第4話
道中で誰にもすれ違わなかったことは、唯一の幸運であり、同じく不幸でもあった。
私たちを阻むものなど何もなく、あっという間に最寄り駅まで到着してしまった。
金銭面を逃げ口上にしようと思っていたが、何故かしっかりと二人分用意されていた切符が彼女のポケットから取り出されたことで、私の最後の手札も尽きてしまう。
「手際良すぎでしょ……」
「良いに越したことはないでしょう?」
サクサクと改札を潜る知生に続き、私も受け取った切符を通す。
海となればかなりの遠方になるのだから、運賃もそれなりな金額なはず。
改札から吐き出された切符に千五百円という金額が書かれており、ギョッとしてしまう。
往復のことを考えると、これはなかなかの痛手だ。しかも私が望んだ出費でもない。
ホームに降りた後、私は溜息を吐きながら財布を取り出し、切符代を少女に向けて差し出した。
私が渋々取り出したそれを、知生はキョトンとした表情で見つめた。
「なんですか?」
「なんですかって、電車賃だよ」
「えっ、コマキサ先輩は電車に乗ったことがないんですか? 運賃は券売機で支払うんですよ。切符を渡したでしょ」
「知ってるよ! あなたが私の分も買ってくれてたんでしょ? だからその分を渡してるの」
「要りませんよ。というか私が呼び出したんですから、お金なんて取るわけないでしょ」
「ああ……そう」
彼女はさらりと言葉を吐き、紙幣と硬貨を私に突き返した。
確かに呼び出されておいて何故とは思っていたが、この子の口からそういう感覚の言葉が出てくるとは思わなかった。
浮世離れしてるのかそうじゃないのか、本当によくわからない。年下に恵んでもらうのはいささか居心地が悪いが、お財布事情を考えれば背に腹は変えられない。
私はわざとらしく渋り顔を作った後、いそいそとお金を財布へと戻した。
間も無く到着した電車にはそこまで多くの人影は見られず、悠々と席に座ることができた。
自宅とは反対方向へと向かう電車に違和感を覚える私を他所に、知生が愉快そうに肩を揺らす。
ようやく落ち着きを見せ始めた状況に、私の観察眼も整ってきたのか、冷静に少女を分析することができた。
会話のキャッチボールもままならないほど不思議な彼女は、見た目だけで言えば可愛らしい後輩ちゃんだ。
そしてなにより彼女は立ち居振る舞いが凛としている。出会ってからそれほど期間は経っていないが、歩き姿だとか話し方だとか、そういう些細な所作が全て綺麗だった。
言動に反して、お上品な教育を受けてきたのではないかとさえ思える。
習い事でもしているのだろうか? 雰囲気だけならどこかのお嬢様みたいだ。いや、本当にお嬢様なのかもしれない。中身はとんでもないが。
そういえば、みちるから仕入れた「学校でも有名らしい不思議ちゃん」という情報以外、私はこの子のことを何も知らない。
電車の動きに合わせて揺れる頭を眺めながら、ぼうっとそんなことを考えていると、視線に気がついた知生が顔を上げた。
「何をじろじろと見てるんですか。訴えますよ」
じっとりとまとわりつく視線に、私は急いで視線を逸らした。いや、訴えられるほどのことじゃないじゃん。
「ごめんごめん。男物の制服とか、ウィッグとか電車賃とか、結構な出費でしょ? 裕福なのかなって」
焦ってまともに頭の中を開示してしまった。デリカシーのかけらも無い私の言葉に、知生はくすくすと笑みを浮かべた。
「この状況でそんなことを考えてるんですか」
「い、良いでしょ別に」
「悪いだなんて言ってないですよ。でもまあそうですね。私もコマキサ先輩のことをほとんど知りませんし、長い旅路は一問一答大会といきましょうか」
「大会って……」
「質問して答えてを繰り返すだけですよ」
知生は少しだけ腰を浮かし、身を少しこちらに寄せる。とんと当たる細い肩が、彼女と私の体格差をはっきりさせた。
ふふんと息を漏らした彼女は、とんとんと言葉を続ける。
「さっきの疑問にお答えすると、実家は裕福な方です。でも私は一人暮らしで、諸々の出所は主にバイト代ですね」
「へえ。一人暮らしなんだ。なんのバイトし──」
続け様に疑問を吐き出そうとした私の口は、知生の人差し指によって封をされる。
「一問一答大会なんですから、一ターン一質問です。次はレッドカードで退場ですからね」
この大会にそんなオフィシャルルールがあったなんて知らなかった。いっそもう一回反則をして退場してやろうか。
