中間試験の一週間前、部活動が停止となり、学校全体に気の抜けた空気が漂っていた。その柔らかな雰囲気に運ばれたように、昴が真一の前の席に横向きに腰を下ろし、勉強を教えてほしいと頼んできた。真一は笑顔で快く応じたものの、心の奥では隣の健太の存在に揺れ動き、集中できなかった。


「なあ、これ合ってる?」と昴が尋ねたが、真一はその言葉を聞き逃していた。「え? えっと……」と口ごもると、昴は真一の頬を軽く掴み、苛立ちを装うようにして睨みつけた。しかし、その目の奥には微かな笑みが浮かんでいた。「おい、よそ見してただろ」と、半ば冗談めかして言った。


 その時、帰り支度をしていた健太が「それぐらい自分で考えろよ」と茶々を入れた。昴は立ち上がり、健太に向き直って「真一に聞いてんだよ」と睨み返した。「はいはい」と健太は軽く受け流し、真一の隣に立って問題を覗き込んだ。昴と健太は共に体格が良く、大の男二人に見下ろされる真一の心には、ひそかな恐れが広がった。昴が素っ頓狂な顔をして「なんだ、分かんの?」と問いかけると、健太は「汚ったねー字」と笑いながら言い捨て、そのまま立ち去った。昴は怒りを表に出し追いかけようとしたが、真一がとっさに腕を掴んで引き留めた。


「別に汚くないよ」と真一は静かに言った。実際、昴の字は汚くはなかった。荒々しさの中に独特の力強さを宿していた。「それに、ちゃんと合ってるよ」と付け加えると、昴は「ほんと?」と嬉しそうに微笑み、今度は背もたれを太ももで挟むようにして座り込んだ。


「なあ、お前頭いいし、今日から一緒に勉強しようぜ。教えてくれよ」と昴は提案した。その言葉に一瞬の寂しさを覚えたものの、すぐに真一の胸には喜びが広がった。「いいよ」と答えた。昴に頼られることが嬉しかったのだ。昴との間に築かれた信頼関係が、かけがえのないものに感じられた。


「だったら、明日俺んち来ない?」と昴は続けた。真一は「え、いいの?」と答えたが、その瞬間、胸の内に微かな不安が広がった。自分の笑顔がぎこちなく見えなかっただろうかと心配になったのだ。まるでその不安を掻き立てるかのように、頭の中で警告音が鳴り響いた。ビービーという耳障りな音が、真一の心に警鐘を鳴らしていた。


 昴はいつもこうして真一の内なる警告を呼び起こす存在だった。親密さが深まるほど、その親密さが真一にとって最大の脅威となるという皮肉を孕んでいた。昴のその側面が、真一にとって唯一煩わしい部分であった。しかし、その時の真一は、まだ自分の心の状態をしっかりと自覚することができていなかったのである。


 翌日の土曜日、昴に勉強を教えるために彼の家を訪れた真一は、玄関先で昴から「母さん、今日は留守なんだ」と告げられた。玄関を通り抜け、廊下を進む間に昴がふと思い出したように言った。


「そういえば、健太が新しいゲーム買ったらしいんだけど、知ってる?」


「うん、聞いたよ。でも、まだ見せてもらってないんだ」


「そうか、あいつも元気だよな。今度一緒にやろうぜ」


 真一は昴の言葉に軽く頷きながらも、その声には微かな緊張が潜んでいた。


 昴の家は静かな住宅街にあり、玄関を抜けると家族の温もりが感じられる整然としたリビングが広がっていた。真一はそこに立ち止まり、しばしの間、その家庭的な雰囲気に包まれた。昴は「こっちだよ」と促し、二人は廊下を進んで昴の部屋に向かった。


 昴の部屋に入ると、教科書やノートが散らばっているのが目に入り、真一は一瞬戸惑った。「ここ、座って」と昴が机の上を片付けながら言った。二人が床に腰を下ろし、勉強を始めると、昴が真一に問題の解き方を尋ねた。

