13.ゴマサバの本音

 魚と人魚は大きく違う。

 人魚には髪の毛がある。腕がある。人間に似た顔がある。骨だって魚と比較すると太くて頑丈だ。

 それを魚よりも優れていると思うだろうか。

 少なくとも、多くの魚たちは"優れている"と思うようで人魚に憧れを持つ者は後を絶たない。

 ただ、実際に人魚となった者の中には後悔している者も居るという事実も確かに確認されている。

 『泳ぎにくい』『体が大きくて元々住んでいた穴に帰れない』『思っていたのと違った』

 そんな声が度々上がっているが、いかなる事情があろうとも人魚から魚に戻る事は出来ない。

 一度変わると後戻りが出来ないのだ、だから古代では人魚化の魔法は"許されざる術"だった。故に蒼海の魔女以外の者には伝わっていない。

 今この魔法が許されているのは"魚たちが人魚に憧れるような時世になったから"であり、この魔法の本質は太古の昔から変わらず"種族そのものを変化させる恐ろしい術"なのである。


「ご理解いただけましたでしょうか、ノカ様」


「……はい」


 マヨの年齢に見合わない厳かな説明を聞き終えると、思わず体が強張ってしまった。

 僕自身の身体を人魚に、もとい人間にまで変化させる事への決意は揺らいでいない。だが人魚化の魔法のルーツがそのような物であった事への戸惑いが隠せない。


「今の話、知ってた? アフテプ」


「ほんのりと座学で聞いた事があるわ。人間化の魔法とはまるで違う扱いで驚くわよね」


「認められている事がある種の間違いであるという見解もあるようで、度々抗議の声が届きます」


 マヨが困り眉で笑顔を浮かべる。

 そりゃそうだよなと納得する気持ちと共に、そんな意見が出ている事実が心に重くのしかかった。


「抗議される程の魔法なんだ。なんかもう、色々と凄いな」


「時代に馴染めない魚が喚いてるだけよ。王家の者だってたまに魚の姿で生まれてこの魔法を受けるってのに」


「シッ、アフテプ様。それは門外不出の話ですよ。王女と言えど場合によっては厳罰に処されます」


「おっとっと」


「ちょっと、巻き添えで僕まで罰せられたら本当に怒るよ。しかも普通に知りたくなかった話だし」


 口を押さえたアフテプがニコニコと笑みを浮かべる。彼女の不注意はさほど珍しい事ではないのだが、それにしても今回のはスケールが違う。


「ノカさんも、知ってしまったからには口外しないようお願いいたします」


「は、はい……」


 頷くとマヨが立体魔法陣で僕の身体を包み込んだ。


「では、改めましてこれより人魚化の儀式を執り行います。魔法をかけた後に泳ぎ方の簡単なレクチャー、そして今回は人間化もされるという事ですので、休憩を挟んでから人間化の儀式へ移行という流れで進めて参ります」


「はい、よろしくお願いします」


 既に精神を研ぎ澄ましたマヨが頷きのみを僕へと返す。

 そのまま数秒待っていると僕でも認識できるほどの魔力の流れが辺りに生じ、魔法陣が光を放った。

 瞬間、体の奥深くから末端へと味わった事も無い程の痛みが駆け巡った。


「っ、う……!?」


 恐らくは骨格が変わる痛みだろう。ただひたすら苦痛に耐えていると、体表を無数の細かな棘で擦られているような痛みが加わった。こっちは鱗が皮膚へと変化する痛みだろう。


「耐えて下さい、ノカ様……!」


 顔を割かれるような痛み、骨が無いはずの所へと新たな骨が伸びて行く不快感。

 そんな粗方の苦しみを経験した後は、骨が無理やりに引き延ばされているかのような感覚が全身を襲った。曲がる筈の無い部分を曲げられている。そう思わざるを得なかった。


「ふ…… う…… きっつ……」


 痛みが引くにつれて倦怠感が増してゆく。体力の消耗を感じ取り息をつくと、体中の痛みと不快感が急激に引いた。


「……ん?」


 この間に一度気持ちを落ち着けて次の痛みに備えようと姿勢を正すと、ふと誰の物か分からない"手"が視界に入っている事に気が付いた。

 周囲を見渡す。マヨとアフテプは一目で姿勢を確認できる程度の距離に居る。『ではコレは誰の手だ』と手首から腕へ視線を運ぶうちに、僕は今自身の腕を見ているのだと理解した。


