十一

 新学期が始まると、状況は一変していた。始業式が終わり、教室へ戻る途中、廊下で女子たちの騒ぐ声が耳に入った。昴に彼女ができたという噂だった。真一は冷や水を浴びたような衝撃を感じた。ふと昴の笑顔が浮かんできたが、その顔はたちまち歪み、大きく膨らんで真一の心を飲み込むように迫ってきた。


 また別の女子がもう一人に「ねえ、なんで昴がいいの?」と尋ねているのが聞こえた。真一は心の中で何て愚かな質問だと思った。昴以外に誰がいるというのだ。


 教室の自席に座ると、遅れて教室に入ってきた昴が真一の元へやってきた。「真一、お前聞こえてたろ」と問いかける。


 真一はドキリとした。昴は真一の机に両手をつき、眉をひそめて怪訝そうにこちらを見つめていた。目線を下に逸らすも、正面には昴の腰がこちらを向いておりバツが悪い。結局、再び昴の顔を見ることになった。


「……何が?」真一も怪訝な顔で返答した。


「何がって、俺お前のこと何度も呼んだのに。先に歩いてくんだから」


 そうだ、昴は確かに真一の名前を呼んでいた。始業式の後、昴は真一と一緒に教室に戻ろうとしていた。それなのに、真一はその声を無視して、先に教室へ帰ってしまったのだった。


「ごめん、ちょっと考え事してて聞こえなかったのかも」


「いいけどさ……」


 昴はそう言ってニッと笑い、真一の頬に手を伸ばした。真一はもはや抵抗しなかった。


「なあ、帰りに行きたいところがあるんだけど、一緒に行こうぜ」


 彼女と行けば良いのに。しかし、真一は微笑みながら答えた。「うん」


 次の日、真一は新しいシャープペンシルのグリップを指で揉んでいた。今月の末に彼の誕生日がある。昴はその日を覚えていて、真一にお揃いのシャープペンシルを買ってあげたのだった。「最近買って使い心地が良かったから」と文具屋で昴は言った。昴は真一に同じものを使って欲しかったのだ。誕生日近いし丁度良いじゃん、と昴は続けた。それは昴なりのお礼のつもりだったのかもしれない。しかし、真一はその意図を図りかねていた。なぜこんなことをするのかと勘ぐる真一の心に、ますます疑念が募っていった。


 ──模擬演習だったのだろうか。


 そして、自己嫌悪が真一の胸を激しく締め付けた。


 教室で、女子の一人が話しかけてきた。


「本当に二人って仲がいいよね。何でそんなに仲がいいの?」何でとはどういう意味だろう。僕が大人しいから?昴に釣り合わないから?ホモだから?


 その時、昴が介入し、「いいだろ」と言って女子の前に立ちはだかり、彼女たちの興味を逸らそうとした。そして、昴は真一の太ももに座り込んだ。女子たちは「やだー」と言いながら立ち去っていった。


 振り返って真一に話しかける昴に、真一は抵抗しなかった。しかし、心の中ではもう限界を感じていた。昴はいつもそうだ。こちらの準備ができないまま、勝手に何でも進めて、真一の心を暴露せんとかき乱していく。昴のせいだ。自らの身に迫る危険を排除しなければならない。


 太ももに伝わる昴の重みを忘れないように感じながら、真一は昴の硬い背中を押した。そして微笑んだ。「重いよ」と。昴も笑って「ごめんごめん」と言いながら立ち上がった。そして、昴は自席に戻った。


 それからも、真一は昴の声を幾たびも聞こえないふりをした。


 昴は以前ほど積極的に話しかけてこなくなった。何かを察したのかもしれない。真一もまた、健太と昼休みを過ごすことがなくなり、図書室で本を読む生活に戻っていた。ページをめくる音だけが、真一の孤独な時間を静かに刻んでいた。


 ある日、図書室で本を読む真一にクラスの佐藤さんがそっと話しかけてきた。彼女は真一と同じく、大人しく心の優しい少女だった。


「真一くん、ここ座ってもいいかな?」と、控えめに尋ねる彼女の声が、真一の心に優しく響いた。


「うん、もちろん」と真一は微笑んで答えた。


 それをきっかけに、二人はすぐに打ち解けた。昼休みを共に過ごすようになり、昼食を共にしながら、時には好きな本の話や趣味について語り合った。そのひとときは、真一にとって心の安らぎであり、静かな幸福を感じる瞬間となっていた。


 ある日、佐藤さんがふと尋ねた。


「真一くん、加藤くんと仲が良いよね?」


 加藤とは健太のことだ。真一は少し戸惑いながらも答えた。「うん、仲良くしてくれてるよ」


 彼女はさらに問いかけた。「ねえ、彼女っているのかな?」


 その質問に、真一は一瞬考え込んだ。そうか、そういうことか、と心の中で呟きながら、少し微笑んで答えた。「欲しいって言ってたから、いないと思うよ」


 健太は本当にいいやつだ、と真一は再び心の中で確認した。その時、自分がその恋を素直に応援していることに気づき、微かな温かさが心に広がるのを感じた。


 次の日の体育の時間、体力テストが行われた。真一は健太と組み、腹筋のテストに臨んだ。真一が腹筋を始める前に、健太が彼の様子を気にかけて声をかけた。


「なんか顔色悪くね?」


「そんなことないよ」と真一は答え、無理に笑顔を作った。しかし、健太と一緒にいると、心が軽くなるのを感じた。


 順番を交代し、今度は真一が健太の脛を抱え込むようにして押さえた。健太の体温が腕や胸からじんわりと伝わり、真一の心に一時の安らぎをもたらした。その瞬間、真一の心は穏やかになり、何も考えずにいられた。健太の笑顔と言葉が、真一の心を少しずつ癒していくのを感じた。健太の腹筋が終わると、二人は顔を見合わせ、自然と微笑みがこぼれた。


 ──真一は二年生となった。母親のわずかな希望とは裏腹に、真一は未だ学校に行くことを拒んでいた。しかし、始業式が終わったぐらいに、真一の家に一人の来訪者があった。クラスメートの佐藤さんだった。新学期の案内と共に、クラスメートたちからの寄せ書きが書かれた色紙を手に持っていた。だが、それはただの口実であり、彼女は真一のことを心から心配して訪れたのだった。


「真一くん、どうしてますか?」と彼女は控えめに尋ねた。


 母親はその様子を見て、真一を呼んだ。「真一、お友達が来てくれたわよ。ちゃんと挨拶しなさい」


 母親が真一の耳元で「可愛い子じゃない」と囁いた。真一は少し気まずさを感じながらも、すぐに元の調子で話し始めた。「大丈夫だよ、心配しないで」


 彼女はその言葉に安堵の表情を浮かべ、「そう、良かった」と微笑んだ。そして、「これ、良かったら読んで」と小さな本を手渡した。真一が「ありがとう」と言うと、彼女はそれ以上、彼の心の内に踏み込むことなく、静かに見守るようにしていた。「待ってるからね」と言い、玄関を出ていく彼女を真一は見送った。


 その背中を見つめる真一の肩を、母親が無言で優しくさすった。「さて、晩ご飯作らなきゃ」と言いながら、彼の背中を軽く叩いて台所に戻っていった。


 ガチャリと玄関の扉が閉まり、キーンとした静寂の中に立ち尽くした真一は、手に渡された色紙の裏をいつまでも見つめていた。

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