第2話
「おはよっ」
背後からかけられた声に、私は突っ伏していた身体を起こした。くしゃりと皺の寄った笑顔が私を出迎える。
声の主が昨日連絡を寄越してくれた張本人だとわかり、私は薄く笑みを返した。
「おはよう。昨日はごめん」
「私は意外と気にしてないから平気よーん。さやちんの健康の方が遥かに大事っしょ」
「ありがと」
「それにまあ、ぶっちゃけ昨日はハズレだった的な? 来なくて正解だったよぉ」
今度はぷくりと頬を膨らませ、わざとらしく息を吐き、彼女はそのまま私の前の席に腰かけた。退屈そうな肘が机にどんと置かれる。
手に顎を乗せ、唇を尖らせてこちらを見る野花みちるは、クラスで私が気兼ねなく話せる数少ない人間の一人だ。
噂話が大好きで、無垢にずけずけとこちらに歩み寄ってくる態度から、こちらも気を使うのが馬鹿馬鹿しくなっているだけではあるが、入学当初からなんとなく気楽に話せる間柄になっていた。
誰にでもフランクに接することのできる彼女は、クラスでも中心人物の一角を担っている。
場違いな私が今のグループに属せているのも、他でもない彼女がなんとなく間を取り持ってくれているお陰なのである。
そんなみちるは私の額に手を当て、満足そうに頷いた。
「健康そうでなによりってかんじぃ。でも、アキはおこだったよ」
みちるの言葉に、私の気分と瞳はがくりと落ちた。
グループどころか、クラスでも一番幅を利かせている、アキこと二階堂明那。カーストという言葉を使うならば、確実に頂点に君臨している女。このクラスであの女を怒らせると、何かと生き辛くなるのだ。
やはり昨日の一手は悪手だった。なるべく早めにご機嫌をとっておかねば。
「やっぱりか……。で、アキは? 今日来るの?」
「今日はサボるってさ」
「そっか」
ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちの芽吹きと同時に、始業のチャイムが鳴り響いた。
チャイムに合わせ、跳ねるようにみちるが自分の席へと帰っていった。
どんよりとした気持ちを抱えたまま、私は校庭を眺める。
思考の隅に昨日の光景がふわふわと浮かんで、さらに憂鬱な気持ちになった。刮いでも落ちない錆のような色味が、記憶を彩っていく。
全部全部、昨日の変人のせいだ。私がクラスで浮いてしまったらどうしてくれるんだ。
私は舌打ちの代わりにシャーペンを鳴らし、聞きたくもない授業に耳を傾け続けた。
「さやちん。今日はどうするの?」
「どうしよっかな」
つつがなく一日が終わり、終業のチャイムが流れると共に、みちるが再び私の近くまで寄ってきた。
どうするもこうするも、私の放課後に予定などありはしない。ただその事実をさらりと言ってのけるのは癪なので、私は意味ありげな表情を作り窓の外を眺めた。
結局今日一日は、アキのご機嫌と昨日の変人のことばかり考えていた。
ふらふらと帰ってしまえば、また捕まる可能性もなくはない。というか、あいつは誰なんだ。
不平不満に顔を曇らせた私を見て、みちるが首を傾ける。
「あれぇ? なんか予定ある系?」
「いや、予定というより……」
さらに首を傾けるみちるを見て、私は空いた前の席に彼女を促した。
「あのさ、知ってたらでいいんだけどさ」
「なーにー改まって」
「多分下級生だと思うんだけど、不思議ちゃんな男の子の情報とか持ってない? 背が低くて、中性的な顔立ちの」
私が発した男の子という言葉で、みちるの目が輝きを放った。
