貴音と美結、貴音と雪斗《三》
僕だけになった店内は、猫がいるとは思えない静けさだ。僕を恨むだろうな、腹を空かせてるならすぐにでも食べたいだろうに。僕を恐れ隠れ続けるとは。
猫……僕が考えるとおりなら。美結は白い猫の生まれ変わりだろうか。
輪廻が本当にあるのかわからない。だが美結が見せる親しげな温もり。
遠のいた過去、眠るように死んだ猫。
——ずっと……貴音様に仕えさせてくださいね。
美結。
僕が生きることは許されることだろうか。
創造主に望まれず……生みだされた化け物の僕が。
「客人、淹れたてのお茶だ。熱いうちが美味い」
老人の声が響く。
盆に乗せられたふたつの湯呑み茶碗。
「売り物をずらしてくれるかな? お茶を置きたいんだ」
「客が来たらどうする。油を売っていると思われないのか?」
「油なら毎日売っているよ。この店は商売が目的じゃないんだ。いつかは忘れられていく思い出達の居場所だからね。ほら、どけておくれ」
ひび割れた手鏡と針が止まったままの置き時計。
言われたまま動かすと、老人は満足げにうなづいた。
「出前が来たら和室に行こう。すぐには来ないかもしれないが」
陳列台に並ぶふたつの湯呑み茶碗。湯気を立てるお茶は随分と濃いめだ。
「絵の話に戻ろう。恋人の遺言は絵を売りにだし
「何故、そう思う」
「さあね、僕は思ったことを言っただけだ」
ひび割れた眼鏡越しに細まる目、僕を見透かすようじゃないか。
静けさの中、老人がお茶を飲む音が響く。
緩やかに形を変える湯気、触れた湯呑み茶碗から感じ取る熱さ。
「何を秘め、苦しんでるかは話さなくてもいい。だが与えられた命も運命も、自分が考えるより単純なものなんだ。生きることを許される限り生き続ける。それだけのことだと僕は思うがね」
老人は僕から離れていく。
向かう先はカウンター。
僕のそばにある油絵、男はこの絵に何を込めようとしたのだろう。
リリスは言っていた。
都筑颯太に託したものは、物が秘める思い出を知ることが出来るものだと。それを手にすれば、男の想いを知ることが出来るだろうか。
「君の元に手紙が届いているだろう? それはここで書かれたものなんだ。集まったみんなが楽しそうに笑っていた」
老人が陳列台に伸ばした手。
置かれたのは名刺。
古ぼけ破れかけている。記された和嶋時雨という名前。
「店を始めた頃に作ったものだ。残ったのはこの1枚だが……君に渡そうと思ってね」
「どうして僕に?」
「何故だろうね、ふいに渡したいと思ったんだ」
開かれた戸、外を見るなり老人はため息をつく。
「やれやれ、出前はまだ来ないらしい。腹が減ったな、何をしてるんだ
ぼやきながら近づいてくる。
ひび割れた眼鏡越しに見える温かな目の光。
「少しだけ気を楽にすることだ。見えるものが変わっていく。君にとって大きな喜びが見つかるかもしれない。さぁ、遠慮なく飲んでくれ。何度も言うが、お茶は熱いうちが美味いんだ」
老人の顔に浮かぶ少年のような笑み。
老人の顔に刻まれた皺は、彼が生きてきた長い日々を感じさせる。彼にはないんだろうか、悲しみも苦しみも……見られることに感じる恐怖も。
リリスにとって、僕が生きる姿はどれだけ哀れで滑稽なのだろう。彼女に抗い死ぬことも許されない。
歳を取らず、若いままの姿を知られることが怖い。
知っているのは柚葉、彼女がいなくなれば誰ひとり知る者はいなくなる。
名刺に伸びかけた手が止まる。こんなものを受け取って何になるのか。
「君は大福餅は好きか? 僕は茶菓子に大福餅を食べていてね。あいにくと僕は出前待ちだ、君にお使いを頼もうか」
