第二十話
雨の音を聞きながら手にしたノート。
リリスが込めたものを見つけなきゃ。
ノートを開き見える絵梨奈のスケッチ画。ノートをめくりながら考えるのはリオンのこと。
絵梨奈と出会い生まれた願い。それはリオンにとって絶望であり希望だった。
天使と死神が生きる姿は、神と呼ばれる者が見続ける夢物語。ゼフィータが語った真実をリオンが知ることが出来るなら。
リリスが罰せられたこと、それが神と呼ばれる者のひとつの答えだとしたら。
リリスだけじゃ駄目なんだ。
夢物語を壊せるだけの力。
大きくならなきゃ……何も変わらないんだ。
途切れた雨の音。
予報では夜遅くまで降るはずなのに。
机から離れ窓に近づいた。カーテンを開けると、閉められた窓越しに降り続く雨が見える。窓を開け風の冷たさを感じた時だった。
何かが落ちた音。
振り向いて見えたのは、床に落ちたスケッチ画と羽根。
変だな、落ちるようには置いてなかったのに。拾おうと窓から離れ見えだしたもの。
羽根が溶け形が崩れていく。
ドロリとしたものがスケッチ画を覆い黒く染めだした。
絵梨奈が消えていく。
何枚もの温かな笑みが。
風が吹き込み雨が僕を濡らす。
透明なはずの雨、それは墨のように真っ黒だ。黒く染まっていく僕と消えていくスケッチ画。
羽根だったもの。
それは床を覆い、壁へと這いずっていく。
生きてるんだ。
これは……羽根の中に息づいていたリオンの力。
暗闇の中、滲みだした金色の光と咲き乱れる花の群れ。
長い髪の少女が僕を見つめている。
スケッチ画に描かれたままの笑みを浮かべて。
金色に染まる世界が広がっていく。
薄れ消える、僕を飲み込んだ暗闇。
リオンは何を考えてる、僕を飲み込んで人になるとか言うなよ。
微笑む少女。
ブルーのドレスと風に揺れる髪。
「……絵梨奈」
花の群れの中見えだした屋敷。光に照らされ輝く窓、チョコレートを思わせる煉瓦の外壁。
ここは……黄昏庭園?
金色の空の下。
風の冷たさを感じた時、絵梨奈のそばに見えだした人影。
白い髪と黒い衣。
背中にある黒い翼。
リオンだ。
空を見上げる横顔。
空に向け、伸ばされた彼の手に舞い降りた鳥。鳥の鳴き声に彼が浮かべた笑み。不死を憎む彼が……命を慈しんでいる。
絵梨奈の手が伸びてきた。
頬に触れる温かく柔らかな感触。
ドクン……
鼓動が体の中を巡り、胸の高鳴りを呼び寄せた。
体中が熱い。
絵梨奈を前に力が抜けていく感覚だ。
「私には不思議なものが見えていたの。空を舞い虫と戯れる妖精や、
絵梨奈が僕に話しかけてる。
なんだか……夢みたいだな。
「話しかけた妖精はこう言ったの。『絵梨奈、ボクのことみんなに教えてくれる? ボクはみんなが大好きだ。喧嘩は駄目だよ、泣いてる子がいたら助けてあげてって。地球はね、絵梨奈。みんなを見守ってくれるお母さんなんだよ。ボク達の成長を喜んでくれるんだよ』って」
絵梨奈は願ってたのかな。
人には見えないものと話す中、誰もが優しさと温もりに包まれる世界を。絵梨奈の優しさに惹かれたリオン。黄昏に包まれる中、ふたりは何度語り合っただろう。
いつかの未来。
願いが叶った先にある、共に生きていける限りある世界を。
「私を天に導いてくれたのはカレン。私は彼女の想いに気づけなかった。斬り落とされた翼……彼女が私のそばで、羽根をちぎり取った時ですら」
やっぱりカレンだったんだ。
僕に羽根を託したのは。
抗えない世界の中で、リリスを救おうとしている。
リオンと絵梨奈。
黄昏が包むふたりはなんて眩しいんだろう。だけどリオンを想い続けたカレン。カレンの気持ちを思うとなんだかやりきれない。
「君は助けたいと思っているのでしょう? 彼と反旗を翻したリリス。そのために君が望むことは何?」
「望むこと」
伝えることが出来るのか?
