真一は自転車を漕いでいた。蝉の声が夏の空気を切り裂くように響き渡り、真一の耳を埋め尽くしていた。真夏の太陽が燦々と照りつけ、彼の白い肌を容赦なく焼き付ける。それでも彼は、その痛みすらも心地よいと感じていた。風を切って進むその瞬間、真一は自由を感じていた。青空が広がり、遠くに入道雲がそびえる景色が、彼の心に夏の訪れを告げていた。


 夏休みに入り、真一は週に四日、学習塾に通わなければならなかった。無機質な塾の空気は、学校以上に彼を閉塞感で包んだが、この日ばかりは違った。昴が真一の通う塾に興味を示し、夏期講習に参加することにしたのだ。初日はオリエンテーションを兼ねて朝から授業があり、昴もこの日は部活を休んで講習に参加していた。真一の心はいつになく浮き立っていた。


 教室には、真一と昴を含む生徒たちが並んで座っていた。講師の橘先生が前に立ち、低く響く声で挨拶を始めた。「はい、えー、橘です。今日から夏期講習ってことで、とりあえず何やるかを説明していくな」


 橘先生は、大きな色付きの冊子の束を先頭の生徒に手渡しながら言った。「はい、後ろに回してくれる? あと、初めての人もおるから言うけど、とりあえず分からんとこあったら手ぇ挙げて質問してくれ。ええな?」


 いつも通りの塾の授業が始まった。しかし、左隣には少し緊張気味の昴が座っていた。真一がちらと昴を見やると、ふと目が合い、二人は微笑みを交わした。昴は口パクと手振りで何かを話しかけてきたが、真一にはその意味がわからず、ただ微笑み返した。昴もまた、柔らかな笑みを浮かべて前を向き直した。その時、昴の右足がそっと真一の左足を突いた。それは一瞬の出来事だったが、真一の心に温かい波紋が広がり、教室の空気は今までにないほど軽やかに感じられた。この時すでに、真一にとって昴と共に過ごす時間が何よりも喜ばしいものとなっていた。


 授業中、橘先生はホワイトボードに数式を書きながら、快活な口調で説明を続けていた。「これも何も難しくない。ええな? 矢印をバッと書いて分配法則で展開して、移項する。1、2、3、4。そっからまとめて、移項。プラスはマイナス、掛け算は割り算。ええな?」


 隣の昴が小声で尋ねてきた。「これ、合ってる?」と言いながら、自分の回答を指さす。真一が「うん」と答えると、昴は嬉しそうに微笑んだ。


 授業が終わりに近づくと、橘先生は壁にかかった時計を見て、少し慌てたように言った。「あっ、時間か。おっけー、そしたら、昼ごはん用意してるみたいなんで、十分経ったら順番に取りに来てくださいね」


 生徒たちはお弁当を取って戻ると、教室の好きなところに集まり、自由に座って食べ始めた。教室は、昼休みの開放感とともに、さまざまな話声で満たされていた。


「塾の先生って、まじであんな感じなんだな」と昴が笑いながら言った。


「だってあの人、最後の方ぜんぶ自分のことばっか喋ってたぞ。何だよハムスター恐怖症って」


 どうやら昴の中には、凝り固まった塾講師像があったようだ。それが橘先生のせいでますます強く固定化されてしまったらしい。


「ええな? 真一、交換法則を見くびるなよ? ……いいだろ見くびって、あんなもん」と指を突き立て冗談混じりに言う昴の声が、教室のざわめきに溶け込んでいた。


 昴が楽しそうに話す傍らで、真一は実は橘先生のことがあまり得意ではなかった。どんなに面白い話をされても、それを共有する友達がいなかったからだ。しかし、今日昴と過ごせたことで気づいた。橘先生の授業が実は面白く、そして、昴は自分にとって本当に太陽なんだと。


 日々の講習が続く中で、真一は次第に昴との時間を心待ちにするようになった。その日、休憩時間に水を飲む昴の横顔に真一は思わず心を奪われてしまっていた。それに気づいた昴は水の入ったペットボトルから口を離し、真一に尋ねた。


