居間に寝そべり、扇風機の風を浴びる真一。天気予報では、今夜台風が直撃するという予報が出ていたため、塾は休みとなった。しかし、朝から強い日差しが照りつけ、真一は手持ち無沙汰で思索にふけるしかなかった。


「達観」とは、立派になった大人の境地のことらしい。自分はその境地には程遠いと真一は思った。大人びているのは昴の方じゃないか。彼はいつも広い心で誰かのことを気にかけている。昴は、真一に塾の友達がいないことを一度も尋ねなかった。彼が話す時はいつも、真一のことだけを見て、明るく笑いかけてくれる存在だった。


「なぜ、こんなに優しくしてくれるのだろう。昴のような良い人がなぜ僕のそばにいるのだろう」と真一は思いを巡らせた。その思いと共に、特別な安心感を得ると同時に、心の奥底でむず痒さを感じ、小さなプラスチックが肉の中に埋め込まれたような違和感が広がった。


 真一は自分の頬を掴んでみた。そして、昴の手の感触を思い出した。胸の中に温かな感情が広がり、昴が一体何を思っているのかを考えた。記憶の中の昴はいつも笑っている。なぜ彼は笑っているのだろうか。


 昴はいつだって、真一の心を急に揺さぶるような行動をする。その瞬間、自分はどんな反応をしていただろうか。つまらない反応だったに違いない。変に拒絶することも、完全に受け入れることも、そのどちらも自分を暴露するようで、真一はいつもただ成り行きに身を任せるだけだった。それにもかかわらず、なぜ昴は飽きもせずに自分に構ってくれるのだろうか。


 かつて健太がクラスで放った言葉が脳裏に蘇った。「ホモ」と。そういえば、「お前らホント仲がいいよな」と健太に言われたことがある。あれはそういう意味だったのだろうか。


 昴には好きな人がいるのだろうか。もしそうなら、その子の前で昴は一体どんな表情を見せるのだろう。昴は女の子の友達も多く、別に女の子だからといって緊張することはない。むしろ、女子であろうとお構いなしに積極的にいじりにいくようなタイプだ。しかし、真一に対しては違う。むしろ、女の子よりも丁寧に大切に扱ってくれているように感じる。


 昴は好きな子の前では、どちらの態度を取るのだろうか。


 その時、玄関の扉が静かに開く音が聞こえた。買い物から帰ってきた母親の気配が漂う。ガサガサとビニール袋が擦れ合う音、そして床にドサリと重い荷物を置く音が響いた。母親はこれから昼ごはんの支度に取りかかるのだろう。真一はそっと目を閉じ、寝たふりをした。その心の奥では、肉に埋まったプラスチックの種が、じわじわと発芽しかけていた。


 夜が更け、台風がついに訪れた。風が唸りを上げ、激しい雨が窓を叩きつける。真一は窓辺に立ち、外の景色に目を凝らした。外では嵐が吹き荒れ、木々が折れそうな勢いで撓んでいる。その様子を見つめるうちに、真一は自分自身の姿を重ね合わせていた。


 風に抗いながらも、どうすることもできずに揺れ続ける木々。まるで自分の心そのものだ。昴に対する感情に翻弄され、心が揺れ動くばかりの自分。嵐の中で無力に揺れる木々と同じように、真一の心もまた、翻弄されるばかりだった。その時、心の奥底に埋まっていた疑念の種が、ついに芽吹いた。


 ──自分は実験台なのではないか。


 昴は、女の子の気を引く方法を探っているのではないか。真一が昴を好きなことを知っていて、その感情を利用しているのではないか。昴は、自分を実験台にして、どうすれば女の子を喜ばせることができるのかを試しているのではないか。そう考えると、全ての辻褄が合うような心地がした。


 外の風はますます激しさを増し、木々は激しく揺れ続ける。真一もまた、その疑念に苛まれ、心が乱れるのを感じた。風に翻弄されながらも必死に耐え忍ぶ木々のように、自分もまた、昴の策略に抗おうとしていたのだろうか。


 ──そんなはずはない。昴は……。


 真一は必死に昴を信じる心を取り戻そうと努めた。しかし、その努力も虚しく、心の中にあった昴の存在は驚くほどあっけなく倒れた。疑念の芽は、真一の内に潜む広い陰を土壌として急速に成長した。昴の言動がすべて計算されたものであり、自分の感情を弄んでいるのではないかという考えが、根のように真一の頭の中に絡みついて離れなくなった。心は次第に重くなり、その負荷に耐えきれず崩れ落ちるような感覚に襲われた。窓外の嵐が激しさを増す中、彼の心もまた、絶望の淵へと引き摺り込まれていくのだった。


 次の日、真一は塾に向かった。駐輪場に着くと、一足先に到着した昴が、自転車のスタンドを下ろしているのが見えた。夕暮れの柔らかな光が昴の顔を淡く照らし出し、ジーコジーコと虫の音が響いていた。湿った空気が真一の肌にまとわりつき、胸はドクンと高鳴った。それはこれまで感じたことのない、不安と緊張が入り混じった動悸だった。


 自分の感情を隠そうと、真一は自転車を押す速度を緩め、昴に気づかれないよう目線を逸らした。視界の端で、昴が入り口のドアを開けて中に入るのを見届けると、心には一層の孤独感が広がった。昴の後ろ姿が、これほどまでに遠く感じられることはなかった。


 自転車を止め、真一はしばらくその場に立ち尽くした。昨日の嵐がもたらした木々の残骸が足元に広がり、嵐の後の静けさが彼の心にも広がっているかのようだった。しかし、その静けさは安らぎではなく、深い混乱と不安の影を落としていた。


 教室に入ると、昴はいつも通りの笑顔で真一を迎え入れた。その変わらぬ笑顔に、真一の心は一瞬和らいだ。やはり、昴との時間は何も変わらず、楽しいものだと感じた。しかし、心の奥底には消えない憂いが影を落としていた。その微妙な変化を昴は見逃さなかったのだろう。あの日のように、昴は無邪気に真一の頬を掴み、優しく微笑んだ。


「真一、元気か?」


 その瞬間、真一の心には久しく沈黙していた警鐘が唐突に鳴り響いた。静寂を破ったその警告音は、かつてない不快感を伴い、頭の中で激しく反響した。真一はその感情の正体を掴むことができなかった。これは単なる猜疑心ではない。恐れと安堵の狭間で揺れ動く、小刻みに揺る不安定な心の震えだった。


 そこで真一の記憶は途切れる。次に浮かぶのは、新学期が始まってからの数週間ばかりだ。確かなのは、この日、真一の心が明らかに昴を拒絶したという事実。明々と花を開いたその拒絶心が、真一を最後の奈落へと突き落とすことになったのだ。

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