第2話
店に入るなり僕を包んだ埃の匂い。
「……兄貴?」
客の姿はなく兄貴もいない。
無人のカウンター。机の上に座る黒猫が『ニャァ〜』と鳴き声を上げた。
「風丸、客人かい?」
黒猫に呼ばれたように現れた老人。
束ねられた白い髪と藍色の着物。皺だらけの顔とひび割れた眼鏡。
「あの……兄は」
「おや、涼太君の弟か」
「はい、
老人が浮かべた笑みと『いらっしゃい』とでも言うように鳴いた黒猫。
「僕は
「お使い……ですか?」
「茶飲みの時間でね。大福餅を頼んでるんだ」
戸を閉めて見回す店内。
陳列台に並ぶオルゴールと日本人形。飾りが散りばめられた手鏡とひび割れた絵皿。棚に並ぶ古い書物と壁にかけられた油絵。
日常からかけ離れた空気感。
「学校帰りのようだね、颯太君もお茶を飲むといい。おいで」
老人に言われるまま店の中を歩く。
風丸の目がキラリと輝いた。逃げないなんて人懐っこい猫なんだな。
「颯太君と呼ばせてもらおうか。僕のことも時雨と呼べばいい。涼太君もそう呼んでいるし仲良くしようじゃないか。風丸もそう思うだろう?」
「ニャァ〜」
時雨さんに答えるように鳴いた風丸。
よく見るとうしろ足の毛は、靴下を履いてるように真っ白だ。
「風丸、店番を頼んだよ。颯太君、僕が淹れる茶は渋めだが大丈夫かい?」
「あっ。……えっと」
買ったお茶、黙ってたほうがいいのかな。
時雨さんを追い入った和室。
ちゃぶ台とテレビと龍が描かれた掛け軸。
古ぼけた雰囲気は、穏やかな気持ちと同時に物悲しさを呼ぶ。急須に注がれるお湯の音がやけに響く。
「涼太君には感謝してるんだ。彼が来てから風丸は楽しそうでね」
「兄貴は動物好きなんです。それが風丸にもわかるんだと思います」
「そうかい、颯太君も動物は好きか?」
「兄貴ほどじゃないけど」
「風丸は臆病でね、恐いと思えばすぐに隠れてしまう。さっきもそうだったよ、客人を見るなり隠れていた。君達の優しさを風丸は感じ取ったんだ」
戸を開ける音と風丸の鳴き声。
時雨さんが浮かべた笑み。
「涼太君だ、風丸の声嬉しそうだろう?」
兄貴の笑う声が響く。
風丸が甘えてるのかな。
「風丸、おやつを買ってきたんだ。僕の奢りだからな、味わって食べてくれよ」
「ニャァ〜ッ‼︎」
袋を開ける音とおやつを齧る音。
兄貴ってば、チビを可愛がってた頃とまるっきり同じじゃないか。
「どれ、今日の茶飲み話は打ち合わせだ。いくらの値をつけようか」
ちゃぶ台に置かれた、ボロボロの黒いノート。
「物語の資料のようだが」
「作家さんが持ってきたんですか?」
「そう、洒落た名前のね。確か……
「……それって」
時雨さんが言った名前。
今の聞き違いじゃないよな。嘘みたいだ……黄昏の慟哭を書いた人が‼︎
「時雨さん、ノートを持ってきたの男の人でしたか? 黒いコートを着た」
「おや、行き会ったのか? 客人と」
「ここに来る前に。何か話してたことは」
「悪いが、客人のことを他者には話せないんだ。詮索は控えてくれるかな?」
ひび割れた眼鏡越し、時雨さんの目が鋭い光を宿す。
お店のことはよくわからないけど、人のことを簡単に話すことは許されることじゃない。
時雨さんを怒らせちゃった。
気まずさが僕を固めていく。謝らなきゃいけないのに……何も言えない。
「颯太君、お茶は熱いうちが美味い」
時雨さんの声がズシリと響く。
間違いない、すれ違った彼が霧島貴音だ。
物語の資料だなんて、どうして大切なものをオモイデ屋に?
