夜を青く染める

豆内もず

くらげとねこ

第1話

 私の人生を一冊の本にしたならば、青春の一ページとやらはひどく余白の多いものになるだろう。

『華の女子高校生』という煌びやかな広告を散らかした表紙からは想像できないほど、読み応えのない文字がふわふわと浮かんでいる、そんな本。

 こんなポエティックな独白がどろりと渦巻いてしまうのは、きっと今読み終えたこの文庫のせいだ。そうに違いない。

 校庭から聞こえる青春の音に溜息を返しながら、私は文庫を鞄へと仕舞い込んだ。代わりに取り出した携帯電話を覗き、席から腰を上げる。

 どこにでもいるような男子高校生と、無邪気な女宇宙人のドタバタコメディ。女宇宙人ちゃんが可愛くて最後まで読み進めてしまったが、我ながらなぜ手に取ってしまったかわからないほど、リアリティの欠片もない小説だった。

 それでも、こんなものに憧れを抱いてしまうほど空気の抜けた日々が、私の高校生活だ。

 積まれた未読通知の山に愕然としながら、渋々発信ボタンを押すと、短いコール音に続いて怒号が耳を劈いた。

「おっそーい! 何やってんの?」

「ごめん。気がつかなかった」

「五時に集合って言ったじゃん! 男の子もう来ちゃってるんですけどぉ」

「あちゃー。ほんとごめん。先に始めといてくれる?」

「あちゃーじゃねえよっ! アキも怒ってるからね! 秒で来なよ!」

「あはは。善処します……」

 通話が途切れた画面には、約束の時間を五分ほど超えた時間が大きく表示されていた。

 どうせ合コンの数合わせだ、少しくらい遅れても文句など言われまい。そんな安直な考えを浮かべていた事もあって、理由もなくあっさりと遅刻をしてしまった。

 単に乗り気ではないというのが本意ではあるが、これに参加しないことでグループに馴染んでいるという擬態が剥がされるのは困る。

 こんな事を考えているから、私はいつまで経っても中途半端に浮かんでいる事しか出来ないのかもしれない。

 私は重い足を無理やり動かして、教室を後にした。

 

 高校二年生になり、二ヶ月が経過している。この時期になれば、ほとんどの人間が何かしらの仲良しグループに所属していることだろう。

 部活動にも委員会にも属していない私は、進級とともに一旦孤立無援となり、方々を彷徨った結果辛うじてクラスの煌びやかなグループに身を潜めていた。

 真面目を貫けるわけでもなく、かと言ってカリスマと呼ばれるほど突出した感性を持ち合わせてもいない。孤独に耐えられるほど孤高でもなければ、大勢で騒ぐことにも躊躇いがある。

 朝礼前、中休み、お昼ご飯、放課後。一人で過ごすには高校生活は長すぎるし、どこに向ければいいかわからない心をくるくると回しながら、私は周りに溶け込むことだけを考えて生きている。

