9.蒼海の魔女は泡沫に眠る

 いつか見た朝日をずっと覚えている。

 初めて水面に顔を出した時に見た朝日だ。

 青くない。揺れない。そして目を灼く程に眩しい。海の上はこんな世界なのかと感動した覚えがある。

 波の形も雲の形も、一度として"あの日と同じ"になる事は決して無い。それでも唯一太陽だけは変わらない黄金の輝きを放っていた。


「では、貴方へ課す試練を提示いたします」


「はい」


 朝日が大きく影を作り出す中、目の前の少年ミプルへと語り掛ける。

 今日は私が蒼海の魔女に就任してから四度目の人間化の儀式を執り行う日だ。


「こちらの真珠を人間に売り、そして工芸品を購入して持ち帰って下さい」


 海底の世界でも行われている金銭のやり取りだ。こんな物が試練になるのかと問われることもあるが、人間がどのような生き物であるのかを知る上では適切であると私は考えている。

 相手が子供だと高を括って安い値段で真珠を購入しようとする人間も居れば、真珠に正しい価値を付けて購入する人間もいる。そして工芸品を買う際にも、余所者には定価よりも高い値段を提示する者も居れば、逆に旅人にサービスをしてくれる者も居る。


「……分かりました」


 要は、様々な人間が居る事を知ってほしいのだ。そして食い物にされないように警戒する事を覚えてほしい。優しい人への頼り方も覚えてほしい。

 文字通りの弱肉強食が起こる水中と違って、陸の"それ"からは単純な方法では身を守れないのだ。


「期限は今日を合わせて六日が経った日の夕方までです。それまでここの海岸で待っていますから、何か問題が起きたらお呼び下さい」


「はい、では行ってきます」


 少年の背中を見送って水中へと戻る。

 この海岸のすぐ近くには町がある。岩場から出てすぐに建物が目に入る筈だ。早ければ今日中に終わるだろう。

 岩場の影へと身を隠し、朝日を見上げる。

 やはり今日も太陽は変わらない輝きを湛えていた。


「綺麗……」


 本当は、私も人間として陸で生きたかった。なんて言うともう叶わない願いであるかのように聞こえてしまうが、少なくとも私の後継者が育つまでは叶わない。

 私が初めて陸の朝日を拝んだのは先代に師事していた頃、『次期蒼海の魔女として人間化を済ませておけ』と陸へ送り出された時だ。

 この朝日をもっと早くに知っていたなら、私は魔女を志さずに人間になっていただろう。


「はあ」


 なんて今更考えていても意味は無いのだが。

 とにかく今は尽きない夢を原動力に張り切って職務を全うするだけだ。今の日常もそれはそれでかけがえの無い物だから。


「疲れた……」


 水中へ潜る。

 岩へ打ち付ける水の音を聞きながら、私は海底の草を布団にして瞳を閉じた。

 弟子のマヨは私以上の才能を秘めている。恐らくは、あと数年もしない内に立派な魔女になるだろう。

 そうなったら、私は晴れて人間になれる。

 そしたら友達を作って、陸の文化と歴史に触れて、恋人も作って、幸せな最期を迎えたい。

 泡なんかにならずにちゃんとした墓を作って貰って、そして生きた証を刻んで愛する者と共に眠るのだ。


「……物語の読みすぎかしら」


 瞼を透過する陽光が心地良い。

 仕事の疲れが溜まっていたのだろうか、私はそのまま微睡に揺られて目が開けられなくなった。




──────────


 目を覚ましたのは真夜中だった。

 高く昇る三日月が私を見下ろし、闇に包まれた海を微かに照らしている。

 私は海上から見る月も好きだ。圧倒的な輝きを放つ朝日とは正反対の清謐かつ耽美なその振る舞いからは形容する事すらも叶わない神秘性を感じる。

 『まるで私の幻想を現実にしてくれそうだ』なんて、月を見る度に思っていた。実際にはそんな訳無いのだが。

 しかし、そんな現実を弁えた上で今にもその岩場の影から人間が現れそうな気がしてしまう。いわゆる運命の出会いだ。

 夢に見た陸上と海を繋ぐ海岸、そして雲一つない空に浮かぶ月。幸運な事に星もよく見える。あらゆる物にお膳立てされたこの状況で物語が始まらない事なんてあるのだろうか。


「……」