「人魚化が、完了いたしました」


「あ、もう終わったんですね…… はい、ありがとうございます」


 自分の姿が既に人魚に代わっている事は一応理解できたが、その事についての言葉が何も出なかった。

 頭も身体も正常に動いていないような気がする。脳がまだ衝撃を処理しきれずに現状に追いつけていない。


「あら、ショックで少し呆けているようですね。アフテプ様、何かお声をかけてあげてください」


 マヨの言葉を受けたアフテプがずいと顔を近づけて僕の顔を凝視する。

 そして言葉に迷うような表情を浮かべながら僕の頬に手を当てた。


「……正直、上手く言葉が出ないわ。今までお魚だったのに、一瞬のうちにここまで変わるんだもの」


「人魚になるって分かってたのに?」


「分かってたけど、単なる理解や把握は心の準備には成り得ないの。実際に目の当たりにするのとは全然違うんだから」


 目尻に触れられて片目を閉じるとアフテプの指先が睫毛に触れた。


「……」


「……」


「睫毛、長いのね。それに鼻筋も通ってて、耳の形もスラッとしているわね」


「人魚の感覚からすると、それは良い事なの?」


「うーん…… 人によるかしら。容姿の優劣を決められる程の要素ではない気がするわ」


 曖昧な言葉を呟いたアフテプが僕の肩に手を置く。


「良いか悪いかは好み次第って事?」


「ええ。私は可愛らしい顔だと思う。髪の毛の色も、想像とは違ったけど貴方らしくて好きよ」


 僕の髪の毛をふわりと撫でたアフテプが微笑んだ。


「気に入ってくれたのなら嬉しいけど…… 一体どんな顔なんだろう。マヨさん、鏡ありますか?」


「はい、こちらに」


 取り出された鏡に姿が映る。

 見れば見る程見慣れないその姿に近づいてよく観察すると、徐々に脳が現状を飲み込み始めた。


「私は結構良いと思うけど、ノカはどう思う?」


 鏡越しにアフテプが目を合わせる。鏡に映る二つの顔を見ながら自分の頬に触れた。

 元魚と言えど、人魚における男女の顔つきの違いは分かる。美醜の感覚はあまりよく分からないが、"系統"という物もなんとなく分かっている。

 その断片的な感覚を基に自分の顔を表するのならば、中性的という言葉が当てはまる。

 アフテプの言った通り睫毛が長く、鼻筋が通っており耳の形がスッキリとしている。それに加えて目がぱっちりと大きく、そしてほんのりと赤い頬とは対照的に髪の毛は陸の空のように澄んだ水色で、きめの細かい光沢を走らせている。


「……何も思わない。まだ感性が魚のままなんだ、多分」


「ふふ、そう」


 鏡から目を離してアフテプの顔を見つめる。思えば彼女に対しても特に顔への感想を持った事が無かった。


「容姿の確認もお済みのようですし、泳ぎ方のレクチャーに移りましょうか」


 鏡を片付けたマヨがアフテプに向けて手招きをする。その意図を理解した彼女が前へ出て正面から僕を見据えた。


「私にはヒレが無いので、今回はアフテプ様を講師として泳ぎ方を覚えていただきます」


 そんな事務的な調子で、僕の新たな人生は始まりを告げた。




──────────


 泳ぎの練習を始めた瞬間、尾びれの向きが縦から横に代わっているという点に対して並々ならぬ違和感を覚えた。これまで横方向に振っていた尾びれを縦に振る必要があるのだ。

 それはまるで自分がもう魚ではないという事を象徴しているかのようで、不思議な気持ちになった。


「ここまでできれば日常生活において不自由する事は無いわね」


「そう? まだ"不自由しない"って言える程では無いような気がするけど……」


「心配しなくても大丈夫。フォームは完璧だから後は筋肉量と慣れの問題よ」


「そっかあ」


 "頭から胸を固定してヒレを強くしなやかに動かす"。

 人魚に泳ぎを教える際に決まって使われる文言らしいが、イメージ通りに出来ている気がしない。それに変な位置の筋肉が悲鳴を上げている。到底正しいフォームだとは思えないのだが、アフテプから見るとこれで正しいようだ。