もごもごと口籠る私を見て、彼女は指を離した。
「では次は私からの質問です。先輩は夏と冬、どっちが好きですか?」
「夏かな」
「意外ですね。冬っぽいのに。はい、コマキサ先輩の番」
「早っ。えーっと……」
なんとあっさりとした大会なんだ。今の問答で私の何がわかったのか。というか冬っぽいってどういうことなんだろう。
落ち始めた夕日が、じんわりと車内の色を暖めている。窓の外には、見慣れない景色が広がり始めていた。
「じゃあ休みの日は何をしてるの?」
「そうですねえ。バイトとか、お買い物とか。一人で映画を観に行ったりもしますよ」
「意外と普通なんだね。ああしまった。なんのバイトか聞こうとしてたのに」
「ふふっ。大会の空気に飲まれましたね。可哀想なのでサービスです。バイト先は喫茶店ですよ」
「喫茶店かぁ」
これが大会の空気なのか。一問一答の魔物が私のペースを狂わせている。
釣られてそんなことを考えてみたが、私は単純にこの子のペースに飲まれているだけなのだろう。
彼女は変わらず愉快そうに肩を揺らしている。
「逆に先輩はお休みの日は何をしてるんですか?」
「そうね……。友達と遊んだり、本を読んだり、家の手伝いしたり、普通だよ」
「部活には入ってないんですね」
「入ってたら今こんなところに連れてこられてないでしょ。というか、質問二つ目じゃん。ルール違反じゃない?」
「ただの感想ですよ。勝手に先輩が答えただけでしょ」
「勝手にって……まあいいわ」
呆れる私に、彼女は笑顔を返す。意地の悪い微笑みは、差し込む光でガーベラのように朱を差していた。
その後も一問一答は続いたが、結局いまいち彼女のことを掴みきれないまま、私は自己開示をさせられ続けた。
三回目の乗り換えを済ませた頃には、もう一問一答大会なんて言葉を忘れてしまうほどだらだらと駄弁っていただけな気もする。
少なくなる乗客に反比例して、私たちの会話は盛り上がりを見せた。
そうしてたどり着いた目的地には、人影どころか灯りでさえもまばらだった。ぼんやりとした光を飲み込む薄い闇と、閑散とした空気がただただ広がっている。
ほのかな潮の香りが届いたことで、ようやく私は今日の目的を思い出した。
「そっか、海に来たんだね」
「何を今更」
「改めてだよ。現実が押し寄せてきたわ」
「コマキサ先輩の現実は足が遅いんですね」
駅から少し歩いただけで、より濃い潮の香りが漂ってきた。さっきまでは学校にいて、名残とも言える制服を着ていて、それなのに私はこんなところにいる。
押し寄せてきていた現実が、猛スピードで私を追い越して行ったような気分だ。
「あっ! 見てください!」
突如上がった嬌声が、私の意識を先の景色へと誘う。彼女の指の先には、ただただ海と空が広がっていた。
日没からそれほど時間が経っていないのだろうか。ぼんやりと明るい光が曖昧な線を描き、空に層を作っている。
格好の良い台詞でも吐きたくなるほど幻想的な景色が視界を支配した。
「綺麗……」
「ラッキーな時間帯でしたね」
知生はくすりと笑みを深め、境目に吸い込まれるように歩みを進めた。
「先輩にもああいうのを綺麗と思う趣味があるんですね」
「なによそれ」
「意外と乙女だなって。図体が大きいんで、もっと粗暴なのかと勘違いしてました」
「失礼な。せめてモデル体型って言いなさい。あとあなたが小さいだけだからね」
もっと言い返してやろうと思ったが、乙女と言われたことが思ったよりも恥ずかしくて、私はふんとだけ声を漏らして知生の頭に腕を置いた。
そのまま海に向かって歩くと、私達の足はすぐに波打ち際までたどり着いた。
さらに深い潮の匂い、波が砂浜に流れ込む音、揺れる水面。間違いない、逃げようもない、これは海だ。
さくりと軋む砂が、じんわりとローファーを包み込む。知生はそのまま境界線を歩き始めた。
「これが海です!」
寄せては返す波を躱しながら、知生が振り向いてそう言った。何を我が所有物のように語っているんだ。ここはみんなの海でしょ。
「海だね」
「しょっぱい感想ですね、海だけに」
「はいはい。転ぶよ、前向いたら?」
「塩対応ですね、海だけに」
「転ばせてやろうかしら」
大きく吐いた私の溜息に合わせ、彼女は満足そうに笑った。
細波の音が耳をくすぐる。塩分を含んだ風が、踊るように歩く知生の髪を揺らした。こんな中でもゴワゴワせずさらりと靡く長い髪を眺めて、ふとあれがウィッグだったことを思い出した。
