01 少女ニュートン、登校初日の朝に柔道で汗を流す

「ちょわーっ!」


 ズドーン!


「い、一本いっぽんっ!」


 東京都でいちばん東のまち万鳥羽市まんとばしおかの上に建っている道場どうじょう


 朝っぱらだというのに、この中から大きな音がひびいた。


 われらが主人公しゅじんこう葛崎美咲穂かつらざき みさほが、門下生もんかせい一本背負いっぽんぜおいをきめたのだ。


「ふぇふぇーっ! タカさんに勝っちゃったよー!」


「や、やったぞ! 白帯しろおびのおじょうが、茶帯ちゃおび藤木ふじきたおしたぞ!」


「小学生だろ!? お嬢っ!」


「おい、藤木! おまえ何年柔道じゅうどうやってんだ!? このあいだ大学の大会で準優勝じゅんゆうしょうじゃなかったのか!?」


 美咲穂の『偉業いぎょう』に、とりまきの門下生たちは、わいわいと歓声かんせいを上げている。


 小学生の女子じょし敗北はいぼくきっした男・藤木貴斗ふじき たかとは、死んだように横たわっていたが、やがてゾンビ映画のようにむっくりときあがり、こまった顔で笑った。


「いやー、お嬢、強いっすからねー。さすがは師範しはんむすめさんっすよー。持ってるものがちがいますよねー」


「こらっ! 負けといてなんだ、その言いぐさは! プライドはないのか!」


「お嬢の持つ純粋じゅんすいな心、それにおれは勝てなかったんすねー。うーん」


「なにが『うーん』だ、バカか貴様きさまっ!」


 藤木の『敗者はいしゃべん』に、一同いちどうはすっかりあきれている。


 心をもる、これこそがしんなのだ。


 美咲穂の父・征志郎せいしろうは、ここ万鳥羽市で柔道の師範をやっている。


 その門下生たちはしたしみをこめて、美咲穂のことを『お嬢』と呼んでいた。


 いちばん下の白帯とはいえ、父の遺伝子いでんしとそのおしえをけた美咲穂は、子どもとは思えないほどうで上達じょうたつしていた。


 この日も小学校の登校初日とうこうしょにちだというのに、日課にっか朝稽古あさげいこはげんでいたのだった。


「ふぇふぇーっ! つぎはだれなのーっ!? まとめてポイポイぶんげちゃうよーっ!」


「うわーっ! お嬢っ、やめてーっ!」


「マジに小学生かよーっ!?」


「人間だと思うなっ! 最新兵器さいしんへいき実装じっそうした大型おおがた肉食獣にくしょくじゅうとおも、ぎゃーっ!」


 腕におぼえのある大人おとなの門下生たちを、彼女は次々つぎつぎばす。


 父をのぞけばもはや、ここで美咲穂にかなうものはいないのだ。


 たちまちのうちに道場のなかには、ひとりの少女からこてんぱんにのされた男たちのやまができあがった。


「ふぇふぇっ! これがほんとの『おやま大将たいしょう』だわねー」


「あはは、お嬢。それは意味が違うっすよー」


「ふえっ!? タカさん! こまかいこと言うと、いき、止めちゃうよー?」


「あひゃー、もうちょっと死んだふりしてよー。ぎゃふーん」


 敗北者はいぼくしゃ・藤木貴斗はタヌキ寝入ねいりをした。


「この調子ちょうしなら柔道でも食べていけそうだわねー。ふえっ?」


 とおくのほうからドタドタと、だれかが廊下ろうかを走ってくる音が聞こえた。


 さわぎを聞きつけた師範代しはんだい真柴薫ましば かおるがやってきたのだ。


「あー、薫さーん! おはよぐそとーっす!」


