第3話

 衝撃的な出来事が立て続けに起こっても、あっさりと次の一日はやって来る。

 私は手を濯いだ後、ぼんやりと鏡を眺めた。

 下がった目尻は覇気がない癖に愛嬌もない。肩を覆う長い髪は光沢が少なく、毛先は好き勝手に遊び呆けている。

 悔しくてお淑やかに微笑んでみるが、鏡が返すのは不気味な私の姿だけだった。

 進級とともに伸ばし始めた髪が、時間の流れを報せている。

 昨日の一件があり、私は連れ去られることに対する警戒心を強めながら一日を過ごした。

 昨日の様子を見ていたクラスメイトからはそのことを追求され、みちるには盛大にからかわれ、アキは今日も学校に来ていない。

 警戒のおかげか、今日は何も起きなかった。これはこれで拍子抜けではあるが、帰宅前にまったりとお手洗いに行って、感傷に浸れる程度の平穏が訪れていた。

 あとは教室に戻りカバンを取って、スキップでもして帰ってやればいい。明日は休みだ。帰りついでに図書館にでも寄って帰ろう。

 そんなことを考えながら廊下を曲がると、階段の踊り場に横たわる少女の姿が目に入った。

 黒くて長い髪を携え、俯き姿勢で倒れる少女の周りには乱雑に荷物が散らかっており、脱げ落ちた片方の上靴がなんだか痛々しかった。

 まさかこの子、階段から落ちたのか。わずか数秒でそう判断できるほど、確定的な様相が広がっていた。

「だ、大丈夫⁉︎」

 私は急いで横たわる少女に駆け寄った。周りには人の気配もなく、嫌というほどの静寂が広がっている。

 どの程度の高さから転がったかはわからないが、少女は薄く息をするだけで返事が返ってくる様子はない。

 頭を打っているかもしれない。下手に動かさない方がいいのか。じゃあまずは保健教諭を急いで呼んで……。いや、一刻を争うかもしれないこの状況で、そんな悠長なことをしていられるか。

 周りには人の気配もない。幸いなことに彼女は小柄だ。ならば多少無茶でも、私が抱えて行った方が早い。

 刹那の思考でそう行き当たった私は、なるべく衝撃を与えないように少女の体を起こした。

 私の力でゆっくりと仰向けになった少女の顔を見て、自らの身体が硬直したことがすぐにわかった。なんなら声も漏れていたかも知れない。

 少女の顔が傷だらけだったわけでもないのに、私がギョッとしてしまったことにはもちろん理由がある。

 一つは予想に反して少女にはしっかりと意識があり、かつ笑顔を浮かべていたこと。

 そしてもう一つは、少女の顔立ちが私の予想の範疇外にあったこと。

  そんなはずはない。だって昨日はショートヘアーだったじゃないか。

「あ、あなた……」

「――捕まえた」

 少女はしっかりと意識を持って、私の手首を掴んだ。硬直する私に向け、少女は言葉を続ける。

「まずは昨日の復習といきましょうか。さて、私の名前はなんでしょう?」

「……恵比、知生」

「はいお見事です」

  階段下で横たわっていた少女は、他でもない昨日一昨日の不思議ちゃんだった。ここでようやく、私は今この瞬間自分が罠にかかってしまったということに気がついた。

 ぴんぴんしているこの様子を見たところ、きっと階段を落ちた体を演出して私をおびき寄せてくれたのだろう。

 なんて心臓に悪い演出なんだ。これならばまだ首根っこを掴まれた方がマシだった。

 少女は私の手首を掴んだままそそくさと散らばった荷物を集め始める。

 衝撃的な出来事に力が入らなかったことももちろんではあるが、純粋な安堵から力が抜けてしまった私は、呆然とその様子を見つめた。

「ほ、本当に心配したんだからね」

 言葉を発しながら、なんだか涙が出そうになってきた。安心なのか衝撃なのか、もう感情が迷子だ。

 少女はそんな私の手首を離さず満面の笑みを浮かべ、昨日さながら空き教室へと私を引っ張っていった。力なく引きずられる私の身体は、空き教室に到着してようやく機能を取り戻した。