「コマキサ先輩は、夜の海を見たことがありましたか?」
「初めてだよ」
「私もです。なんだかどこまでも暗くて、飲み込まれそうですよね」
「怖いこと言わないでよ」
そう言いながらも、私は水平線の方へと視線を向けた。
夜なのか朝なのかも曖昧になってしまうような深い藍色は、確かに吸い込まれそうなほど果てしない。
何か掴めそうでゆっくりと手を伸ばしてみる。海の果てが、さらに遠くに映る。
「でも、ちょっと気分転換になったかも」
私の口は、うっかりと本心を吐き出した。自分一人じゃ絶対にしなかった海に来るという行動も、やってみれば案外悪くない。
からっぽな自分にも、学校でのしがらみにも、彼女に会ってから目を向ける時間が減った気がする。目を背けるべきかは定かではないが。
静かに溢れた私の言葉に対し、知生は小さな身体を急激に私の方へと向けた。そのまま何故か眉にシワを寄せ、彼女は大きく腕を組む。
「ちょっとちょっと! 何を一人で感傷に浸っちゃってるんですか! 今日の目的を忘れてないですか?」
「べ、別に浸ってなんかないよ。目的? 海を感じるでしょ?」
「そうです! ちいリスト消化のためなんですから、早々と満足しないでください。本番はここからですよ」
彼女はそう言って担いでいた鞄を少し離れた砂浜に置いた。
潮風も、匂いも、景色も、私は割と堪能していると思う。これ以上何を感じれば良いんだ。
私がそんな疑問符を頭に浮かべている間に、彼女は鞄を探りゴソゴソと何かを準備している。
三十秒ほど砂が軋む音だけが響いていたが、準備が終わったのか知生は海の方を向いた。
「さあ、ちいリスト28、スタートです!」
ぼんやりと映る彼女の姿から、大きな声が響いてくる。次の瞬間、知生は海に向かって走り始めた。次にドボンという重い音が響き、それと同時に彼女の身体は深い青の中に消えて行った。
えっ、飛び込んだ? 海に? 制服のまま? なんで?
「え、ええー! なにやってるのよ!」
私は思わず海面に向けて声を上げた。少しの沈黙の後、闇の中から知生が跳ね上がってきた。
長い髪が飛沫を放ち、顔を覗かせた月に反射している。
「はー! 気持ちいい。つめたーい! しょっぱーい! あははは」
知生はけらけらと笑いながら、再び波打ち際まで戻ってきた。びしょ濡れになった髪と制服が、砂浜に水滴を落としている。
「え、バカなの? ねえ、何やってるの?」
「制服のまま海に飛び込むとか、なんだか背徳感すごいです! これです! これですよ!」
私の呆れ顔にも、彼女のは興奮した様子で身体を動かした。濡れた犬みたいだ。つめたっ、水滴が飛ぶからじっとしててくれればいいのに。
「海を感じるってこういうことなの?」
「そうですよ。海を感じるとは言いましたけど、本当の目的は制服で海に飛び込むことです。それだけです」
「なんでわざわざこんなことを……」
私は鞄からタオルを取り出して知生に差し出す。知生は笑顔でそれを受け取り、顔を拭った。
「制服のまま入水するなんて、なんだかロマンがありませんか? 青春っぽくて。あと心中っぽくて」
「怖いわ。本当にそれだけのために?」
「そうです。やりたいからやっただけです」
自信満々で語る知生を見て、彼女を最初に見かけた時のことを思い出した。
男装をして、人目も憚らず小説のワンシーンを再現していたあれも、単にやりたかったからやったことなのだろう。
思春期特有のなんやら、とかではなく、やってみたいからやってみるという実にハッキリとした行動指向だ。
周りを気にせず、不思議ちゃんとまで呼ばれ、それでも彼女は自分のやりたいことを貫いている。今だってそうだ。私の常識で言えば、したいと思っても普通こんな事はしない。なぜだかちくりと胸が痛んだ。
「人の目とか、気にならないの?」
「気にならない訳じゃないですよ。でも、恥ずかしいからしないでおこうとか、人の目が気になるからとかやめとこうとか、そういうのはやめようって、入学の時に決めたんです。そのための大義名分がちいリストですから」
彼女は指でピースを作り、今度は首元を拭い始めた。
高校生活を楽しむためのリストと彼女は言っていた。人の目を気にせず、ただただ自分が楽しそうだと思ったことをやる。実際彼女はこれ以上にないほど楽しそうだった。
ずきりと再び胸が痛んだ。やりたいこともない、熱を向ける先もない、周りの目を気にしてばかりいる私とは大違いな彼女。