 かがみのようにひか坊主頭ぼうずあたまから脂汗あぶらあせらして、真柴はタコのような顔になっている。


「なーにが『とーっす!』じゃ、お嬢っ! 今日は小学校の登校初日じゃろう!? 遅刻ちこくでもしたらどうするんじゃあ!」


 湿しめったくちびるからつばを飛ばしながら、彼は美咲穂をしかった。


「ふぇふぇっ! なにって薫さん、朝稽古あさげいこだわよー」


「なーにが稽古けいこじゃあ! これじゃあまるで戦争じゃろうがあっ!」


「ふえっ!? 薫さんったら、女の子相手あいてにぶっそうなこと言わないでよー! それじゃあまるで、わたしがサツジンヘイキみたいでしょー!?」


「そのとおりじゃろうがあ! 兵器へいきどころか超新星爆発ちょうしんせいばくはつじゃろうがあ!」


「ふえっ!? チョウシンセイバクハツ!? それってブツリよね、薫さん? ブツリのことなんでしょー!?」


「わあーっ! くるな、お嬢っ! わしには大事だいじな人がい、あびょーん!」


「ふぇふぇーっ! ジンコウエイセイのげみたいだよーっ!」


 師範代の真柴といえども、美咲穂の前では、ほかの門下生と同じ運命をたどることになるのであった。


「ふえー、これじゃあ退屈たいくつしのぎにもならないわねー」


 ぶつくさ言いながら、彼女はにつけている柔道着じゅうどうぎなおした。


「あらあら、ミサちゃん。朝から元気ねえ」


「ふえっ!? ママーっ!」


 美咲穂の母・美咲子みさこが、おなかをふくらませた軽装姿けいそうすがた登場とうじょうした。


 彼女はいま、美咲穂につぐ二番目の子どもを、おなかの中に宿やどしているのだ。


 美咲子は上品じょうひん所作しょさで、愛娘まなむすめのほうへ歩いてくる。


「あんまり殿方とのがたをからかっちゃダメよー?」


そんなことより・・・・・・・ママっ! おなかには赤ちゃんがいるんだから、休んでないとダメだわよーっ!」


「なーに、ママはぜんぜん平気だってー。それより、ミサちゃん。いまのおと胎教たいきょうによさそうだから、もっとおねがいよー」


「ふえっ、そうなのー!? よっしゃ! だったらじゃんじゃん、たたきのめしちゃうもんねー!」


「うふふ、もっともっと、『いい音』を聞かせてちょうだい。さすればわたしは、最強の子を宿すでしょうよ」


「ふぇふぇーっ! わたし、おとうとがいいな! 」


「いいわねー、ミサちゃん。じゃあもっと、もっとよ。肉がきしみ、骨のくだける『音』をわたしに……ああ、わたしは、地上ちじょう支配しはいするものの、ゴッド・マザーになるのだわ」


 美咲子は文章ぶんしょう執筆しっぴつ翻訳ほんやくを仕事にしている。


 ときどき自分の書いている小説と、現実世界との境界きょうかいあやふや・・・・になるのだが、少なくとも家族は気にしてはいない。


「そうだ! 地面じめんたいして水平方向すいへいほうこうに投げ飛ばしたら、頭のうしろにもどってくるか、実験じっけんだわ! ニュートン先生の考えた、ジンコウエイセイのアイデアだわよー」


「まあ、ミサちゃんたら。ほんとうにニュートンさんが好きなのねー。しからば、やるのよ。やって本懐ほんかいげるがよいわ」


「ふぇふぇーっ! わたしはニュートンになるんだわーっ!」


「おほほ。じゃあ、そうねえ。いちばんおもそうな薫ちゃんでためしてごらんなさい。物理ぶつりでは『質量しつりょう』っていうのが大切たいせつなんでしょ? パパから聞いて、ママも知ってるのよー」


