3‐3 青空と聖竜
§
物心ついたときの最初の記憶は、青空。
雲ひとつない青空だ。
何故かというと地面に仰向けになっていたから。竜の里じゅうを走り回って、力尽きて倒れた。両足も両手も思い切り伸ばして見上げた空は眩しかった。
その青色に、金色の光が走った。
小さい光があっという間に大きくなったのは、こちらへ近づいてきたからだ。
「聖竜……」
五歳になったばかりのアマルは覚えたての言葉を口にした。
ぼんやりとではあるものの、祖母が特別な存在である理由がこの金色だと知っていた。
胸が高鳴る。どきどき、ではない。ばくばく、と心臓が叫んでいる。
地面に背をつけたまま、アマルは両手をまっすぐに伸ばした。
「かっこいい!」
やがて金色は再び遠ざかっていき、見えなくなった。
しばらく、アマルは頬を赤くして空を眺めていた。
「おねえさま。見つけましたわ」
金色の代わりにアマルへ影を落としたのは、双子の妹のシファだ。
ふたりは瓜二つ。唯一の違いは泣きボクロがあるかないかだけ。シファの左目の下にはあって、アマルにはない。
時々入れ替わると誰もそれに気づけなかった。念入りに泣きボクロを偽装して、口調までお互いを真似するのだ。
とはいえ、竜の里じゅうを走り回るのがアマル。いつも本を持ち歩いているのが、シファだった。
「なぁ、いまの、みたか?」
勢いよくアマルが起き上がる。
今日もシファは胴より大きな図鑑を両手で抱えていた。
「聖竜のことでしょうか?」
「すごかったな」
「えぇ。わたくしも、次の竜巫女に選ばれ、聖竜と生涯を共にしたいですわ」
シファはアマルに分からない言葉をたびたび使う。
言葉だけではなく、意味も分からなかったが、アマルはまっすぐに答えた。
「シファならなれるさ。おうえんしてる!」
ぶわぁっ、とふたりの頭上に不自然な風が巻き起こった。
【ほぅ。お前たちが竜巫女の孫か】
双子は驚きのあまり抱きしめ合って目の前の現象に注目した。
収束した空気がヒトの形を作る。目の前に現れたのは、黄金の双眸の青年だった。
【我の名はヘイル。聖竜だ】
名乗った青年は、自らの髪をかき上げる。実に不遜な態度だった。
「せせせ、聖竜……!?」
「驚きましたわ。人間の姿にもなれるのですね。わたくしはシファと申します」
「あ、あたしは、アマル。よろしくな!」
【ふむ】
シファは頭を下げ、アマルは右手を勢いよく挙げる。
ヘイルは黄金の双眸でシファとアマルを交互に見た。
【竜巫女が孫を気にかけているので見に来たが、なるほど、双子とは
アマルにとってはシファだけでなくヘイルの言葉もよく理解できなかった。
しかし、その日を境にヘイルはたびたびアマルたちの前に姿を現すようになった。
【我としても、お前たちが息災であることを竜巫女へ報告する義務がある】
ヘイルはそう説明した。ただし気まぐれ。不意に現れ、不意に消える。
聖竜とはそういうものなのだ。
§
それから数年が経った頃。
背が伸びたアマルは長い髪をひとまとめに束ね、活発さは変わらないまま、竜の里じゅうを走りまわっていた。里の長である祖父を手伝い、農作業の手伝いや壊れた壁の修復など、里の困りごとを解決する。
シファの大人しさは変わらず、長い髪をおろし、竜の里の歴史を編纂する仕事をしていた。
ふたりの前には相変わらず気まぐれでヘイルが現れる。
竜巫女である祖母は聖堂から出られないというのに、聖竜というのは実に自由気ままである。
「おーい、シファ! ……」
アマルは大声でシファを呼びかけ、……止めた。
探し人である妹は里の出入り口近くの岩場に腰かけていた。
ひとりではなかった。隣に座っているのは、ヘイルだった。
アマルは踵を返すと、澄み渡る青空を見上げた。
近頃、シファとヘイルがふたりでいるのを見かける。
最初はふたりの間へ割り込んでいたが、だんだんと、遠慮してその場を離れるようになっていた。
(聖竜と生涯を共にしたい、か……)
かつてシファが語った夢をアマルは思い出した。
竜巫女となるだけではなく、シファの内には別の想いがあるのかもしれない。
シファがヘイルへ向ける視線。
ヘイルが、まるで気づかれないようにシファへと向ける視線。
一度だけアマルとシファが入れ替わってみたことがあるが、ヘイルはたちまち気づいた。
聖竜だから当然といえば当然かもしれない。
ただ、アマルにとってはなかなかの驚きだった。それ以来双子は入れ替わりをやめたのだった。
§
【精が出るな】
あるとき、アマルが畑の雑草取りをしていると、畝にヘイルが立っていた。
暑さで汗が滲んでいるアマルに対して聖竜は涼やかな顔をしている。立ち上がったアマルは流石に口を尖らせた。
「手伝うか?」
【まさか。我は人間の生活には関与しない】
「そう言うと思った」
アマルは長袖で汗を拭った。