「なになに。恋バナ? 珍しいね」
「違うってば。不思議な子に絡まれたから、その子について何か知らないかなって思ったの」
「なーんだ。期待して損しちゃった。えーっと、下級生ね……」
みちるはあからさまにつまらなさそうな表情を浮かべ、カバンから手帳を取り出した。
中身を見たことはないけれど、こういった話の時、彼女は必ずこの手帳を開いていた。おそらく学校にまつわる噂話を大量に抱え込んでいるのだろう。
中身を想像しただけで身震いしてしまう。
みちるはぱらぱらと手帳をめくっていき、深い唸り声を上げた。
「不思議ちゃんな男の子、中性的でちっさい、ねえ。私のところには情報がないなぁ」
しばらく手帳を眺めたみちるは、手帳を閉じてやれやれと両手を挙げた。
まさか私が噂に疎いだけではなく、彼女の情報網にも引っかかっていないとは。
あれだけ不可思議な子が、校内で噂になっていないわけがない。いよいよ昨日のあれは私の幻想だったという説が浮かび上がってきてしまう。
「そっか……ありがと」
落胆を混ぜた私の感謝に対し、みちるはあげた両手をこちらに向けた。
「ああ、でも」
みちるが言葉を続けようと口上を述べたところで、がらがらと勢いよく開けられた扉の音がそれを遮った。
放課後で人影もまばらになってきているのに、何を粗暴に扉を開ける必要があるんだ。言葉を詰まらせて音の元を向いたみちるに釣られ、私も身体をよじった。
教室の入口には、ショートカットを無理くり二つにくくった小柄な女の子が立っていた。リボンの色は黄色、どうやら一年生のようだ。
わざわざ上級生の教室に乗り込んできて、何をしているんだろうか。そんな暢気な考えを浮かべていた私の背中に、何故か冷や汗が流れた。
割と最近、あれに似たシルエットを見た気がする。いやしかし違う。なにより性別が違う。少女は何かを探すように、きょろきょろと教室内を見渡し始めた。
無意識に視線を戻した私の目に入ったのは、にやりと笑うみちるの顔だった。好奇心に輝く彼女の目を見て、私はおずおずと言葉をかける。
「ど、どうしたの? 知り合い?」
「いや、さっきの続きね。男の子では該当する子はいなかったけど、女の子ならいるんだよね」
「え、なにが?」
「さやちんが言ったんでしょ、不思議ちゃんだよぉ。今まさに乗り込んできた女の子」
不敵に笑う彼女が指した指の先を、私はゆっくりと目で追った。
その流れで、入口で仁王立ちする少女と、ぱちりと目が合ってしまう。その瞬間、少女の顔が空気の弾けたような笑顔に変わった。もう一度冷や汗が伝う。
「あぁーー!」
「ひっ」
思わず声を漏らした私に、少女は小走りで近づいてきた。そのまま私のすぐ横まで足を進めた少女は、満面の笑みで私を見下ろした。
「な、なに?」
なんとか発した私の言葉を無視して、少女は私のシャツの後ろの襟を掴んだ。そのままグッと上向きの力が加わり、首が絞まるのを避けるため、私は急いで立ち上がる。
「ちょっと! 急に何するの!」
私の反撃の言葉をもろともせず、少女は私の襟を掴んだまま教室の出口へと向かっていった。
自身よりも遙かに小柄な女の子に、猫さながらの様子で運搬される私の目には、お腹を抱えて笑うみちるの姿が映った。
「ちょ、苦しいって。なに? なんなの?」
ずりずりと運ばれる間も不平不満を述べ続けたが、少女の足は全く止まる気配を見せなかった。
教室を飛び出し、廊下を行き交う生徒たちの視線を浴びながら、景色が移ろいで行く。