「……気楽なものだな」
「おや、茶菓子が気に入らないのか」
「あなたに何がある。恐れるものも苦しみもないなら、それに変わるものは」
「客人に見えるもの、それがすべてだ」
時計の針の音に気づく。
外から響く話し笑う声。ガラクタにしか見えない、それでも商品として並べられた物。
「店があり
「苦しみを感じたことは」
「あるからこそ、幸せは有り難い」
ガタンッ
何かが音を立てた。
何処かで猫が動いたのか。
「苦しみを知るからこその幸せがあるんだ。いつかは君にもわかる時が来るだろう」
「幸せ? ……僕が?」
「時雨さん‼︎ 待たせて悪かったね‼︎」
女の声がけたたましく響く。
入ってきたのは、白い割烹着に身を包んだ老婆。
皺が刻まれた顔。
だが生き生きと輝いた目と顔色の良さ。伸ばされた背は若々しい印象を呼ぶ。
「まぁ、客がいるなんて驚いた。あんたいい顔してるねぇ」
僕の顔を覗き込むなり、にんまりと笑った老婆。
眼帯と頬を覆う傷痕。
気味の悪い、真っ黒な風貌。
「怖く……ないのか? 僕が」
「何言ってんのさ、目も鼻も口もある。私が怖いのはのっぺらぼうと食い逃げだね」
「紅葉さん、頼んだものをすぐに出してほしいんだ。風丸が隠れっぱなしでね、天丼の匂いで出てくればいいんだが」
「まったくこの店は、仕事より猫が大事ときた。まぁ、腹を空かせてるのも気の毒だ。2人前の天丼、時雨さんとお兄さんが食べるんだろ?」
「いや……僕は」
「ほらほら、和室に急ぐんだよ。格別な海老天を食べとくれ‼︎」
老婆は出前箱を持ちながら、片手で僕の背中を押した。細い体の何処にこれだけの力が隠れてるのか。押されるまま、湯呑み茶碗から溢れ落ちたお茶。
「何やってんのお兄さん‼︎ あぁそんな顔しなさんな。掃除なら時雨さんがやってくれるってね。時雨さん、私も食べていっていいだろ? まかないの飯を持ってきたんだ」
「構わんよ、紅葉さんの話は飽きないからね」
***
住宅地を抜け林道を歩く黄昏時。
今日も雪斗はひとり、僕の部屋で過ごしているのだろう。コートの中、握りしめた名刺。
慌ただしいひと時だった。
押されるまま入った和室。並べられた天丼と味噌汁の湯気。掴みどころのない老人ですら、抗えなかった老婆の賑やかさ。
ふたりから解放され、和室から出て見えた猫。僕を見る深緑の目と空になった皿。
——ニャァ〜。
猫の鳴き声に続いた老人の笑い声。
——君は風丸のお墨付きをもらったようだ。いつでも来ればいい。あの油絵も買われはしないだろう、君が手に入れるまでは。
妙なことを言うものだ。
僕は絵を見ていただけだというのに。
——生きることを許される限り生き続ける。
僕の存在は許されるものなのか。
わからないが……それでも。
見上げた空を染める金色。
雪斗と過ごす黄昏時、空を見たことはなかった。恐れを感じていた黄昏時が、温かく感じられるのは何故なのか。
「……美結」
僕の部屋に来る頃だ。
あるいは、書庫室の掃除を続けてるだろうか。
書庫室の本は、絵梨奈の父親が揃えたものだ。
時が止まった場所。綺麗になったなら、雪斗と新しい本を揃えるのも悪くない。
いつか雪斗が屋敷を引き継いでくれるなら。
その時までに僕は、自身の不死を伝えられるだろうか。
闇が近づいてくる。
翳りを帯びだした黄昏時の中見えだした屋敷。
美結が……門の前に立っている。
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