小刻みに揺る

@HH_1

 雪は静かに降り積もり、町全体を包み込むように真っ白な帳をかけている。真一はその無垢な美しさの奥にひそむ孤独の影を見つめていた。二月の朝、冷たく澄んだ空気は窓ガラスに結露を生み、その向こうに真っ直ぐに続く通学路を映し出していた。しかし、その道を歩くことは、もう久しくなかった。


 十三歳の中学一年生である真一は、布団の温もりから身体を起こし、寒さに身を震わせながら窓辺に寄り添った。学校へ行くことが叶わなくなって以来、朝のこのひとときは、部屋の中から外の景色を眺めるのが日課となっていた。何がきっかけだったのか、真一は考えないようにしていた。ただ、学校のことを思うだけで、胸が締め付けられるような感覚が襲ってくるのだ。


「真一、起きたの?」母親の優しい声が背後から聞こえてきた。彼は振り返ることなく、ただ窓の外に広がる雪景色を見つめていた。母親の足音が静かに近づき、彼女はそっと部屋に入り、何かを抱えている様子だった。


「見て、真一」その言葉に、真一は初めて窓から目を離し、母親の方を振り返った。母親の腕の中には、小さな生き物がいた。それは、舌を揺らしながら真一を見つめていた。真一はその姿に目を奪われ、思わず立ち上がった。


「ほら、可愛いでしょ。保健所から引き取ってきたのよ。小さいから豆柴っていうの」母親の言葉に、真一の胸は温かい感情で満たされた。彼はそっとその柴犬を抱きしめた。小さな身体から伝わる温もりに、心がほぐれるのを感じた。真一は、あの日々のことを思い出し、胸が締め付けられるような感覚が再び蘇った。


「ありがとう……お母さん」


 涙ぐんだ声で、真一はそう言った。真一は犬の温かさに包まれたまま、しばらくの間、静かな朝の時間を過ごした。


 ──真一が昴と初めて出会ったのは、中学一年生の入学式当日であった。新たなる教室、新たなる友、新たなる環境。すべてが真新しく、真一の胸中は不安と期待で満ち溢れていた。


 初めて教室の扉を開けたとき、真一の胸は高鳴っていた。自分の席を見つけ、ぎこちなく腰を下ろすと、前の席に座っていた少年が振り返り、明るい笑顔で話しかけてきた。


「おはよう! ……えっと、初めましてか。俺、昴。お前は?」


 突然の問いかけに驚きつつも、真一は何とか答えた。「真一」


「真一か。よろしくな!」


 昴の短髪の黒髪と笑顔が、真一の心の緊張を次第に解けさせた。特に笑ったときにできる目尻の小さなシワが、彼の人懐っこさを一層引き立てていた。


 それから昴は、授業の合間ごとに真一に話しかけてくれるようになった。授業間の五分間の休み時間は、いつも昴との対話で満たされた。真一は言葉がぎこちなかったが、昴はその拙い話し方にさえも優しく耳を傾け、笑顔を絶やさなかった。


「お前ってなんかかわいいな」その言葉を昴に言われた瞬間、真一の心はドキリと音を立てた。その言葉が深く心に響き、昴との時間が特別なものとして感じられた。


 昴は活発な性格で、小学生の頃からバレーに親しんでいた。昼休みになると、すぐに外へ飛び出し、活発なグループの友人たちとサッカーをして過ごしていた。一方で、真一は仲の良い友達を見つけることが難しく、昼休みは教室に居づらかったから、図書室で本を読み静かな時間を過ごしていた。


 入学してから二週間が経った頃、担任の教師との二者面談が始まった。放課後に順番で先生と話をすることになっていた。その日、真一の番は最後であった。同じく面談を待つ昴と共に、二人は廊下で時間を持て余していた。


