真一は、いつからか自分の好きなものや嫌いなものについて決して口に出すまいと用心するようになっていた。それは彼の心の奥底にある恐れから来るものであった。自分の心根を何一つ外界に漏らしてはならないという信念が、彼の行動を縛り付けていた。もし、その一滴が証拠となりうる可能性が塵ほどもあったなら、真一はその危険を避けるために、自己を封じ込めることを選んだのである。


 彼の日常は、周囲との関わりを極力避けることで成り立っていた。学校に行かなくなってからは、その傾向はさらに強まった。誰にも自分の内面を知られることなく、静かに生きる。そんな中で、トタという名の小さな豆柴が現れた。


 トタが家に迎え入れられた翌日、真一は初めてトタとの散歩に出掛けることにした。朝方に降っていた雪が溶け、今は穏やかな陽光が降り注ぐ中、トタのリードを握りしめ、玄関の扉を開けた。外の空気は冷たく、二月の寒さが肌にしみたが、真一の心には新たな期待が芽生えていた。


 トタは初めての散歩に興奮し、無邪気にリードを引っ張りながら歩き出した。真一はその姿に微笑みを浮かべ、久しぶりに世界が明るく見えることに驚きを感じた。いつもは閉じこもりがちな彼の心が、トタとの時間によって少しずつ開かれていくのを感じたのである。


 溶けた雪がキラキラと反射する街並みはどこか幻想的で、まるで子供のように世界を眺める真一の心を映し出していた。トタがあちこちを嗅ぎ回りながら進む様子に、真一は新しい発見をするたびに心が弾むのを感じた。久しぶりに感じるこの感覚が、彼にとってどれほど貴重なものであるかを痛感した。


 公園に着くと、トタは元気よく駆け回り、その無邪気な姿が真一の心をさらに和ませた。溶けた雪が陽光を浴びて輝く芝生の上を走り回るトタを見つめながら、真一は自分がどれだけこの小さな存在に救われたかを実感した。


 その日、真一は心地よい疲労感とともに帰路についた。トタと過ごす時間が、彼にとっての癒しとなり、未来に向けた一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのだ。世界が明るく見えるという感覚を、真一は再び取り戻すことができた。それはまさに、子供のように世界を眺める純粋な喜びであった。


 ──ある日の夕暮れ、真一が学校から家に帰ると、母親がリビングでテレビを見ていた。テレビからはバラエティ番組の明るい声が響き渡り、部屋の中に賑やかな空気が漂っていた。真一は静かに母親のそばに腰を下ろし、一緒に画面を見つめた。


 画面の中では、男性芸人たちが派手な格好をして笑いを取ろうとしていた。母親は楽しそうに笑いながら、ふとテレビに映る彼らの姿に目を留めた。そして、何気なく言った。


「この人って、男が好きなんだってね。いわゆるゲイ? 面白いから許すけど、正直気味が悪いわよね」


 その言葉が、真一の心に鋭く突き刺さった。彼は一瞬息を呑み、心の中で「許すって何?」と反論した。しかし、声に出して言うことはできなかった。ただ黙って、母親の隣で画面を見つめ続けた。


 テレビの明るい声が部屋中に響く中で、真一の心には深い孤独と苦悩が渦巻いていた。母親との対話を切に求めながらも、その道が閉ざされている現実を痛感していた。心の内側ではまた嵐のような感情が激しく吹き荒れ、その風速の激烈さに、真一は自らの存在とこの世の理を再び問い直さざるを得なかった。


 次の日の昼休み、真一は教室の隅で一人静かに本を読んでいた。教室の中央にはクラスメートたちの賑やかな声が響き渡り、笑い声が絶えなかった。真一はその輪の外に座り、遠巻きにその様子を見つめていた。


 その中に健太はいた。健太が友人たちとふざけ合いながら、「お前、なんでそんなこと言うんだよ!」と笑い声をあげた。友人の一人が冗談めかして、「だって、あいつホモみたいなこと言うんだもん!」と返した。その言葉に皆が爆笑し、健太がさらに続けた。


「お前、ホモじゃねえんだから、そんなことしないだろ!」


 その瞬間、教室中が静まり返り、次いで再び爆笑の渦に包まれた。その何気ない一言が、真一の心に鋭く突き刺さった。彼は息を呑み、「なぜそんなことを言うのだろう」と心の中で問いかけたが、声に出して言うことはできなかった。


 クラスメートたちは再び賑やかに笑い声をあげ、何事もなかったかのように日常を続けていた。しかし、真一の心には暗い影が広がっていた。その言葉が、自分の存在そのものを否定するように感じられ、自分が異質な存在であるという思いが一層強まった。その思いは、彼の心に深い傷を残し、やがて重い鎖となって彼を締め付けていた。


 昼休みが終わると、昴が教室に戻ってきた。彼は席の前に立ち、真一の頬に手を伸ばし、軽く顎を上げた。真一の目は自然と昴の目と交わり、その瞬間、二人の視線が絡み合った。「どうした、元気がないじゃないか」と、昴はからかうように言った。「次の数学の授業、またタナセンが『これが重要なんだよ、君たち』ってつまんねー話続けるんだろうな」と、田中先生の口調を真似て微笑んだ。その瞬間、真一は昴の笑顔を見つめるうちに、心が次第に穏やかになるのを感じた。


 そして、真一はなぜ昴にだけ心を開けるのか、その理由を初めて悟った。昴は決して真一のセクシュアリティに触れることなく、ただ自然体で接してくれた。それは偶然なのかもしれない。しかし、彼は本当に最後までそうだった。その無言の理解と変わらぬ優しさが、真一にとって唯一の救いであった。


 昴の存在は、真一の心を支え、孤独な戦いに一筋の光を差し込んでくれていた。教室の窓から差し込む柔らかな陽光が、昴の後ろ姿を照らし、その光が真一の心の中の暗い影を少しずつ消し去っていくように感じられた。


 放課後、真一は一人で校舎を後にした。校門を出ると、外の世界は静寂に包まれており、ただ風が木々を揺らしていた。その風の音が、暗がりを歩く真一の心の中の嵐を静かに和らげてくれるようであった。

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