2-8 あたしは自由だ

   §


 アマルがひとりで聖堂へ戻ってくると、疲れているだろうと労われ、風呂が用意されていた。

 風呂の文化がない皇国サニアにおいて、急ごしらえの浴槽。水がもったいないとは思いつつ、アマルは風呂に浸かった。雨に濡れて冷えたし、少しとはいえ酒を飲んだため、体の状態は決して万全とは言えなかった。

 極めつけは、セオドアとのキス。

 ぬるま湯のおかげで心身ともにようやく落ち着くことができた、ような気がした。


 自室に戻ろうとすると、神官のひとりが声をかけてきた。


「クラド王国の習慣を真似てみましたが、いかがでしたか」

「すごくよかったよ。湯……水は貴重だろうに、ありがとう」

「とんでもないです。どうぞ、ゆっくりお休みください」


 そしてアマルは自室でひとりになる。

 深夜というのは、とても、静かだ。まるで世界に自分しかいないのではないかと錯覚させられるくらいに。

 だからこそ考え事が捗る時間帯でもある。


「~~~っ」


 別れ際のセオドアを思い出し悶える。両手で顔を覆う。

 そして唐突に我に返る。それを繰り返すこと、数回。

 セオドアから貰ったスティックを手に取った。暗がりでも鈍い輝きを有している。


(……寝られない)


 寝台の上で何度寝返りを打っただろうか。とうとうアマルは眠ることを諦めて、髪を束ねるとスティックを挿し、そろりと部屋の外に出た。

 まさに深更しんこう

 暗闇に包まれた廊下は昼間とは別の場所のようだ。誰も彼も寝静まっているのだろう。


(いや、おかしい)


 そんなはずはない、とアマルは立ち止まった。

 宮殿ほどではないが、聖堂は皇国サニアにとって重要な場所である。夜間担当の警備兵は起きていなければならない。

 それなのに人間の息遣いが一切聞こえてこない。


 竜笛を取り出してそっと吹いた。

 しかし、反応がない。聖竜が現れない。アマルはまじまじと竜笛を見て、ようやく気づく。


(竜笛じゃない! すり替えられた? いつ?)


 記憶を辿る。箱馬車では聖竜自ら現れた。ということは、その時点では本物の竜笛を持っていたはずだ。


「風呂……」


 自分の間抜けさにアマルは愕然とする。動悸が激しい。喉が渇いて、痛い。


(おかしいと思った。クラド王国の文化を真似してみた、とぬるま湯を用意された時点で気づくべきだった。あのときすり替えられたんだ)


 聖竜が異変に気づいて姿を現してくれたらと思うものの、そういうときに限って願いというのは届かない。


 こつん、こつん……。

 靴音が響く。前方から、誰かが歩いてきたのだ。


「欲しい物を手に入れる方法を知っているか?」


 暗くて表情は見えない。

 しかし、アマルにとって最も会いたくなかった人物が近づいてくるのが、分かった。

 皇国サニアの皇子。アマル的には、馬鹿皇子だ。


「お前の、仕業か……!」

「悪く思うなよ? 竜巫女をクラド王国へ行かせるなという母上の命なのだ」

「つまり、宴に現れなかったのは、ここであたしを捕まえる段取りを踏んでいたってことか」

「察しがいいな、その通りだ。話を戻そう」


 アマルは膝が震えていた。逃げようと思えば逃げられる距離だ。

 しかし皇子は竜笛を持っているに違いない。取り返すには絶好の機会でもある。


「欲しい物を手に入れるには、力ずくで従わせるのが一番なんだ。ふふふ……ははは!」


 皇子が両腕を大きく広げるのが暗がりでも分かった。

 アマルは髪に挿していたスティックを手に取る。武器になりそうなものはこれくらいしか思いつかない。


「皇子。竜笛はどうした」

「竜笛か? あれは、聖竜ごと母上が封印されたぞ。聖樹の花の一件を経て、母上が古文書を調べ尽くし、試行錯誤の末に創り上げた術だ」

「ぺらぺら喋ってくれて感謝するよ。その封印を解けばいいってことだな」

「できるものならやってみるがいい」


 アマルは――真っ直ぐに走った。そして踏み込み、跳んだ。皇子の背後に回り込んで低い姿勢を保ちながらすばやく半回転すると皇子を人質に取ろうと膝を伸ばしスティックを振り上げる。


「貴様ごときが私に勝てると思うなよ!」


 皇子が、吼えた。

 同時にアマルの視界はぐらつきがくんと前のめりに倒れる。急に、体が言うことを聞かなくなったのだ。


(力が、入ら、な、い?)


「毒ではないから安心したまえ。普通の人間であれば媚薬となりうるのに、頑丈な竜の一族には麻痺くらいにしかならないらしい。残念だ。実に残念だよ」


 アマルは、反論はおろか、歯を食いしばることすらできない。

 唐突にアマルは気づく。

 宴の間、不自然なほどティーマがセオドアを見つめていたことに。


「まさか……セオドアにも、……」


 もしあれがだったとしたならば。

 アマルはなんとか力を振り絞り、皇子を睨みつける。

 皇子がアマルに近づいてきて、目の前でしゃがみ込んだ。


「ははは。つくづく鈍感すぎる奴だな。その通りだよ。お前たちは一生我が国に幽閉する。クラド王国には魔獣に襲われて死んだとでも報告すれば問題ない。聖樹、聖竜、聖剣。すべてサニアのものだ!!」


 塔で抱いたような恐怖がなかったといえば、嘘になる。

 それでも。

 アマルは必死に己の体へ命令する。命令、し続ける。


(動け、動け……っ!)