虫対策で長袖、長ズボン。通気性のいい麻素材とはいえ、暑いものは暑い。
「シファなら今日は皇都に行ってるだろ。どうしてこっちに現れたんだ?」
【何故我がシファを追いかけねばならない】
「まぁ、それはそうなんだけど。でも、次の竜巫女はシファだろう?」
シファと、正確には祖父のふたりが皇都に行っている理由は、祖母が床に臥しているという報せが入ったからだ。
会ったことのない肉親に対して、アマルはどんな態度でいればいいのか分からなかった。
だから普段通りの生活を続けている。
ヘイルが尋ねる。
【……お前たち、幾つになった?】
「歳のこと? もうすぐ十六になるよ」
【そうか】
ざぁっ、と強い風が吹いた。
【竜巫女の役目とは何か、知っているか】
「そりゃ、一応。あたしたちのご先祖さまが、ヘイルの初恋かつ失恋相手で」
【馬鹿者。他に言い方があるだろう】
「事実なんだろう? とにかく、その子孫代々を見守るっていうのが、ヘイルとご先祖さまの間で交わされた約束で。竜巫女っていうのは、そのご先祖さまのタマシイの欠片とやらが受け継がれている人間のこと。だから、男だったときもある。どうだ、ちゃんと覚えてるだろう」
すらすらとアマルは答えた。竜の里で、竜巫女の意味を知らない者などいないのだ。
【そうだな。お前が覚えているとは意外だった】
「失礼な奴だな」
【ふん。我に向かって、失礼な奴とのたまえるのはお前だけだな】
§
転機が訪れたのは双子の祖母、すなわち竜巫女の死だった。
皇国サニアでは亡くなった者は土葬されるが、竜巫女だけは火葬されるのが掟。
その灰で次の竜巫女を占うのだ。例外なく、双子の祖母も荼毘に付された。
(煙……)
アマルは空を見上げた。
記憶にある最初の景色は、青空だ。それから聖竜。
聖竜は黄金だが、焼かれる祖母の煙の色は白と黒のあいだ。灰になるから灰色かと思えば、それはちょっと違う気がした。
アマルとシファが生まれたときには既に祖母は竜巫女に選ばれていた。
だからアマルは祖母に会ったことがない。穏やかで聡明だと、祖父は祖母を評していた。
今、竜の里のすべての女性が漆黒のヴェールを被り、肌を隠すワンピースを着ていた。これから竜巫女の選定が始まるのだ。
鐘が鳴り響いている。
里全体が竜巫女の死を悼んでいながら、次の竜巫女を選ぶ作業に入っている。
(知らない人だったけれど、これはあまりにも)
アマルは、若干辟易していた。掟というのは、人の死を悼む間も与えてくれないのか。
するりとシファが手を絡め、繋いできた。
アマルはざわめきの中に言葉を紛れ込ませる。
「選考辞退ってできないのかな。だって、次の竜巫女は、どう考えてもシファじゃん」
音が突然消えてふたりは顔を上げた。儀式が始まろうとしていた。
長である祖父の手には真っ黒な壺。
その中に祖母だったものが詰まっている。
「……じいさま」
(一体、どんな気持ちでいるんだろう)
祖母が竜巫女だった期間は十五年ほどらしい。
祖父と祖母はその間一度も会えず、そして、灰になってすら手元に残らない。
ひとつまみずつ、先代の灰が少女たちの手のひらに落とされる。
竜巫女に選ばれた者の手のひらでは黄金に輝くらしい。
やがて、シファの手のひらに灰が乗せられた。
ところが何の変化も起きない。周囲がざわめきの声を漏らす。それはアマルも同じだ。
「え……?」
「アマル。お前も早く手を出しなさい」
動揺するアマルの手のひらに灰が乗る。
きらきら……。
すると今までとは明らかに違い、灰が黄金に光り輝いた。
「嘘だろ」
「次の竜巫女は、アマル。お前だ。しっかり務めを果たすように」
同時にシファが信じられない速度で走り出す。
「待ってくれ、シファ!」
地面を蹴って追いかけるアマル。
シファがアマルに追いかけっこで敵うはずもない。アマルが腕を掴むとシファが肩越しに振り返った。その顔は真っ青で、唇がわなわなと震えている。
「お姉さまには絶対に分かりませんわ」
シファがアマルを振り払って走って行く。……それが、双子の最後に交わした会話となった。
呆然としたまま、アマルは呟く。
「どうしてシファじゃないんだ」
【竜巫女は神が選ぶ。誰にも選択の権利はない】
いつの間にか隣に立っていたのはヘイルだった。
アマルにはヘイルの顔を見ることができなかった。
どうして、なんで、という感情が内側でぐるぐると渦巻いている。
しかし里の掟に背けるはずもない。アマルはこれから一生聖堂で暮らすことになる。里のため。皇国サニアのため。
今までのすべてを捨てて、聖竜と共に生きていかなければならない。
「……よろしくな、
アマルは空を見上げた。
青が目に染みて、ひとすじの涙が頬を伝った。
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