「タオル、ありがとうございます。せっかくなんで、もう一回行ってきます!」
そんな彼女は、私にタオルを突き返し、再び海へと飛び込んだ。知生に合わせて大きな飛沫が上がる。
「ふふっ。バカみたい」
羨ましいな、と純粋にそう思った。
海に入っているのが羨ましいとかそういうところじゃなくて、何にも縛られていないあの感じがすごく良いと感じてしまった。
これはきっと海の魔力だ。
深まってきている夜だとか、浮かぶ月だとか、細波の穏やかな音だとか、退屈な日々の生活もおまけに追加しよう。多分そういうもののせいで、私は少しセンシティブになっているのだ。
適当な理由をつけながら、私は砂浜に鞄を置いた。
まだ海に入るほど暑い季節じゃないし、濡れた後どうやって帰ろう。でも仕方ない、この気持ちには勝てない。明日は休みだから、制服はどうにかなるだろう。お腹すいたなぁ。盛り盛りの米が食べたい。
そんなことを考えながらローファーに手をやり、流れのまま靴下を脱いだ。砂は思った以上にひんやりしている。
よし、いこう。ふうと一息吐いてから、私は知生がいる方へと飛び込んだ。
知生の短い悲鳴が聞こえた後、水が揺れる音が響いた。塩っぱい。あと、思っていたよりも冷たいし浅い。
真っ暗で何も見えないし、想像していたよりも爽快感がない。浮かんだのはちょっとした背徳感と膨大な高揚感だけだ。
私は海底に右足をつけ、勢いよく立ち上がった。
「ぷはぁ!」
「ひゃん!」
勢いよく息を吐き出す。真っ先に目に映ったのは、知生の驚いた顔だった。なんだ、普通の可愛いリアクションもできるんじゃないか。
「あー! 冷たい! 思ったよりさっぱりとはしないけど、気持ちがいいわ」
私はそのまま海面に身を預け、ゆっくりと背泳を始める。まん丸な月が真上から私を見下ろしていた。その月を遮るように、知生が私を覗き込んだ。
「ちょっと! 飛び込むんなら飛び込むって言ってくださいよ!」
「ふふっ、ひゃん! だって。かわいー」
「マジで沈めますよ」
知生は少し照れた様子で私の顔に水をかけた。
口元に刺さる塩っぱさに反して、私の心は非常に晴れやかだった。ささくれを綺麗に剥がせたような、ちょっとした満足感が私を支配していた。
空っぽだった自分の中に、少しだけ色が芽吹いた気がしたのだ。
「どうですか? 今の感想は?」
「まあ……悪くはない」
「そうですか。なによりです」
知生は背泳を続ける私の手を取り、ゆっくりと砂浜まで私を引っ張っていく。
「今後も手伝ってくれますよね? ちいリストを」
彼女は自信満々な顔つきでそう言った。
朝はあれほどめんどくさそうで憂鬱だったのに、今では少し手伝ってもいいか、なんて思ってしまっている自分がいる。
本当に、人生とは何が起こるかわからない。些細な心の揺れで、置かれている環境が大きく変わろうとしているのだから。
「仕方ないから手伝ってあげる」
「ま、当然なんですけどね。ようこそ」
こうして私は、自身公認で彼女の手伝いをすることを確約してしまったのだ。
水から体を引き上げ砂浜を歩く。随分と水を吸い込んだ制服が、鎧のように重い。下着までぐっしょりだ。このまま電車に乗るなんて出来やしないだろう。
それでも、私は一連の行動に後悔を抱けなかった。これもきっと、海の魔力だろう。そうに違いない。
その後、お互い鞄に詰め込んでいた学校指定のジャージにに着替えることで、なんとかことなきを得た。
行きと同じ時間をかけ、私達はゆっくりと帰路を辿る。
「じゃあまた。今度からは逃げずに、ちゃんと放課後あの教室にきてくださいね」
「はいはい。わかったよ」
「約束ですよー? 破ったら呪いますから」
「本当に呪われそうだからちゃんと行くってば」
念に念を押したあと、知生は私より手前の駅で降りていった。帰りの電車はお互いうとうととしていたせいで、ろくに会話もなかったが、そよぐ空調が心地良かったことだけははっきりと思い出せる。
そういえば、彼女は一人暮らしと言っていたな。一人になった瞬間、寂しくなったりしないんだろうか?
余計なお節介を心に浮かべる私を、電車は最寄り駅まで運んでいく。増えていく街明かりが、意識をいつもの日常へと引き戻していく。
とにもかくにも、手伝うと約束しまったのだ。明日の休みはゆっくりと今後の対策を考えよう。
揺れる電車に合わせ、私の肩は愉快に揺れた。
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