2‐7 おやすみのキス
今後のこととはすなわち、女帝への面会である。
陽が暮れる頃、セオドアは鎧を脱ぎ、アマルは身なりを整えて、女帝が用意したという豪奢な馬車に乗り込んだ。
鮮やかな装飾が施された宮殿の大広間。
脚の低い翡翠の円卓が置かれていて、既に二人の席が用意されていた。どこか癖のある香が焚かれ、壁際では弦楽器が奏でられている。
椅子はない。盃の置かれた場所を目印に、アマルとセオドアは腰を下ろした。
やがて、ゆったりとした足取りで女帝が姿を現した。
褐色の肌を最大限に引き立たせる黒瑪瑙がふだんにあしらわれた冠や腕輪が、照明を眩く反射する。
切れ長の瞳を強調させる朱い化粧は、それだけで気性を表現するのに十分だった。
イーヴァ。最上級の絹を纏った姿はまさしく女帝の中の女帝だ。
さらに後ろから現れたのは、アマルと同じような年頃の女性だった。
見た目こそ女帝に似ているが、垂れ目なところと、唇が分厚いところは違っている。淡い桃色の衣装がふくよかな体つきに合わせて、柔らかな雰囲気を醸し出していた。
アマルとセオドアが立ち上がろうとすると、不要と言わんばかりに女帝は軽く手を振った。
「待たせたな。紹介しよう、我が娘ティーマだ」
「ティーマと申します。お初にお目にかかります。今日はお会いできてとても嬉しく思いますわ」
イーヴァとは対照的に、ティーマはゆったりとした口調で、穏やかな笑みを浮かべた。
「初めまして。クラド王国第五騎士団所属、セオドア・ロキューミラと申します」
「堅苦しい挨拶は結構。ささやかではあるが今宵は楽しんでいっておくれ」
(よかった。馬鹿皇子は招かれていないということか)
アマルは室内を見渡して、安堵する。
今まで以上に、皇子とは顔を合わせたくなかった。
長い布を手にした踊り子たちも続いて登場して、弦楽器の演奏に合わせて優雅に舞いはじめる。
アマルの向かいに女帝、セオドアの向かいにティーマが座るかたちになった。
「この度の件、ご苦労であった。聖樹の花もありがたくいただこう」
「お気に召していただき、光栄です」
どうやら聖樹の花束は先に女帝へと届けられていたらしい。
「大陸の未来に乾杯」
「ありがとうございます。いただきます」
金属の盃に酒が注がれた。女帝に合わせて、アマルとセオドアも盃を掲げる。
僅かに毒気を孕んだ微笑みが、女帝からセオドアへと向けられる。
「そなたのことはよく知っておる。聖剣に選ばれた幸福の王子よ」
警戒心を露わにしたのはセオドアではなくアマルだ。
セオドアは普段通り淡々としている。聖剣という言葉にも、皇子という言葉にも反応しない。当然のように『幸福』という言葉にも。
「妾の息子もそなたくらい聡明であればこの度の事態を招かず済んだであろうに、嘆かわしいことよ」
「聖獣の件、なんとか収まり安堵しています」
「その話ではない。聖竜を失ったことが、そもそもの痛手」
ちらりと女帝がアマルへ視線を向けた。アマルは慌てて背筋を伸ばす。
「いずれ祖国が恋しくなることもあろう」
「……」
下手に否定してもややこしいことくらいアマルには分かっているので、黙っておく。
代わりにぐいっと盃を煽った。
(ぐわっ。強……)
アルコール濃度の高さにアマルは顔をしかめる。
いくら体調が戻ったとはいえ、病み上がりには少々きつい味だ。次々と運ばれてくる宮廷料理の味も分からないまま、宴は進んだ。
その晩は、セオドアは賓客として宮殿に宿泊する流れとなり、アマルはひとりで宮殿へと戻ることになった。
すっかり日は暮れてしまった。風も涼しいものに変わっている。
アマルは、行きと同様に用意された馬車へ乗り込む前に、見送りに来たセオドアへ振り返る。
「セオドア、本当に大丈夫か?」
「心配は不要です。私もそれなりに修羅場をくぐってきた身ですから」
「……あのさ」
好き。
その一言が、どうしても口から出てこない。
せっかく酒を飲んで、気持ちがふわふわしているにも関わらず。
「? アマル?」
「あたしも、テディって呼んでいいか?」
それはアマルにとって精一杯の努力の結果でもあった。
セオドアが面食らった表情になり、硬直する。
「だっ、だめなら、いいんだ!」
「アマル」
「いや、忘れてくれ。また明日!」
「ア、マ、ル」
強い口調でセオドアがアマルの名前を呼び、左の親指と人差し指でアマルの顎をそっと上へと向けた。
「……!」
一瞬。ほんの、一瞬。
アマルとセオドアの唇が触れて、そっと離れた。
「……」
食後酒の甘ったるい香りを、余韻にして。
「おやすみなさい。アマル」
「……お、お、おやすみ」
半ば押し込まれるようにしてアマルは箱馬車に座った。
しびれを切らしたように馬車が走り出す。
(わ、わ、わーーー!?)
「待って待って待って」
誰もいない車内で両手を頬に当てて、うわごとのように繰り返す。
「い、いま、キスした……!?」
耳まで熱い。心臓がばくばくいっている。
(どんな表情、してたっけ)
セオドアの顔を思い出そうとしても、その前のキスを思い出し、頬に当てていた両手で顔を覆う。
【絶対に許さぬ】
「聖竜!?」
いつの間にか人間姿の聖竜が箱馬車の向かい席に座って、両腕を組み、背もたれにもたれかかっていた。
【酒に酔わねば行動に移せない男も、相手の許可を得ずに口づけする者も、聖剣の騎士も許さぬ】
「それって最終的に全部セオドアのことじゃん」
突然聖竜が現れたおかげで、アマルは緊張が解けたようにへなへなと崩れた。脱力したまま天井を仰ぐ。
「……聖竜。ありがとう、助けてくれて」
【当然至極】
「聖獣たちは無事に聖樹の実に辿り着けそう?」
【それは我の知るところではない】
聖竜はぴしゃりと答えたが、一呼吸置いて続ける。
【神域の森へ人間が立ち入らなければ、聖獣たちも人間と関わることはないだろう。不幸な一体は我が弔っておいた】
「……そうか」
不幸な一体。それは、皇子が攻撃してしまい倒れた聖獣のことだ。
「その場所、あたしも行ける?」
【かまわないが】
「クラド王国へ帰る前に連れてってくれ」
いいだろう、と聖竜は静かに答えた。
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