真一は母親と共に、小さな豆柴の顔を見つめていた。朝方には雪が降っていたが、今は窓の外で雨が静かに降り続いていた。二月の寒さがまだ感じられる部屋の中で、外からの微かな光が淡く広がっていた。彼らはその新しい家族に名前をつけようとしていた。その小さな犬の無邪気な姿に、自然と微笑みがこぼれた。


「どんな名前がいいかしら?」と母親が優しく問いかける。真一はその問いに少し考え込み、小さな犬の瞳を見つめた。その瞳には、無垢な光が宿っていた。ふと、真一の中に幼い頃の思い出がよみがえった。祖父母の家のトタン屋根に雨が降り注ぐ音、それが幼い彼の心に特別な感情を呼び起こしたこと。


 その記憶が鮮明によみがえったのは、窓の外で聞こえる雨音のせいだった。幼少期、祖父母の家で過ごした夏の日々、トタン屋根に降り注ぐ心地よい雨の音は、まるで優しく包み込むような安心感をもたらしてくれた。真一は祖父の膝の上で、その音を聞きながら眠りに落ちていった。


「トタ。どうかな?」と真一は静かに言った。母親はその名前を気に入り、微笑んで頷いた。「良い名前ね」と、その優しい声が静かな部屋に響き渡った。


「トタ」と名付けられた豆柴は、耳をピクリと動かしながら、興味深そうに真一を見上げた。その瞬間、真一の胸には温かな感情が広がった。母親も「トタ」と呼びかけながら、その小さな命に優しい眼差しを向けていた。


「明日から散歩も頼めたらいいと思ってるんだけど」と母親は穏やかに言った。真一は一瞬返答に詰まりながらも、トタの柔らかい耳を撫でる。その触感に心が和らぎ、久しぶりに心の中に明るい音が響いた。


「そうだね」と真一は静かに応え、その言葉が自分自身に響き渡る。新しい家族と共に歩むこれからの日々に、少しずつ希望が芽生え始めていた。トタの温もりが、真一の心に新たな希望の光を灯していた。


 ──この日は保健の授業があった。


 窓から差し込む柔らかな陽光が教室を照らし出す中、真一は強張った目つきで教科書を見つめていた。指先に引っかかる光沢のある表紙を捲り、目次に目を通す。そこには「思春期の身体と心の成長」という項目があった。真一は思わずそのページに手を伸ばした。


 ページを開くと、真一の目に飛び込んできたのは、第二次性徴期に関する記述だった。男子の体はゴツゴツとして声が低くなるという。真一の胸はドキドキと高鳴った。また、男性器には毛が生え、大人らしく大きくなると書かれていた。本当だろうか?と真一は心の中で呟いた。


 さらにページをめくると、異性の存在を意識するようになるという記述が目に入った。真一はその言葉を読んで少しの間、静かに考え込んだ。自分にはそのような感情は芽生えたことがない。そんなことはないと真一は落胆した。


 教室の中で流れる時間が、一瞬だけ止まったかのように感じた。真一はそのまま教科書を閉じ、心の中に生まれた疑問とともに、その日の授業に戻っていった。


 ある日、先生は静かな声で思春期の変化について語り始めた。「思春期に入ると、異性に対する興味が芽生える」との記述が朗読された。その一言が、真一の心に鎖を巻いた。自分でも予期せぬ反応だった。周囲のクラスメートたちは、少しクスクスと笑うものもいた。彼らはそれを当たり前のこととしてその言葉を受け止めている様子だったが、真一にとっては、その一言が音声として語られると、鋭く胸を突かれた思いがした。その一瞬、真一は表情の作り方を忘れた。自分は一体どの表情をすべきなのかが分からなくなった。


 先生はさらに、「この時期には感情の変化が著しく、異性との関わり方に敏感になる」と続けた。取るに足らない言葉の一つ一つが、真一の心をますます強く締め付けた。鼓動が増大する中、いつも通りつまらなそうな顔で机の模様を眺めることにした。教室のざわめきが遠くに聞こえる。


 そして、先生は冗談めかして「お前ら、彼女が欲しくてたまらないんだろ」と教室に投げかけた。教室全体が笑いに包まれ、クラスメートたちは口々に軽口を叩き合った。その冗談の一つ一つもまた、真一の心に深く突き刺さった。彼にとって、それらの言葉は笑い飛ばすことのできない重いものであった。机の模様をシャープペンシルでなぞるのにも飽きてきた。一体この場ではどんな行動をとっているのが正解なんだろうか。


 教室の隅に座る真一は、その場の空気から切り離されたように感じていた。周囲の笑い声や会話がますます遠く感じられ、自分だけが異質な存在であるかのように思えた。そして、そのことが周囲に悟られることの恐怖が真っ赤に膨れ上がり、彼の心には鎖の棘が食い込む痛みがジンジンと伝わっていた。まるでその鎖は生きていて、蛇の悪魔が捕らえた獲物の魂を絞り尽くそうとしているかのようであった。


 和やかな春の午後。教室の外では、涼しい風が静かに木々を揺らしていた。しかし、その穏やかな景色とは裏腹に、真一の心の中には血潮の嵐が渦巻いていた。その日の保健の授業の言葉は、彼にとって忘れ難いものとなり、心の奥に強く刻み込まれたのだった。

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