貴音と美結、貴音と雪斗《4》
「貴音様‼︎」
僕に気づいた美結が駆けてくる。
開かれたままの門。閉めておくよう指示をしてるというのに。美結が嫌われる理由は彼女が持つ奔放さだろうか。
「そろそろ帰ってくる気がしたので。書庫室の掃除は明日も続きますが」
顔と服についた汚れが見える。まくられた袖越しに見える腕にも……傷痕と共に。
「掃除のしがいがあります。これも忘れてませんよ?」
差しだされたクッキー。
今日もまた、丁寧にラッピングされている。
「ナッツを入れてみたんです。今日は怒られずに渡せますね」
ペロリと舌を出した美結。
黄昏庭園の片隅に埋めた猫の骸。
微かな期待が僕の中を巡る。
地面に染み込んだリオンの血。不死の命が骸に流れ込んでいるならば。猫が生まれ変わった美結は……
「……君は何故、召使い達に嫌われている」
「たぶん、空気を読まないからだと思います」
あたりを見回した美結。
僕とふたりだけの場所で、誰にも聞かれたくないように。
「空気を読む必要はないんです。私はただ、願い叶えてきたんですから。記憶と私だとわかる
「……繰り返し?」
僕の声は掠れている。
僕を見て微笑む美結。
「貴音様は気づいてくれましたね? 私の腕にある傷痕に。たぶん……私の正体にも」
「猫。……僕が助けた」
脳裏に浮かぶ白い
それは僕達を包みだした闇の中、驚くほど鮮明に見える。
「私は何人もの人間に殺されかけたんです。傷つけられ体にテープを巻かれて。きっかけは飼い主に捨てられたことでした。私を囲い、おびき寄せようとした人達。寂しくて……ひとりでいることが怖かった私は彼らを信じてしまいました。私を助けるために笑ってたんじゃない。弱い者を傷つけることに喜びを感じていたのに」
巻かれたガムテープと白い毛を濡らした血。
助けた時、猫は僕のそばで気を失った。手当てしてからの数日間、僕を見る目に宿っていた温かな光。それは今……美結に引き継がれている。
「彼らがいなくなり、私が探したのは死に場所でした。体の痛みが生きることを否定していく。彷徨った林道……そこは私にぴったりな死に場所に思えました。夜になって、屋敷の明かりに気づくまでは」
僕達を包む冷たい風。
震える美結を前に動けずにいる。
「私には明かりが温かなものに見えました。明かりに誘われるまま屋敷に向かい、貴音様が助けてくださった。貴音様が秘める寂しさは私と同じ。だから私は願ったんです、何度でも生まれ変わって貴音様を守れるように……と」
何度でも。
僕を?
美結は気づいてるのか。
僕が歳を取らず生き続ける人間だと。
「最初に生まれ変わったのは虫でした。覚えてませんか? 遠い過去の春、私は何度も肩に乗って貴音様が見る花に飛び立った。2度目は鳥、貴音様が外に出るよう鳴き続けてたんですよ。3度目の今、やっと人になれたんです。雇ってもらえると信じて、貴音様のために出来ることを考えました。今も願ってるんです。この次もその次も人に生まれ変わる。ひとつだけの願い……空気を読んでる場合じゃありません」
「僕は生き続ける人間だ。僕を追いかける限り君の願いは」
「終わりませんね。だから私は幸せでいられます。
幸せ?
美結は……幸せを感じてるのか?
「貴音様がいることが私の幸せなんです。一緒に願ってくれたら嬉しいのですが」
「僕が……願う?」
「与えられるものは思うとおりじゃない。だから願うんですよ。叶わなくても叶うことを信じて。人になれなくても一緒に願ってくれるなら。私は誇りを持って生まれてくることが出来る。どんな姿になろうとも、貴音様に会うために」
美結の目が紺碧の空に流れていく。油絵に描かれたいくつもの
神と呼ばれる創造主が何処にいるのかわからない。
天使と死神の世界は何処にあるのか。
それでも、見えなくてもそれらは存在する。空に隠された惑星のように。
美結の繰り返される記憶と命。
それは創造主が叶えた願いの姿なのか、リオンの血が骸に流れ紡いだ不死の皮肉なのか。
わからないが、わかることは……僕はひとつだけの生きる意味を見つけた。
巡る時の中、何度でも逢える命がある。
——苦しみがあるからこその幸せがあるんだ。
老人が言っていたこと。
美結がいなくなった時、僕は悲しみに包まれるだろうか。それでもいつかは……。
「貴音様、命を与えられた時から私達は自由なんです。ずっと旅を続けてるんですよ」
「僕の存在は許されるものだろうか。旅の果てでも……君は僕を」
「私がいなくなったあともいっぱいの思い出を作ってください。貴音様がどんな話を聞かせてくれるのか。未来が楽しみになってきました」
闇の中、美結の笑顔が弾けるように輝いた。
「君が望むなら僕も願い続けよう。ただし条件がある」
「なんです?」
「これからはしっかりと空気を読むことだ。君が怒られるのを雪斗が悲しんでる。僕が願うだけ、空気を読む余裕が出来るだろう」
美結をうながし、肩を並べ屋敷に向かう。
僕の中で響く鳴き声は、白い猫の残響なのかオモイデ屋の猫のものなのか。
「君宛てに届いた手紙がある」
「手紙……ですか?」
美結が不思議そうに僕を見上げる。
何故自分に手紙が届くのか。
「雪斗のクラスメイトが書いたものらしい。雪斗への手紙と一緒に届いたものだ」
「ほんとですか? 雪斗様、喜んでくれるかしら」
美結は嬉しそうに笑う。
自分に宛てられた手紙、何が書かれているかわからないというのに。
「明日書庫室で君への手紙を読もう。おそらくは僕のことが書かれているから」
「どうして、貴音様のことが?」
「それを知るために読むんだ」
手紙を差しだすと、雪斗は信じられないものを見るように顔をこわばらせた。
——大丈夫よ。雪斗様が喜ぶことが書かれているから。
——私にも手紙が届いてるの。私もね、何が書かれてるかドキドキしてるけど……悪いことは書いてないと思うな。読んでみようよ。
柚葉と美結の説得で手紙を受け取った雪斗。
美結に宛てた手紙。
雪斗と話せるよう、手助けのお願いを書き記していた。
そして、短く記された僕へのメッセージ。
同封された1枚の写真。
黄昏の慟哭を手に微笑む少年。
彼が都筑颯太。
ノートを手に入れた少年か。
次章〈開かれるオモイデの扉〉
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