 かしゃんと音がした。アマルの右手が床に落ちたスティックに触れる。掴む。落としは、しない。絶対に、離さない。


「すごいな。まだ動けるのか。それでどうするつもりだ?」


 皇子が余裕たっぷりに笑う。


「……こうする、のさっ!!」


 アマルはそのまま、スティックを――己の太ももに突き刺した。


「くっ……」

「はぁあああああ?」


 動揺した皇子が後ずさる。そのまま、しりもちをついた。

 アマルは痛みで痺れを無理やりごまかして立ち上がる。


「あ、あたしの、ことを」


(痛い)


 どくどくと鼓動が頭に響く。痛みで視界が潤む。

 脂汗が、じんわりと滲んでくる。


(痛い。苦しい)


「何人たりとも、捕らえることは、できない! あたしは、自由だ!!」

「ううう、嘘だろう……」


 じょわ、と音がした。

 アマルは何が起きたか分かったが、そのまま踵を返した。想像が合っていれば、皇子が追ってくることは当分ないだろう。


「くそっ……」


 アマルは足を引きずりながら、気が遠くなりそうな長い廊下を歩いて、聖堂の外へと出た。

 市街地へと続く参道が真っ直ぐ伸びている。両脇の店は、どれもこれも閉まっていた。

 歩いただけなのに息が上がっていた。

 店と店の間の隙間に入り込んで、ずるずると座り込む。誰か敵になるかも分からない。むしろ、全員がアマルの味方ではないだろう。下手に人前に出る訳にはいかなかった。


「ッ!!」


 一気にスティックを抜く。細いからか、血は止まっていた。

 羽織っていた薄い上着を脱いで、太ももをきつく縛った。

 ずきずきと痛みは続いている。


(宮殿へ行かなきゃ。竜笛を取り戻さなきゃ)


 竜笛は聖樹から削り出された、竜の里の一族の家宝だ。失う訳にはいかない。

 ただ、取り戻す方法が思いつかない。体も満身創痍だ。アマルは瞼を閉じる。


(セオドア……どうか、無事で……)


 うとうとしていると、次第に、馬車の音や人の話し声が聞こえてきた。

 外を窺うと、どうやら夜明けが近いらしい。

 聖堂では最初の祈りが始まる時間だろう。アマルが消えたことで騒ぎになっているかもしれない。


「え?!」


 甲高い、驚く声が聞こえた。


(やばい。見つかった!?)


 アマルは勢いよく参道を睨みつけて――そして、ぽかんと口を開けた。


「シファ?」

「お姉さま?」


 ふたりが口を開いたのは同時だった。

 アマルにうり二つの双子の妹、シファが、立っていた。

 アマルと違う点といえば、左目の下に泣きぼくろがあることだ。髪の毛もアマルと違っておろしている。


「どうしてこんなところにいらっしゃ……!? 足が血まみれですわよ? 大丈夫ですの……?」

「見ての通り、全然、大丈夫じゃない。シファこそどうして参道にいるんだ」

「それはお姉さまもご存じでは?」


 シファは当主の務めで宮殿へ来たのだと言いたいらしかった。

 つまり朝の礼拝に向かう途中らしい。


「とにかく、場所を移しましょう。歩けますか?」


 シファが隙間へ入り込んでくる。


(……シファは、味方だろうか)


 妹を疑う。アマルの内に湧いてくる疑念に、アマル自身が吐き気を催しそうだった。

 しかしここにいても事態は変わらない。アマルは、シファから顔を隠すためのヴェールを借りてしっかりと被った。


「たぶん。痛いけど、折れてはいないし」

「……顔は隠れても怪我が目立ちますわね。いくらわたくしたちの傷の治りが早いといっても、きちんと手当をしないと菌が入り込んで悪さをしますわ。一旦、わたくしの泊まっている宿へ行きましょう」

「だめだ」


 アマルは首を横に振った。声が、かすれる。

 ずきずきと、傷口が痛むので、顔をしかめながら続けた。


「竜笛が奪われた。しかも女帝の術で封じられているらしいんだ。一刻も早く、取り返さなければならない」

「なんですって!?」


 シファは声を上げてからぱっと口を押さえた。

 それから隙間の外、参道へ顔を向ける。幸いにも誰もいないようだった。


「分かりました、お姉さまは一度里へお連れします」

「え?」


 アマルは弾かれたように顔を上げた。


「時間がないんだ。早くしないと――」

「その怪我。体勢を立て直す必要があります。思い切って里へ帰る方が得策です」


 アマルと同じ顔をしたシファ。

 しかし、笑顔はまったく違う。穏やかな表情で、シファはアマルの両手を包み込むように握りしめた。


「竜の里は、宮殿も王宮も不可侵ですもの」


 アマルはぎこちなく頷いた。

 それには理由がある。

 シファの瞳の奥が――笑っていないからだ。アマルに対して、シファは決して、微笑みかけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る