 そんな私は、数合わせという微かな蜘蛛の糸にでもしがみつかないとポジションを確立できないのだ。我ながら反吐が出る。


 いっそのこと、先の小説の主人公のように、校庭の隅で宇宙人でも呼んでみようか。美男子宇宙人がやってくれば、私の人生にも華が出る。なんなら美少女でもいい。

 確か空を見上げながらメトロノームを鳴らし、その音に合わせて身体を揺らして叫ぶのだ。「宇宙人さん、僕はここです」と。それに呼応して、宇宙人が下りてくる。

 くだらない妄想に薄ら笑いを浮かべながら、私は階段を下っていく。

 現実でそんなことをすれば、宇宙人ではなく心配した教員を呼び出せそうだ。馬鹿馬鹿しい。変人なんてポジションは真っ平御免だ。

 昇降口を抜け、部活動中の生徒の目に入らないよう裏道を通る。

 特定の誰かに会いたくないわけではないが、なんとなく人目につきたくはなかった。離れていくブラスバンドの音を背景に、私は足を進める。

 ふと、かちり、かちりと規則正しい音が聞こえた。

 馴染みのある音ではないが、これはおそらくメトロノームだ。珍しい、こんなところで楽器の練習をするなんて。

 暢気に思考を巡らせていた私の意識は、続いて響いた大きな声によって遮られる。

「宇宙人さん! 僕はここです!」

 私は思わず声の先を目で追った。音の根っこには、一人の少年が佇んでいた。

 少年とは形容したのは単に彼が男子の制服を纏っていたからであり、響いた声も含め、五メートルほど離れたこの距離でもかなり中性的に見えた。

 そんな少年は、メトロノームの音に合わせ、小柄な体を揺らしている。いや、それどころではない。

 彼が声高らかに叫んでいたのは、間違いなくあの台詞だった。自身の頭の中が具現化されたのかと一瞬脳が混乱するが、あれは紛れもなく現実の出来事のようだ。

 まさかこんなにも偶然のタイミングで、恥ずかしい詠唱を聞くことになってしまうとは。やはりあれは創作だ。現実で目の当たりにすると、強烈な浮世感が纏わりついてくる。

 可哀想に。まだ創作と現実の区別がつききっていないんだろうな。眼帯とかをかっこいいと思っちゃうタイプだきっと。

 呆けている私に気がついたのか、少年はこちらを向き、ニコリと笑顔を浮かべた。あの行動の後だと、笑顔すらも恐怖を煽るスパイスにしかならなかった。

 絡まれては困る。私は同類ではないぞ。見なかったフリをしよう。それがいい。

 私はすぐさま視線を外し、早足で裏口へと向かった。

 学校から離れるにつれ、どんどん衝撃は薄らいでいった。喉元を過ぎてしまえば、むしろ愉快な出来事のように思えてきた。

「ああいうのって本当にいるんだ」

 私はほのかに笑みを浮かべ呟いた。ちょうど読み終えた本の愛読者と思しき人間が、まさかあんなところにいるだなんて。逃げずに声ぐらいかけても良かったのかもしれない。

 ふと、愉快に揺れていた私の肩が、何かしらの力によって動きを止めた。どうやら肩を叩かれたらしい。

 完全に気を抜いていたこともあって、私の身は大きく跳ねた。驚いて振り返った先に立っていた人影に、私は更に身を仰け反らせる。

「ああいうのっていうのは、僕のことですか?」

 私の視線の先では、先ほどの少年が変わらぬ笑顔を浮かべてこちらを見上げていた。

 猫のようにくりっと開かれた瞳と、あどけない八重歯が光る少年は、近くで見るとなお中性的だった。

 なんと可愛らしい生き物なのだろうか。姿と笑顔だけで、私の母性本能がこれでもかというほど擽られてしまった。

 いやいや違う。そうじゃない。いつの間に付いて来ていたんだ。思考回路が混線し言葉が出ない私を見て、少年は私の目の前で手を振った。

「もしもーし。聞いてますかー? ああいうのっていうのは、僕のことですかー?」

「な、なんのことかな?」

 言葉と共に我に返った私は、慌てて保身に走った。

 ここでシラを切らなければ、きっと今以上に絡まれてしまう。声くらいかければ良かったなど、十秒前の自分はなんと恐ろしいことを考えていたのだろう。

 逃げるようにスカートを揺らした私に対し、少年は肩を握る手に力を込めた。

「宇宙人って、信じますか?」

 少年は私の言葉どころか、それまでの全てを無視したかのような言葉を放ってきた。揺らぐことなくこちらを見つめる瞳が、ぞわりと私の身を震わせる。

 なぜこんなにも淀みなく、まっすぐな瞳で訳の分からないことを言ってくるのだろうか。そうか、こいつは危ない奴だ。関わらない方がいい奴なのだ。早く逃げ出さねば。

 脳内で生み出される罵詈雑言をぐっと飲み込み、私は少年に苦笑いを向けた。

「えっと、私になにか用かな?」

「逆にお姉さんが僕に用があるんじゃないですか?」

「……ないけど」

「でしょうね」

 少年は何がおかしいのか、くつくつと笑みを深めた。なんだこのトンチンカンな問答は。

 今すぐにでも逃げ出さなければならないと脳が訴えかけてきているのに、不思議と身体が動かなかった。

「お姉さん暇そうですね。いやー助かりました。ちょうど協力者を探していたんですよ」

「いや、私はこれから……って、協力者?」

「僕一人じゃどうしても手数が足りなくて。こんな時に暇そうなお姉さんを派遣してくれるなんて、神様は太っ腹ですね」

「い、急いでるんで!」

 このままペースに飲まれ続ければ、きっと何やら碌でもないことに協力させられかねない。平穏は守らなければ。

 心にふつふつと湧き上がってきた熱量を糧に、私は必死で少年の手を払った。それと同時に、一目散に家の方向へと足を向ける。

 少年はあっという声を上げたが、距離をとる私を追いかけて来ようとはしなかった。


 何だったんだろう。というより、何が起こったのだろう。考えがまとまらないまま電車に乗り込み、私は早足のまま家へと向かった。

 ドキドキと鳴る心臓と軋む足を引き連れ、私はやっとの思いで家へと到着した。流れのまま自室のベッドに倒れこむと、もうなんだか立ち上がる気力も無くなってしまった。

 携帯電話を確認する。時刻は十七時三十分。ここで私は重大なことに気がついてしまう。再び積もった未読通知の山が、さらに私の身体を重くした。

「しまった……。やっちゃった……」

 絞り出した声に合わせ、私は枕に顔を押し当てた。

 衝撃的な出来事に遭遇したせいで、完全に合コンの約束をすっぽかしてしまった。今から急げば何とかなるかもしれないが、どこを探してもそんな気力など見つかりはしなかった。

『ごめん。体調が悪いから今日は帰るね。埋め合わせは今度するから』

 やっとの思いでメッセージを送信した私は、そのまま項垂れ続けた。

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