ここが……リオンが作りだした幻だとしても。
伝えるんだ。
願いを届けるんだから、夢物語へと。
大きな力になった願いが、変えられることがきっとあるから。
「彼にだけ見えるもの、僕も妖魔が見たい。見なきゃどうすることも出来ないんだ。いっぱいの願い……神と呼ばれる者に、届けられる何かを」
リオンの目が僕に向けられた。
黄昏が照らす髪と翼。
ここが過去なのか今なのか。わからないけど、リオンは僕の話を聞いてる。
リリスを助けなきゃ。
その先にあるものを見届けたい。
種族を越えた繋がりと幸せ。限りある命が教えてくれる喜びと悲しみの鮮やかさ。
「彼が託されたノート。それはリオンの羽根から作られたものよ。リリスがカレンを説得し手に入れた羽根。リオンへの想いと、リリスの行動がカレンを苦しめていた。それでもカレンは許してくれたの。神と呼ばれる者への……願いが届いた先にある私達の未来を」
ありきたりな日々の中。生きる喜びとか、未来への展望とか考えたこともなかった。
人との関わりに煩わしさを感じた時浮かぶ
心はひとりよがりで勝手なものだから。
僕の心を閉ざしたチビの死。
悲しみと恐れを呼び寄せた大切なものが消えた時。
それでも繰り返された日々。弾かれる心が求めたのは、生きることへの執着だったのか。
命は終わりを知っているから。
だからこそ生きて、生き続けようとする。
黄昏の慟哭。
読むたびに感じた不条理への憤り。
リオンの消滅と絵梨奈の死。途切れるように終わった物語。
霧島さんに会いたいと思ってた。
物語が生まれた背景と、込められた思いを知りたかったから。
そして、会えたんだ。
オモイデ屋に向かう道で。
繰り返す
願いが呼び寄せた繋がり。
だから見届けるんだ。
見えるだけの全てを。
「リリスは何故、羽根をノートに?」
「彼女は願ったんじゃないかしら。彼が書くことが声になり、リオンに届くようにと。長い時の流れの中、リオンの命は彼のものになった。彼が彼として生きることを……リオンは許したのよ」
ピンク色の花びらが空を舞う。金色の世界の中、微かな光を浴びて。リオンの手から羽ばたいた鳥が空の彼方に消えた。
熱いものが込み上げてくる。
リリスがノートに込めたのは力じゃない、リオンへの信頼だったんだ。
「リオンと彼の血が生みだしたもの。ふたりが望みもしなかった皮肉。醜く、哀れなものを……本当に見たいのね?」
彼は言った。
妖魔は黄昏時に目を覚ますと。
リオンが翼を斬り落とし放たれた希望。
彼が顔を切り裂いて、落とされた絶望。
黄昏時。
それが希望と絶望が混じり合うひと時だとしたら。
「僕は全てを見届ける、願いの先に何があるのかを。紡いでいきたい、背中を押してくれるものがある限り。みんなと作っていく……未来を」
遠のいた過去、リオンを包み続けた優しさ。
僕の奥底から響く痛みの音。絵梨奈の優しさに癒され憧れていた。何度……リオンを羨ましく思っただろう。
絵梨奈は僕の初恋だった。
ずっと……好きだった彼女が僕に微笑む。
痛みを疼かせる僕に触れる温もり。優しさは時に残酷なものを突きつける。
「リリスを助けだせるまで、私が君の目になるわ。思うまま、歩いていきなさい」
色を無くしていく髪とドレス。
絵梨奈が溶け崩れ、粉々になっていく金色の世界。
白く霞んでいく世界の中、空へと羽ばたいたリオン。咲き乱れる花の中、蠢めく黒い影。
僕に向けられた蒼い眼光。
妖魔。
「……太、颯太ったら」
僕を呼ぶ声。
聞き慣れたあったかい響き。
母さんだ。
「晩御飯に来ないから。どうしたのかと思ったら眠ってたのね」
「……眠って?」
窓越しに響く雨の音。
ベットから離れ見えた机の上の教科書。
「ノートは?」
あるはずのものが消えている。
スケッチ画と羽根も。
「颯太? どうしたの?」
窓の外に見える、宙を舞う虹色の妖精。
絵梨奈が僕の中にいる。本当に……僕の目になってくれたんだ。
どうしよう、僕の想い絵梨奈に気づかれるかな。
少しくらい気づかれてもいいか。
ずっと好きだったんだから。
妖魔、彼と一緒に向き合おう。
彼が許してくれるなら。
その先にある……未来を信じて。
次章〈幕間・織天使と眠る天使〉
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