 ふつふつと湧いてきた感情が、私の口を動かしていく。

「なんなの? 見るたびに別人みたいな装いなんだけど。カメレオンか何かなの?」

「コマキサ先輩は爬虫類を見たことがないんですか? カメレオンはこんなにでかくないですよ」

「コマキサじゃなくて小牧! ああもう、例えよ例え! 髪! どうしたのそれ!」

 例えて突っ込む相手を間違った。遠回しな表現は、おそらく彼女にはうまく作用しない。

 私の言葉に彼女はふっと息を吐いた後、髪をさらりと撫でた。柔らかい光沢が不規則に揺れる。

「これですか? ウィッグですよ。今日のイメージは正統派ヒロインです」

「うぃ……。まさか、私に気づかれないためにわざわざ?」

 これが単に私を欺くためだけに用意したものなのであれば恐ろしい話だ。そんな私の懸念をさらりとかわすように、彼女は事もなげに身を翻した。

「髪型ってその日によって変えたくなりますよね。それだけです」

「はあ?」

「ロングヘアーって可愛いですよね。汚されていない清廉さが感じられます」

 私が返した疑問符にも、少女は自信満々な言葉と笑みを返すだけだった。

 なにがそれだけなんだ。確かにロングヘアーはとてつもなく似合っているが、それが答えになっているとでも思っているのだろうか。全くわけがわからない。

 彼女は指の先でくるくると毛先をいじりながら、私に視線と言葉を焚べる。

「思いの外簡単に付いてきましたね。もっと抵抗しても良かったのに」

 心配やら衝撃やらで抵抗する牙が抜かれていただけで、私だって出来るならばこんな所に二日連続連れてこられたくはなかった。

 相手が変人だということを考慮すれば、このぐらいの衝撃は警戒しておくべきだったのか。いや、無理でしょ。私に予知能力などはない。 

「驚きが勝っちゃったんだよ。普通ここまでする?」

「ここまでとは?」

「わざわざ階段から落ちたふりをしてたんでしょ? 髪のこともそうだし、まんまと騙されたよ」

「ああ……」

 知生は何かに気がついたようにポンと手を叩いた。

「失礼失礼、私の常識が世界の常識というわけではなかったですね。さっきのは騙すことが目的じゃないですよ。コマキサ先輩は『プラネットアイ』って小説を読んだことがありますか?」

 もちろん知っている。ちょうど先日読み終えた宇宙人の物語のタイトルだ。

 この子を最初に見た時、その小説のワンシーンを再現していたな、という悪夢のような記憶が蘇ってきた。

「あるけど」

「なんだ、あるんじゃないですか。じゃあ何かに気がつきませんか?」

「何か?」

「ほら、中盤あたりですよ」

 私は腕を組み、すでに図書館に返し終わった本の中身に想いを馳せる。呆れながら思考を回した私の脳に、小説のワンシーンが芽吹いてきた。

 階段から落ちた宇宙人ちゃんを主人公が保健室に運ぶシーン。そういえばそんなものがあった気がする。宇宙人ちゃんは、確か黒髪ロングヘアー設定だった。盤にピースが埋まっていくように、文字が頭をよぎっていく。

「まさか、あの小説のシーンを?」

「はい。やってみたかったんで再現しただけです。それ以外のニュアンスなど一つも存在していません。たまたまそこにコマキサ先輩が来ただけです」

「嘘でしょ……」

 何という間の悪さ。何という運の悪さ。嫌なことに、全力で知恵を振り絞っていれば、なんとかこの事態を回避できていたのかもしれない。

「物語は波乱に満ちています。それを模倣すれば私にも何か楽しいことが起こるかなと。実際何かが起こったわけですが」

「そ、そう、よかったね」

 私はギリギリのプライドで言葉を返した。最初は男装、今日はロングヘアー。昨日のはちょっとわからないけれど、様相に合わせておおよそ行動までもが話に上がった小説と同じだ。