「せっかくだし、俺の部室に来ないか?」と昴が提案した。「嫌ならいいけど、いつでも帰っていいからさ」


 真一は行きたい気持ちに駆られたが、それを口にするのが何となくいけないことのように思えた。断るのも申し訳なく、何も言えずに黙ってしまった。


「え、嫌?」と昴は笑いながら真一の目を覗き込んだ。「別に嫌じゃないよ」と真一が答えると、「じゃあ決まりだな!」と昴は真一の手首を握り、軽やかに部室へと連れて行った。


 部室には誰もいなかった。昴は「今の時間はみんな外でトレーニングしてるんだ」と説明した。部室の一隅にはボールカートがあり、そこには何十個ものバレーボールが静かに積み重ねられていた。壁には練習メニューが書かれたホワイトボードがあり、バレーネットやトレーニング用のラダー、コーンなどが整然と並べられていた。


 真一はそわそわとしたむずがゆい気持ちを覚えた。昴のいる場所を知ることができる嬉しさと、どこか寂しさを感じていた。


 部屋の奥に小窓があり、その前には小さなソファが置かれていた。昴はソファに腰掛け、「こっち来いよ」と手招きした。真一は少し躊躇ったが、昴の優しさに心を和らげられ、隣に座った。


 昴は「このボールカートには、試合用のボールと練習用のボールが混ざってるんだ。あっちの棚にはシューズやユニフォームが並んでる。こっちの漫画は、たまに誰か読んでるな」と説明し、「お前もいつでも来ていいからな」と言った。真一は口数が少なかったが、笑顔を絶やさずに頷いた。


 その瞬間、真一はまるで部屋の上空から自分たちを眺めているかのような感覚に襲われた。密閉された部屋の中で、男子二人がソファに腰掛けている光景が異様に映る。この状況を思い描くと、真一の胸は不安で満ち溢れた。過去の嫌な思い出が頭をよぎった。幼い頃からおとなしく、女の子たちとばかり親しくしていた真一は、かつて「おかま」と揶揄されたことがある。その経験が、彼の心に深い傷を残していた。同じ過ちを二度と繰り返したくなかった。この場面を今誰かに見られたらどうしよう、と真一は冷や汗をかいた。


 そして、ただ座っているのが居心地悪く感じ、真一は後ろに体を向けて小窓から外を見やった。すると、昴は顔を近づけてきて、「どう?」と囁いた。小窓からは春日和の涼しい風が吹き込み、真一の頬を撫でていった。真一は精一杯の笑顔を作り、「何もないね」と答えた。昴はなぜか満足したように微笑み、二人はしばらく無言で小窓の外を眺めていた。


 真一の心には複雑な感情が渦巻いていた。春風は心地よく、真一の心を裏側からくすぐっているかのように感じられたが、一方でけたたましい警告音が頭の中で鳴り響いて止まなかった。男が二人でこうしていることを異常だと思う方が変なのかもしれない。しかし、真一にとってその光景は普通ではなかった。


「やっぱり嫌だった? 帰る?」と昴は真一の様子を察し、少し悲しそうな目で真一を見つめた。その顔を見て、真一の胸は鋭い痛みに襲われた。「そんなことない」と心の中で呟きながら、昴の視線を避けた。


 昴は真一を安心させるように微笑んだ。「無理しなくていいよ。他の人も来るかもしれないし、また暇だったら帰ってこいよ。校内散歩でもしてくるか?」と提案した。真一は言われるがままに「うん」と頷いてしまった。本当はいつまでもここにいたいと願っていたが、さっきの警告音が心臓の鐘を打ち付け、真一を外へと誘い出していたのだ。


 昴は声を伴わずに笑ったのち、「よし」と言って立ち上がり、真一の手首を握って部屋の外まで連れて行った。「また戻りたくなったら、いつでも来ていいから。面談が終わったら俺もここに戻るよ」と優しく言った。


 真一は笑顔で「うん」と答えた。そして、校舎へ戻る道を歩き始めた。胸の鼓動が激しくなり、優しい昴を嫌な気分にさせてしまった自分を最低な人間だと感じながら、真一は静かに校舎へと戻っていった。そしてその日、真一が部室に戻ることはなかった。


 その場面を最後に、真一の記憶は途切れている。

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