「ん、お前も喉乾いた? これ飲む?」


 そう言って昴が何の躊躇いもなく突き出した手の先で、透明なボトルに入った水が静かに揺れた。真一の心臓は一瞬止まったかのように感じた。昴からボトルを受け取り、彼の唇が触れたその場所に再び自分の唇をつけた瞬間、真一の心がチャポンと波打った。


 二日目以降の講習はいつもと同じく夕方から始まり、夜に終わるサイクルとなった。授業が終わると、二人は暗闇の中、自転車を押しながらゆっくりと帰路についた。真一はふと空を見上げ、昴もつられて空を仰いだ。夜空には無数の星が散りばめられ、ひっそりと輝いていた。


「あれが夏の大三角形だろ?」昴が指をさして言った。


「うん、そうだよ。あの三角形の星の一つが織姫で、もう一つが彦星なんだ」真一は答えながら、さらに話を続けた。「実はね、織姫と彦星って結婚してから怠けるようになったんだって。織姫は布を織るのをやめ、彦星は牛の世話をしなくなった。それで神様が怒って、二人を天の川の両岸に引き離したんだ」


「へぇ、じゃあ本当はずっと一緒にいれたかもしれないんだな」昴は興味深そうに空を見上げ続けた。


「残りのあっちはハクチョウ座だっけ?これは特に何もないのか?」


「うーん、多分。でもなんか良いよね。一年に一度しか会えない二人の間を白鳥は自由に飛ぶんだ。二人はきっといつも白鳥のことを見て羨ましく思ってるんだろうな」


「おお、なんか”タッカン”してるなあ真一」


 真一はタッカンという言葉に聞き馴染みがなかった。


「タッカン?」


「何だよ、達観してるのに達観知らないのか?」と昴は嬉しそうに言った。「国語は俺の勝ちじゃん」


 その時、昴が真一の頬に手を伸ばし、優しく掴んだ。その不意な行動に驚き視線を下ろすと、昴と目が合った。真一の胸は激しく鼓動せざるを得なかった。その日から二人は、何となく帰りはいつも星空を仰ぐようになった。その穏やかな時間が真一にとってはかけがえのないものだった。


 真一は、もう昴に対する感情が単なる友情の範囲を超えていることを悟っていた。しかし、これまで彼はその感情を友情や尊敬の念に変えようとしていた。心の奥底ではそれが恋心であると気づきながらも、なぜ自分がそれを受け入れず、苦しむのかを理解できなかった。真一は心の中で葛藤し続けていた。


 自分を認めたはずの真一は、胸の奥ではやはり自分自身を受け止めきれていなかったのだ。昴と過ごす時間が増えるにつれ、自分が男を愛する異質な人間であるという現実、その事実を真の意味で受け入れることは永遠に訪れないのだろうと、真一は悟った。


 昴と並んで歩く星空の下、彼は心の中で静かに呟いた。「そうか、初めから僕は昴を好きだったのかもしれない……」


 その思いを認めるのは怖かった。昴が好きであると認めると、自分は真のゲイとなる。理解しがたい理屈だったが、真一は深く納得した。だから、ずっと気づかないふりをしていたのか。彼は恐怖に震えた。「そうだ、ゲイになんかなりたくない。ゲイだなんて言われたくない……」心の中で強くそう思い始めた。


 そんな真一の願いとは裏腹に、昴への恋心は日増しに膨らむばかりだった。昴の笑顔、その優しさ、それらが真一の心を揺さぶり続けた。彼は自分の感情に抗えず、その影がますます深まるのを感じた。夏休みの終わりが近づくにつれ、その影は一層濃くなっていった。


 ふと昴を見上げると、彼はまた星空を仰いでいた。明るい星空の逆光の中、昴の表情は影絵のように見えなかった。二人の頭上には、天の川と夏の大三角形が煌々と鎮座していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る