのか。というより、伝えられるほどの詳細がないのに、佳乃ちゃんは付いてきていたのか。どっちもどっちでどうかしている。

 佳乃ちゃんが爛々としていた理由がわかってしまった。何も知らないからあんな顔をしていたんだ。

 可哀想だけれど、事実は湾曲せず伝えてあげなければ。

「佳乃ちゃん、落ち着いて聞いてね」

「な、なんだね」

「あのね、まだ何をするか決まってないの」

「なんの話?」

「部活。まだ何部かも決まってないんだよ」

 カシャンだったか、ピシャンだったか、とにかく鋭い音が佳乃ちゃんから響いた気がした。

 そのぐらいの硬直を見せた佳乃ちゃんは、数秒の静止の後、ゆっくりと知生を見る。知生はただただ満面の笑みを返した。

「ど、ど、どういうこと?」

「コマキサ先輩の言った通りです。何をやるかはこれから決めます!」

「はぇー……びっくり」

 現国の教師とは思えないほど語彙力を奪われた佳乃ちゃんの口は、続く言葉もなくただただ半開きを維持している。

 よかった。私の感覚は間違いじゃなかったみたいだ。だからといって事態が良くなったわけではないが。

「ちなみに先生は何部の顧問になりたいですか? 今ならなんと、その願いが叶っちゃいますよ」

「えー。ないよそんなの。というか、こういうのって志を共にした人間が集まるものじゃないの? 先生そういうのを期待してついてきたんだけれど。青春は何処へ?」

「高校生活を後悔なく楽しく過ごすという大志の元、私たちは集っているので、あながち間違いではありませんよ」

「私たちって、さらっと私を含めないでよ」

「早くも内紛が起こってるよ!」

 佳乃ちゃんは激しくツッコミを入れた後、大きな溜息を吐いた。諦めなのか仕切り直しなのかはわからないが、息を吸い込むと同時に彼女は大きく胸を張る。

「まあいっか。元から活動内容にこだわってたわけじゃないし、これから二人が何をするか、ちょっと興味もあるし」

「まだ間に合うよ佳乃ちゃん。逃げるなら今だよ」

「大丈夫だよ。一度引き受けたんだもん。逃げはしないよ」

 彼女は全てを飲み込んだようにケロっと言葉を吐いた。なんということか。佳乃ちゃんと結託して知生を止めようと思ったのに、早くも牙城が崩れてしまったではないか。

 いや、むしろ物事がサクッと進んだことを喜ぶべきなのか。

 私が覚悟のもと椅子に腰掛けようとしたところで、携帯電話が鳴る音が聞こえた。

 音の発生源はどうやら知生のポケットだったようで、それを取り出した彼女は、すぐさま電子音を止めた。

「残念。ここまでです」

 携帯電話をしまうや否や、知生はカバンを持ち上げ教室から立ち去ろうとする。

「えっ? 帰るの!?」

「今日バイトなので。続きは明日ということで。作戦、考えておいてくださいね」

 音の発生からわずか数秒で、知生は教室から姿を消した。あれはアラームだったのか。そんな認識がようやく追いつくほどあっさりとした去り際だった。

 嵐が過ぎ去った教室には、唖然とする私と佳乃ちゃんが残された。佳乃ちゃんに至っては、目をぱちくりさせた後動かなくなってしまった。かわいそうに、意を決した瞬間に熱を奪われるなんて。

「あ、嵐だよ。嵐が去っていったよ」

「ほんと、自分勝手だわ」

「ふふっ。まあ彼女らしくていいんじゃない? 芯がある子は素敵だね」

 なにやらやけに飲み込みが早い。

 そうか、確か佳乃ちゃんは今年も引き続き一年生の副担任をしているはずだ。なんなら私よりも知生のことをよく知ってるのだろう。

 知生が去っていったドアを呆然と見つめる私に、佳乃ちゃんはクスクスと笑いながら並んだ。

「久しぶりこまちゃん。同じ校舎なのに意外と会わないもんだね。雰囲気も随分と変わったね」

「そうかな?」

「うんうん。髪、伸びたよ。かわいい」

「そりゃ半年経ってるから」

「心なしか背も伸びた気がする」

「伸びてないよ。佳乃ちゃんが縮んだんじゃないの?」

「言ったなー!」

 不平を浮かべながらも楽しそうな佳乃ちゃんは、私の前で一回転して見せる。

 進級してから半年ほどしか経っていないのに、酷く懐かしい気持ちが芽生えてきた。私は伸びた髪にそっと手を触れる。

「あれからどう? 本気になれることは見つかった?」

 あくまでもふわりと佳乃ちゃんはそう言った。あれから、という言葉がちくりと胸を刺したが、未だに私はそれを見つけられていない。

 返事の代わりにゆっくりと首を振る私を見て、佳乃ちゃんは優しく微笑んだ。微笑みがそっと私を撫でる。

 去年は個人的な話を度々聞いてもらっていたし、何かと気にかけて話しかけてくれていた彼女が顧問になってくれるなら、部活でもなんでもやれる気になってくる。

「彼女と一緒なら、きっと何か見つけられると思うよ」

 佳乃ちゃんは言葉を加え、無人の扉を見て目を細めた。きっと私もそんな予感を感じて、知生を手伝おうと思ったのだろう。

「だといいね」

 くすりと笑みを浮かべ、カバンを持ち上げた私は、佳乃ちゃんに見送られながら教室を後にした。

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