黄昏の光が柔らかく部屋を染める夕暮れ時、母と息子の二人が食卓を囲んでいた。窓の外では、夕日の残照が静かに揺れ、風の音が微かに響いていた。母親は真一の顔を見つめながら、言葉を探し求めるように何度も唇を開いたが、そのたびに言葉は喉元で詰まり、視線を落とした。


 食事が終わると、真一は静かに立ち上がり、無言のまま部屋へ戻ろうとした。その背中に向かって、母親は意を決して声をかけた。「真一、ちょっと待って」


 真一は足を止め、振り返らずに立ち尽くした。母親は慎重に言葉を選びながら続けた。「担任の先生と何度か話をしたの。あなたのこと、心配してくれているわ。まずは保健室登校から始めてみたらどうかって……」


 真一はその言葉に反応し、小さく首を振った。「保健室登校なんて嫌だ。学校に行くなら、他の子たちと同じように行きたい」


 その言葉には、彼の内に秘めた強い意志と、普通であることへの固執が感じられた。普通から外れることへの極端な恐れ、それが彼の心を締め付けていた。


 真一の答えに、母親は一瞬言葉を失い、やがて静かに頷いた。「そうね、真一。焦る必要はないわ。あなたの気が済むまでゆっくりしていいのよ」


 真一は再び歩みを進め、自室の扉を閉じた。その扉の向こうで、彼は心の中で呟いた。「お母さん、こんな息子でごめんね」


 一方、残された母親は真一の背中を見つめながら涙を拭った。「真一、こんなお母さんでごめんね」と静かに呟いた。


 互いに思いやる気持ちがありながらも、それが決して交わることのない悲しさが二人の間に横たわっていた。母親はしばらくその場所に立ち尽くし、真一が生まれた時のことを思い返していた。小さな手を握りしめ、その無垢な瞳に映る自分を見て、世界で一番大切な存在だと感じたあの瞬間。


 今、その手が届かない場所にあることに、母親の胸は痛んだ。彼女はまた一粒の涙を拭った。息子の心に届く言葉を見つけられない自分に、彼女もまた迷い、苦しんでいた。


 真一は静寂の中、そっと部屋に戻った。暗闇に溶け込むように扉を閉じ、机の前に腰を下ろす。母親に対する懺悔の気持ちが、真一の胸を締め付ける。母親の愛情を感じながらも、自分が彼女を信頼しきれていないことが、さらに彼を苦しめていた。母親は自分のことを決して理解してくれない。それを知ってしまったからこそ、真一は本当の気持ちを打ち明けることができなかった。


 彼は深く息を吐き、過去を振り返り始めた。なぜこうなったのか。何が原因で、何を正せば再び普通の生活に戻れるのか。彼はその答えを求めて、自分の記憶の中を一つ一つ辿っていった。


 その時、不意に昴の顔が浮かんだ。明るい笑顔、優しい声、それら全てが真一の心に深く刻まれていた。「やっぱり、昴なのか……」その思いが彼の心の中で静かに広がっていった。


 昴との関係を整理しなければならないと真一は感じた。いつからだろう。かつてあれほど焦がれていた健太に対する感情が薄れ、代わりに昴のことが頭から離れなくなったのは。


 真一はその糸を手繰り寄せるようにして、過去を辿り始めた。あの水泳の日から少し経って、自分の中で大きな気持ちの整理がついて以降、ふと浮かんだのは昴の顔だった。それ以来、昴に対する気持ちは日増しに強くなり、もう戻れないほど大きくなっていることに気づいたのだ。


「なぜだろう、どうしてだろう……」真一は自問し続けた。昴が恋しくてたまらない。その気持ちは抑えきれず、胸の中で膨れ上がるばかりだった。彼の心は昴への強い想いに支配され、普通であることの意味がどこか遠くに感じられるようになっていた。


 昴の笑顔、その優しさ、それらが真一の心を揺さぶり続けた。彼は机に突っ伏し、静かに涙を流した。部屋の中に響くのは、彼の静かな嗚咽と、外の風の音だけだった。

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