 気分に合わせて髪型を変えるというのはそういうことか。理解したくはなかったが、先ほどの言葉をしっかりと理解してしまった。

 私はあからさまに怪訝な表情を用意し、少女に視線を向ける。

「それで? 私をここまで連れてきて、小説の模倣の続きでもするつもりなの?」

 見下して威圧しているようにも見える状況にばつの悪さが生まれ、私は逃げるように近くの椅子に腰掛けた。私が座ったのを見て、彼女は指でゆっくりと髪の毛をなぞった。

「何を言ってるんですか。こんなものはちいリストのオマケに過ぎませんよ」

「おまけ……。そっか、リストを手伝えって言ってたもんね」

 私は馬鹿か。何を冷静を装って言葉を返しているんだ。うっかりと話を聞く体勢になってしまっているじゃないか。

 急いで逃げてやろうと思ったが、私のすぐ目の前まで少女が近づいてきていたことにより、立つことすら出来なくなった。今度は逆に見下ろされる形になる。

「それではお待ちかねの本題へ」

「待ってないんだけど……」

 彼女は私の額に指先を置いた。いよいよ狼狽ることさえも封じられてしまう。

「コマキサ先輩は海派ですか? 山派ですか?」

「はあ? なんなの急に」

「急ですか。じゃあ然るべきタイミングが来たら聞き直しますね」

「そういうことじゃなくって……。まあいいわ。山だよ、山!」

「なるほど。ちなみに私は海派です」

「あっそう。それで? それがどうかしたの?」

 質問の意図も、なぜ今それなのかも、何もかもがわからない。もう深く考えるのはやめよう。どうせ逃げられやしないのだ。付き合うだけ付き合って、今日で全てに決着つけてやればいい。

 堂々と腕を組んだ私を見て、少女は私の額から指を離し、ホワイトボードの方へと駆け寄っていった。

 彼女はスムーズな手つきで、ホワイトボードに文字を並べていく。

「はい、読んで読んで」

 私をオウムか何かと勘違いしているのかこの子は。ムッとしながらも、私はかんかんとホワイトボードを叩く彼女の手に合わせ、言葉を発していく。

「ちいリスト28。海を感じよう……?」

「よし、じゃあ行きましょうか」

「えっ、なに? 意味がわからないんだけど」

 音読させられただけでなんの説明もないとは思わなかった。何から突っ込むべきなのかすらわからない。私の困惑に、彼女はやれやれと大きな溜息を返した。

「いやだから、海を感じるんですよ」

「私の物分かりが悪いの? 多分違うよね。海を感じるってどう言うこと? あとなんでそんな半端なナンバリングを」

「番号なんてなんでもいいでしょ。気分ですよ、気分。海を感じたい気分なんです」

「はあ……」

「ということで、今から海に行きます」

 何を聞き返してもどういうことなのかはやっぱりわからないが、どうやら彼女は海へ行こうとしている。

 学校からだと、一番近くの海までは二時間以上かかるはずだ。日も傾いてきた今から向かえば、着く頃には夜になっているだろう。

 というか、私は山派だと言ったじゃないか。

「む、無理でしょ。私なにも持ってきてないし」 

「必要なものなんて何もありません」

「荷物だって、教室に置きっぱなしだし」

「これのことですか?」

 彼女は部屋の奥の方からカバンを取り出した。くたりとした猫のキーホルダーがついたカバン――おや? 見覚えがあるぞ。

「私のカバン!」

 教室を出るときにはしっかりと机の上に置いていた私のカバンが、今目の前に差し出されている。なんだこれは、マジシャンなのかこの子は。

「勝手に持ってきたの?」

「さっき教室に行ったら、先輩のお友達がくれたんですよ」

「友達……?」

 私のカバンを勝手に……。みちるの仕業だ。そうに違いない。大方面白がってニヤニヤしながらカバンを差し出したのだろう。

 他人事だと思ってやりたい放題やって、本当に酷い奴だ。カバンを取りに行くふりをして逃げようと思ったのに。

 頭を抱える私に、知生はカバンを放り投げる。中身などほとんど入っていないはずなのに、それは鉛のように重く感じた。

 彼女は代わりに自身のカバンを拾い上げ、私の手を引いた。

「時間がありません。急ぎましょう!」

 いよいよ逃げ道が全て無くなってしまった。理解も何も追いつかないまま、つかつかと歩き始めた知生に合わせ、私も渋々足を進めた。

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