後ろ向きで歩くという器用な動きをしっかりとこなしている私を、誰か褒めてはくれないだろうか。
「わかった! わかったから! ちゃんと着いて行くからシャツから手を離して」
少し経った頃には、周りの視線からくる恥ずかしさやらなんやらで、もうどうすれば被害が最小限に収まるかということにしか思考が向かなくなっていた。
無言のままずんずんと進む少女の足は、どうやら使われていない教室の前で止まった。
施錠がされていなかったのか、少女は私を引き連れあっさりと教室に侵入する。そこでようやく私の体に自由が戻った。
唖然としてその場に崩れる私を見下ろし、少女は大きく腕を組んだ。まだまだ高い位置にある太陽が、少女を照らすように教室に差し込んでいた。
「ようこそ我が城へ!」
唖然とし続ける私に、さらに困惑案件が投げ込まれる。引きずられたことから処理するべきなのか、はたまた今の発言について言及すべきなのか。
五分ほど前まで流れていた穏やかな時間が幻だったかのように、私の脳は急ピッチで情報を処理し続けた。
「やあお姉さん。昨日ぶりですね」
くるりと跳ねる髪が思考を遮っていたが、ここでようやく現実が追いついてくる。
この女は、おそらく昨日の宇宙人呼び男と同一人物だ。わずか一文で矛盾が生じてしまうが、これは昨日の延長戦だという認識で合っていそうだ。私はしっかりと、連日変人に捕らえられてしまったらしい。
言葉を奪われ押し黙る私を見て、少女は不満そうな顔を浮かべた。
「ほら、喋って喋って」
ぱちりと叩かれた手の音で、催眠術が解けたように私はハッと我に帰る。幻想であってほしかったが、どう考えてもここは現実だった。
「な、何が目的なの⁉︎ お金ならないよ!」
「なんですか、そんな、知らない人に誘拐された人みたいなリアクション」
「満点のリアクションじゃん……」
一言言葉を発したことで、私の中に少しばかり余裕が生まれてきた。落ち着いて、一つずつ処理していこう。
「誰なのあなたは? どうして私はこんなところに連れてこられたの?」
少女はくるりと身を翻し、空いた椅子に腰掛けた。スカートを揺らし、ゆっくりと足を組み、彼女はニヤリとこちらを見つめる。
「昨日言ったでしょう。協力者を探しているって」
「ちょ、ちょっと待って。え? 昨日? あなた、昨日の男の子なの?」
もう既に理解しかけているが、情報を整理するため私はわざとらしく質問を返した。それに対し、少女はこちらもわざとらしく溜息を吐いた。
「顔見りゃわかるでしょ。正確には昨日の美少女ですよ。ハロー」
「だって、昨日は男子の制服を着てたじゃない。髪だって……」
「うちのゆるゆるな校則を知らないんですか? あれぐらいで罰せられませんよ」
「いや、そうじゃなくて……」
なぜそんなことをわざわざしていたのかということを知りたかったのに、少女は当たり前のように見当違いの返答を返してきた。
やはり間違いない。こいつは私の常識の中には収まっていない。きっとこの状況を微塵も異常だとは思っていないのだ。
少女は私が次の言葉を考えているうちに、スタスタと立ち上がってホワイトボードへと向かっていった。きゅぽんという間抜けな音とともに、ホワイトボードに文字が書かれていく。
「私としたことが、自己紹介を忘れていました」
少女はペンに蓋をして、完成した『恵比 知生』という文字をとんとんと叩いた。
「リピートアフターミー。えびちい」
「え、えびちい……」
「ベリーグッド!