「という事で、泳ぎ方のレクチャーはこれで終わりよ」


「ありがとうございました、アフテプ様。では少し休憩を挟んでから人間化の儀式に移りましょうか」


「ありがとう、アフテプ。 ……ふうう」


 部屋の隅にある岩に腰を掛けて肩を回す。抵抗を減らす為脇を締める体制をずっとキープしていたせいで肩に"変な感覚"が蓄積してしまった。恐らくは"肩こり"が起きているのだろう。


「お疲れ様、ノカ」


 街で度々見かける老いた人魚を思い出しながら肩を拳で叩いているとアフテプが隣に腰を掛けた。


「アフテプ、いつも平気な顔して泳いでるけどこんな大変な事をしていたんだね」


「まあね」


 簡潔に返したアフテプが頭上の水面を見上げる。

 つられて僕も見上げると、太陽の光がキラキラと揺れているのが見えた。


「ありがとうね」


「え、何が?」


「人間として一緒に来てくれるって決断してくれて」


「……それは、うん。魚のままだと荷物になっちゃうから」


 言ってから自分の中の微かなズレを感じた。

 こんな言い方でいいのだろうか。アフテプの為とは言ってもあまり明るい印象は与えないだろう。

 まるでなし崩し的に人間になる事を"選ばされた"かのようだ。


「荷物?」


「いや、違…… なんというか、その…… ごめん、違う事言った。なんて言えばいいんだろう」


 『僕は陸へ出るアフテプの荷物にはなりたくなかった』

 この気持ちはどういった感情からくる言葉なのだろう。

 本当に彼女の為を思っての気持ちなのだろうか。

 

「僕は──」


 旅に連れて行って貰う上での最低限の礼儀か。それもあるが、もっと大きな気持ちがある。

 アフテプが旅に出るから。旅に出るのがアフテプだからこそ、色々と思った事がある。


「……"僕が"、アフテプと対等な立場で歩きたかったから」


 言葉に出して初めてしっくり来た。

 暴漢に襲われそうになった時、彼女が自分自身で身を守る様を見ている事しかできなかった。そんな自分を情けなく思った。

 慣れない陸の活動を経てただ一人疲れた様子で僕に語り掛ける彼女を見て、なぜか疎外感を感じた。

 彼女が地を踏み石を蹴る時、僕は宙に浮く水の中でそれを見ているだけだったし、必死に強がって階段を上る時だって見ているだけだった。アフテプがどう思っているかは分からないが、結局の所魚としての僕はただ彼女について回る装飾品のような物でしかなかったのだ。