「颯太? 何してるんだお前」
「お帰り、涼太君。お使いごくろうさん」
ふたりの声が僕を弾く。
時雨さん言ってたな、ノートの値段を話し合うって。兄貴の様子を見に来たのにそれどころじゃなくなった。
ノートに何が書かれてるのか。
リオンと絵梨奈のこと、物語に込められたメッセージがなんなのか……知ることが出来るなら。
「時雨さん。大福なんですけど、僕の分を颯太に食べさせていいですか?」
「あぁ、構わんよ。涼太君、風丸は颯太君を怖がらなかったよ」
うなづきながら、大福を手渡してくれた兄貴。
ラップに包まれた大きな大福。時雨さんが急須にお湯を淹れ、兄貴は僕の隣に座り込む。
「颯太がいるとは思わなかった。時雨さん、そのノートは?」
「物語の資料、客人から買い取ったものだ」
「あっ……あの、時雨さん」
時雨さんに見られ、緊張が僕を包む。
大丈夫だよな、落ち着くように息を吸い込んだ。
「そのノート、僕に売ってくれませんか?」
「おや、気になるのか?」
「
「いいだろう、まずは売値を決めなくてはね」
「待って、時雨さん。決めるのは颯太が帰ってから」
「……兄貴?」
「なんだよその顔は。買ってやるよ、プレゼントだ」
呆れたように兄貴は笑う。
「誕生日やクリスマス、何も渡せてないからな。楽しみに待ってろよ」
「僕も渡せてないけど」
「弟が気を使うなって。それよりも大福、美味いから食ってみな」
兄貴に言われるまま食べる大福。
ほどよい甘みが口の中に広がっていく。
「どうだい颯太君、渋いお茶に合うと思うんだが」
「美味しいです。ごめん、兄貴の分がなくなっちゃった」
「謝ることじゃないだろ、僕が颯太にって言ったんだから。それよりお前、何しに来たんだ?」
「兄貴のバイト先、どんな店か気になって」
『そんなことか』とでも言うようにうなづいた兄貴。
大福を食べ終えるなり、時雨さんはノートをめくる。
「オモイデ屋を知ったのは噂だったんだ。『妙な店がある』って大学でさ、ここはいっぱいの思い出が眠る場所。颯太、いい店だと思わないか?」
「まだわかんないよ。店の雰囲気に惹かれたってこと?」
「まぁ、そんなところかな」
照れ臭そうに兄貴は笑う。
「兄貴、同僚さんは?」
「いないよ、時雨さんと僕の気ままな場所。風丸はマスコットで見張り番」
「風丸は店の前に捨てられてたんだ。ダンボールに閉じ込められていてね。出られないよう、ガムテープが貼られていた」
「そんな……酷い」
「助けてからしばらくは僕に近づこうとしなかったよ。涼太君が来たのは、風丸が僕に懐きだした頃。風丸は涼太君とすぐに仲良くなったんだよ」
風丸はどれだけの怖さを感じてたんだろう。
ダンボールの中、助けを求めて鳴き続けたんだろうな。凍える寒さの中、僕と出会ったチビのように。
「ここはね、颯太君。捨てられ、忘れられた思い出達の居場所なんだ。僕はずっと願っている。1日だけでいい、買われた
微笑む時雨さんを見ながら思う。
思い出達の居場所か。
時雨さんは優しい人なんだな。
「時雨さん、帰る前にお店を見ていいですか? ひとつひとつ見てみたいんです」
「構わんよ。ここが気に入ったらいつでも遊びにおいで」
お茶を飲む時雨さんと嬉しそうな兄貴。
脳裏に浮かぶ、可愛らしいチビの残像。
***
帰ってきた兄貴から受け取ったノート。
何枚ものスケッチ画が挟まれている。
描かれているのは穏やかに微笑む少女。霧島さんが描いたものなのかな。
兄貴と話す中、バイトを始めた
兄貴は時雨さんに祖父を重ねていたんだ。僕が物心ついた頃亡くなった人。
兄貴によると、祖父は優しく穏やかな人だったらしい。祖父が買ってくれた駄菓子の味を、今も覚えていると兄貴は噛み締めるように語った。
茶飲み話の中、兄貴は大福に駄菓子の味を重ねてるんだろうか。
2度と会えなくなった祖父とチビ。
会える日々が続く時雨さんと風丸。
兄貴にとってオモイデ屋は、悲しみと喜びが入り混じりひとつになる場所だったんだ。
次章〈幕間・霧島貴音の独白〉
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