ついつい復唱させられてしまった。
なるほど、ちいと読むのか。えびちい。エビチリみたいで美味しそうな名前だ。そんな感想を頭に浮かべていると、こちらにペンが投げられた。
慌ててそれをキャッチした私を、彼女はホワイトボードの前へと促した。
私にも書けと言うことか。というか、なぜわざわざホワイトボードを使うんだ。
不平不満を飲み込みながら、私は自身の名前をホワイトボードに書き込んでいく。あっという間に見慣れた文字列が完成したが、すんなりと言ってやるのもなんだか癪だったので、私は文字列をペンで叩いた。
その音と重なる速さで、少女の口が開く。
「こまきさやこ、ですか」
「せ、正解だよ」
私が書いた『小牧 沙夜子』という文字列は、ふりがなをつける前に読み解かれてしまった。
てっきりさよこだのなんだの間違えてくれるかと思ったのに、なんともあっけない。がくりと肩を落とした私に、少女は言葉を続ける。
「では改めて、コマキサ先輩、よろしくです!」
「こ、コマキサ⁉︎」
「何を驚いているんですか。苗字のままでしょ」
「区切る位置が変なんだけど! 小牧だよ、こ、ま、き!」
「ああ、そうなんですね」
なぜ私がそんな新手の妖怪のような名前で呼ばれなければならないのだ。
わざわざホワイトボードを使ったのに、こんなトンチキな間違いをされるとは思わなかった。少女は私のツッコミをさらりとかわし、言葉を並べていく。
「まあ、自己紹介はこのへんで。コマキサ先輩、改めてですが、私は協力者を探しているんです」
「だから小牧だってば……。協力者?」
「はい。協力者です。手伝ってくれますよね?」
私の混乱を意にも介さず、少女は自信満々に腕を組んだ。
協力者ってなんだよ。まずは無理やり連れてきたことに言及しろ。そもそもコマキサを定着させるんじゃない。
頭を駆け巡る不平不満諸々の数が指で数え切れないほどに膨れ上がったと同時に、私の脳は同時処理を諦めた。
「何に協力するの?」
さっさと断って帰ればよかったのに、うっかりと相手に餌を与えてしまった。
少女はキラキラと目を輝かせ、私の手を取った。小動物のような細い体躯が、目の前へと迫ってくる。
「コマキサ先輩、今幸せですか? 楽しいですか?」
「け、啓発系ならお断りだよ!」
「何をわけのわからんことを言ってるんですか」
「それ、完全に私の台詞なんだけど」
「別に怪しいもんに招待しようってわけじゃありませんよ。単なる興味です。幸せですか? 楽しいですか?」
少女は再び同じ問いを私に投げかけた。
言葉のやりとりはともかく、可愛いなこの子。本当に小動物みたいだ。下から覗く丸い瞳が、私の思考回路を崩していく。
「まあ、それなりに」
「たった一度の高校生活、それなりでいいんですか?」
「……どういうこと?」
少女は自分で納得する素振りを見せ、制服のポケットから一冊のノートを取り出した。
ノートの表紙にはきっちりとした文字で『ちいリスト』と書かれている。
「私はただ過ぎていく日々を過ごすなんて絶対に嫌なんです。そこでこれを作りました」
少女は取り出したノートをパタパタと揺らした。導かれるように、私は口を開く。
「ちい……リスト?」
「そうです。正確には、『高校生活を満喫するために絶対にやっておきたい100のこと』通称ちいリストです!」
どこの通がそんな称を与えたのかは知らないが、少女は自信満々にノートを私に手渡した。
中を開けると、箇条書き形式で言葉が並べられていた。いくつかの項目にはチェックのようなものも入っている。
「高校生活に後悔を残さないように、私はこのリストに書いてあることを全部やりたいんです。そのための協力者に、あなたは選ばれたのです。はい拍手!」
とんとんと話を進める少女の拍手で、ようやく理解が追いついてきた。
要は、高校生活を充実させるためのリストを完遂するため、力を貸せと言っているのだろう。
しっかりと理解をしてしまった結果、とてつもなく厄介な事に巻き込まれたという現実が姿を現した。
「ちょっとまって! あ、まず拍手はやめようね。私は協力するなんて一言も……」
「安心してください。嫌でも協力したくなりますから」
「何それこわい!」
「とりあえずそういうことです。それじゃまた明日!」
「ちょっと!」
私の言葉など聞こえていないかのごとく、少女は私からノートを取り上げそそくさと教室を後にした。
とりあえず、どういうことなんだろう。解決していないことが多すぎる。急に静かになった教室が、再び困惑を連れてきた。え、明日? また来るの?
運河のように散りばめられた疑問点に目を眩ませながら、私は重い足で自身の教室へと戻った。
当然のように無人になっていた私の机には、「楽しくなりそうだね」というみちるの字で書いてある付箋だけが置かれていた。
勢いよくそれをちぎった私は、カバンを取り上げ重い足取りのままで帰路に着いた。
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