「対等、ねえ?」


「え、な…… 納得してない?」


「よく分からないのよ。私達はずっと親友でいたじゃない? 同じ姿になる事で今更何が変わるのかなって」


「それは……」


 一瞬言葉に詰まった。確かに友人として対等な立場ではあった。しかしながら、『僕は彼女と違っていた』という事を実感する出来事はこの数日間で沢山あった。


「確かに精神的には対等だった。でもこの身体と、人間としての身体があれば行動においても君と対等になれると思ったんだ」


「行動?」


「そう。例えば守られるだけじゃなくて、守れるようになるんだよ。ほら、これって対等でしょ?」


「……ふふ、確かにそうだったわね」


「階段で君だけが疲れるような事も無くなるし、あとは…… 重い物も一緒に持てる」


 本当は、陸へ出る前から彼女と僕の違いに対して無意識に思う事があったのかもしれない。『これからは同じ事が出来る』。その事が何故だかとても嬉しい事のように思えた。


「貴方は"そう"なりたいと思ったんだ?」


「うん」


「ふうん。そっか」


 薄い雲が太陽にかかり、柔らかな闇が生まれる。風に流れて再び太陽が覗くまでの間、なんとなく会話が途切れて二人揃って黙り込んでいた。

 やがて部屋が再び光に包まれると、マヨが小さな微笑みを浮かべてこちらを向いた。


「では、そろそろ人間化の儀式に移りましょうか」


「はい」


 岩から腰を上げてマヨの目の前まで泳ぐ。すると彼女は手を合わせて立体魔法陣を展開した。


「アフテプ様が儀式を受ける様子をご覧になって存じ上げているかもしれませんが、今から貴方は空気に包まれて少しの間呼吸ができなくなります」


「……はい」


「取り乱さないように、お願いいたします」


 魔法陣の中の水が徐々に無くなり空気へと置き換わってゆく。

 空気中だと呼吸ができない事はおろか、重力がダイレクトで身体にかかる。人魚化の際の痛みに比べるとなんてことは無いだろうが、一応床の上に姿勢を正して頭上に迫る空気へと身構えた。

 マヨが目線で合図する。それに頷きを返すと残りの水が消えて僕は空気に包まれた。


「……っ!」


 口からエラへと空気が抜ける。生まれて初めての感覚に驚愕すると共に、呼吸ができないという状況がいかに不安か思い知った。


「いきます!」


 マヨが手を突き出すと新たな魔法陣が僕の身体を包み込み光を放った。その瞬間胸を圧迫されたかのような感覚が上半身を駆け抜けた。


「ノカ様、息を吸ってください!」


 言われた通り、出来るだけ取り乱さないように息を吸い込む。

 アフテプがやっていたように吸って吐いてを繰り返していると、徐々に苦しさが和らいで心臓の動きが落ち着いた。


「ふうう……」


 更に呼吸を重ねて胸を押さえると全身の水滴が消え去った。マヨが乾燥の魔法を使ったようだ。


「流石です。一度見ているだけあって適応が速いですね」


「でも結構…… 構えてても焦るもんですね……」


 脚を畳み、起立を試みる。しかし上手く行かなかった。

 するとアフテプが空気の中へと入りこんで補助をするように僕の手を取った。


「大丈夫? ノカ」


「う、うん。やっぱり見様見真似じゃ上手くいかないね」


「そりゃそうよ。 ……ねえマヨちゃん、歩き方のレクチャーも私に任せてくれないかしら? 教えてあげるって約束をしていたの」


 数日前に話していた、僕が人間になる際にはアフテプが歩き方を教えるという約束だ。


「まあ、そうなのですか。ではお願いいたします」


「よし。さあ立って、ノカ。私、この瞬間が少し楽しみだったの」


「お手柔らかに……」


 優しく腕を引かれる。その力の向きに沿うように体を起こして脚を伸ばすと、すんなりと立ち上がる事ができた。

 そして彼女はそのまま僕の手を引いてゆっくりと後ろに下がり始めた。遅れないように一歩、また一歩と慣れない足取りで距離を埋める。まだ直立でバランスを保つ事すらも満足にできないのだが、そんな事はお構いなしに彼女は微笑んだ。


「待って、アフテプ。転びそう」


「その時は受け止めてあげる。ほら」


「うーん、お互い怪我だけはしないように気を付けようね……」


 体重の移動に意識を集中させながらまた一歩ずつ歩みを進める。

 強引ながらもゆったりとしたペースに身を任せて感覚を掴んでゆくと、次に彼女は手を放して距離を取った。


「はい、これくらいの距離ならもう普通に歩けるわよね?」


「どうだろう。やってみる」


 背筋を伸ばして一歩を踏み出す。

 ひたひたと冷たい床を踏みしめてアフテプの目の前まで歩くと、彼女は更に距離を開けた。


「出来た出来た。凄いじゃない! 今度はこのくらい」


「うわー、いけるかな……」


 マヨが何も言わずに笑っているから間違えた教え方はしていないのだろう。

 ならば全て彼女に任せようと思い、その後も僕はアフテプ流の歩行レクチャーを受け続けた。

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