「この問題、ここが分からないんだけどさ」と昴が言うたびに、真一の心は健太への思いと昴への配慮との間で揺れ動いた。昴に頼りにされることが嬉しいはずなのに、心の中で健太の存在が大きくなり昴のことを少しないがしろにしているような自分に嫌悪感を覚えた。


 少し時間が経った後、昴がふと声を潜めて言った。「そういえば、来月試合なんだ。真一、見に来てくれないか?」真一は一瞬、言葉を失った。胸の奥に何かが突き刺さり、昴の期待にどう応えるべきかを考え始めた。挙句、「うん、考えておくよ」と曖昧に答えてしまったが、その声には不安と迷いが滲んでいた。昴の目が期待に輝いているのを見て、真一の心はさらに動揺した。


 わざわざ男友達の試合に応援に行くことは、真一にとって危険な行為だった。それは普通じゃないのではないか? 周囲の目、そして自分自身の気持ちに対する恐れが彼を躊躇させた。昴の求める親密さと、その背後に潜むリスクの間で心は激しく揺れ動いた。昴の問いかけは、真一にとってはその友情の深さを試されるようなものだった。昴のその期待に応えたい気持ちと、自らの心に抱える不安とがせめぎ合う中、真一の心には波紋が拡がり、静かな葛藤が生まれていたのだった。


 それから小一時間ほど過ぎ、二人は英語表現のワークを解いていた。


「なあ、これおかしくね? 何で暗闇にいるのに灰色なんだ。暗かったら何も見えないだろ」


 昴は不意に口を開いた。真一は笑って答える。


「ことわざだよ。見てくれより中身が大事ってこと」


「ふーん」と昴はあまり納得しない様子だった。


「でもじゃあ猫じゃなくてもいいよな。ヒューマンでも良いじゃん」


「だから、ことわざだってば」


 真一はたまらなくなり吹き出した。昴も痺れを切らしたように、「うーん、わかんね」と言いながら床に寝転がった。「もう休憩しようぜ」と昴が言うので、真一もそれに続き床に寝そべった。昴の部屋の真ん中に敷かれたマットがそっと真一の身体に触れる。部屋の中に静寂が広がり、息を落ち着けた真一の心の中は再び、この場にいない健太のことでいっぱいになった。真一は自然と昴に背を向けていた。


 ふと、昴がそっと近づき、「疲れたー」と唸りながら真一を背中から抱きしめた。その動作に一瞬驚いた真一だったが、昴の意図を理解できずに混乱しながらも抵抗せずに受け入れた。昴の腕が真一の身体に回り、その温もりが真一の心に奇妙な安らぎをもたらした。


 数分の間、二人はそのまま無言でいた。昴の静かな息遣いだけが真一の耳元に届き、そのリズムに合わせて真一の胸の鼓動も徐々に落ち着いていった。しかし、その静寂の中で、真一の心は揺れ動き続けていた。なぜ昴が無言でいるのか、その理由を様々に考え巡らせるうちに、真一の心は一層混乱した。昴の行動の解釈が次々と浮かび、その一つ一つが真一の心に不安と安らぎを同時にもたらしていたのである。その複雑な感情の渦の中で、真一はただ昴の温もりを感じながら、その瞬間に身を委ねていた。


 そのままの姿勢で、昴が静かに「試合、来てくれよ」と囁いた。その言葉が耳に届いた瞬間、真一の心の中で警告音がけたたましく鳴り響いた。真一の心臓は激しく鼓動し、まるで何か大きな危険が迫っているかのように感じられた。その警告音は次第に高まり、真一の全身を包み込むかのようだった。耳元で感じる昴の息遣いが、その音をさらに強調し、真一の心は混乱と不安で満たされた。


 そして、その警告音は突如として無音となった。全ての音が消え去り、真っ白な静寂が訪れる中で、真一の記憶はぷっつりと途切れた。時間が止まったかのようなその瞬間、真一はただ昴の腕の中で、何も考えずに横たわっていた。

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