「ふえっ! さすがはママだわー! そのとおりよー。『ちから』の大きさは『質量』に比例ひれいするのよー。ニュートン先生の偉大いだい発見はっけんだわねー」


「まあまあ、そうなのー。そうとわかれば、ミサちゃん。薫ちゃんを使ってさっそく、『実験』してごらんなさいなー」


「ふぇーっ! 薫さーん! これも科学かがく発展はってんのためだわよーっ!」


「わーっ! お嬢っ! やめるんじゃあっ!」


「ちょわーっ!」


 美咲穂はすっかり心の折れている真柴を、いきおいよく投げ飛ばそうとした。


「ぐ、ぬう……」


「ふえっ!? ママっ! どうしたのーっ!?」


 すぐ横でニコニコしていた美咲子が、突然とつぜんくるしみだした。


「……そんな、まさか……まだ、早すぎる……うっ!」


奥様おくさまっ! まさか来た・・んじゃあないですかっ!?」


 真柴はあわてて、いまにも倒れそうな彼女をささえた。


「これはあのいまいましい、宇宙戦隊うちゅうせんたいキャリバンのしわざに、違いあるまいて……われを宇宙大帝うちゅうたいていドラコニアン・オメガと、知っての狼藉ろうぜきか……」


「わーっ、奥様! 無理しちゃあかん! しゃべらなくてもいいですから!」


「ママったら! また『宇宙戦隊キャリバン』の悪役あくやくになりきってるよー!」


 こんなときに自分の小説のキャラクターが憑依ひょういした美咲子。


 真柴はいよいよあせるが、美咲穂はむしろ楽しくなってきた。


特戦部隊とくせんぶたいサタニック・シグマを、べえええっ!」


「いや、そんなもの呼ばなくても、救急車きゅうきゅうしゃを呼びますから! おいっ藤木! 早くたのむ!」


「ダメっす! ここには電話がないっすよ!」


 ケータイを使えばよいことを、混乱こんらんのあまり、みんなはわすれていた。


 美咲穂は状況じょうきょうそのものが、よくわかっていない。


通信つうしん遮断しゃだんされただとっ!? キャリバンめ! てきながらやりおるわっ!」


「奥様っ! ちょっとおしずかに! 藤木! 車を出さんかい!」


「は、はいっ!」


 しびれを切らした真柴が、藤木に自家用車じかようしゃ出動しゅつどう要請ようせいした。


「薫さん、いーけないんだっ! パパの『アンゴルモア』を勝手かってに使っちゃダメでしょー! 言いつけてやるーっ!」


「それどころじゃないじゃろが! それに『アンゴルモア』じゃのうて『ランボルギーニ』じゃろうがあ!」


「ちまちまうるさいよーっ! パパがおこったら、すぐに平社員ひらしゃいんだわよー!」


「わあーん! どうすればいいんじゃあーっ!」


 理不尽りふじんきわまった真柴がわめきちらしているあいだに、藤木が征志郎の愛車あいしゃ・ランボルギーニを、道場によこづけした。


「おおっ、素晴すばらしいマシンだ! さすが、わが帝国ていこく機体きたいである!」


「いいから、奥様! 早く乗ってくれっす!」


「エッケンコウイだわー! 手打てうちにしちゃうよーっ!」


「お前らっ! お嬢をさえるんじゃあ!」


「きいやあーっ! こんちくしょう! サイコウサイにコクソしてやるーっ!」


「いや、最高裁さいこうさい告訴こくそはできんと思うぞ、お嬢よ」


 しっちゃかめっちゃかになりながら、美咲子は藤木の運転うんてん病院びょういんはこばれた。


「デビル・サンダー、発進はっしんんんんっ!」


「わかったっすから、奥様! あばれないで! ちょ、ま、ぎゃーっ!」


 敗北者・藤木よ。


 きみという偉大なモブがいたことを、われわれは忘れない。


「わははー、疲れたなー」


 ボロクズのようになった一同は、いまにもたましいが抜けそうな顔だ。


「あーっ!」


 いきなりさけんだ美咲穂に、今度こんどはなんだと、彼らは絶句ぜっくした。


「それじゃ、学校言ってくるねー」


 ズドーン!


「早く行かないと、遅刻しちゃうわー。もう、みんな、気がきかないんだからー」


 盛大せいだいにずっこけた門下一同もんかいちどう尻目しりめに、彼女はとっとと道場をあとにした。


「あははー、いってらっしゃーい……」


 人生なんて、こんなもの。


 負けてはいけない、進むしかないのだ。


 とにもかくにも少女ニュートンは、やっとのことで学校へと向かったのである。

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