 始まる訳が無いだろう。

 今誰かに頭の中を覗かれていたら羞恥心で死んでしまいそうだ。

 気持ちを切り替えて暇つぶしの研究を始めようと魔法陣を展開すると、不意に背後から小石の転がる音が聞こえた。


「ん?」


 一瞬人間かと思ったが、よく考えてみればこんな時間に海へ来るのは危険だ。恐らくは人間ではなく野生の生き物だろう。

 望んだ客人とは異なるものの、私は人間以外の陸の生き物にも興味がある。せっかくの機会なので観察させてもらおうと音のした方向を注視していると、明るい色の毛が岩陰からチラチラと見えている事に気が付いた。なかなか出てこない。私の気配を察知したのだろうか。


「……おいでー」


 声を掛けたら逃げるだろうか。そんな考え事をした上であえて声を出した。

 あの様子だと近付いてくる事はまずありえない。じっくり観察は出来ないだろうから、逃げる一瞬だけでも姿を見られればそれでいいと思った。


「怖くないよー」


 続けて声を出す。

 すると明るい色の毛を持つその生物は岩の陰から姿を見せずに声を発した。


「ほ、ほんと…… ですか?」


「え?」


 私の予想とは反して、岩陰に隠れる生き物は人の言葉を発した。

 聞き間違いではない。あの生き物は本当に今言葉を話した。


「人間?」


「に、人魚だ……」


 互いに相手の言葉には答えず困惑の声を上げている。

 向こうは私の正体が見えたようだが私はまだそこに居る人間の正体が掴めていない。

 男性なのか女性なのか。明るい色に見える髪の毛が正しくは何色なのか。この暗さではそれすらもあまり見えない。


「貴方は誰?」


 優しい光を発する魔力の玉を手に作り出し、刺激しないように照らしてみる。

 すると岩陰から恐る恐る金髪の少年が姿を現した。しかしながら明るさが足りず、顔つきや体形などは確認できなかった。薄ぼんやりとした曖昧な輪郭があるだけだ。


「……っ」


 名は名乗らない。そしてこちらから視線を外しもしない。振る舞いからして、恐れよりは戸惑いを私に向けているように見える。少しすれば落ち着くだろうが、それでも今は警戒されている事に変わりはない。


「貴方子供よね? どうして真夜中にこんな所に居るの?」


 見た所一人だ。普通に考えて子供一人で夜に海に来るなんて周りの大人が許さないだろう。陸生の生物にとって波のある水場や底の深い水場は危険な場所であるはずだ。

 注意する意味も込めて尋ねると、彼は少しだけ俯いて言いにくそうに自分の指を触った。


「……言いたくない?」


 静かに頷く。何やら穏やかではない事情がありそうだ。


「そう。分かっていると思うけど、夜の海ってとても危ないの。早くお家に帰りなさい」


 相手が大人であれば色々と話に付き合ってもらおうと思ったのだが、夜に子供を引き留めるのは常識的に考えて駄目だ。

 恐らくはミプルにも伝えたすぐ近くの村に住んでいる子だろう。そう思いながら手を振ると彼は俯いてその場に座り込んだ。


「……しばらく、帰りたくありません」


「え、どうして?」


「色々、あって」


 膝を抱く腕に力が籠る。そんな姿を見ると少し心配になってしまった。今会ったばかりであっても『他人だからどうでも良い』とは思えない。


「そうは言っても……」


 どのような事情があるにしろ、ここに居るよりは村の方が安全だ。とりあえず帰って貰わないと私としても安心できない。


「……村よりもここの方がマシなんです。ここに居た方が良いんです」


 意味深な言葉が返って来た。暫くここから動かないつもりだろう。

 面倒を見る訳では無いが、それなら彼の気が済むまでここに居させるというのも一つの手であるような気がしてきた。仮に暴漢が現れたとしても私の魔法で護ることが出来るのだから。


「村よりマシ…… こんな得体の知れない人魚も居るのに?」


「自分の事を悪く聞こえる風に言うのは良くないと思います」


「でも貴方からすれば事実でしょう。実際、貴方は私の事何も知らないじゃない」


 私は何をするつもりもないが、それとは別に子供が夜に一人で知らない相手と会話をするという事は異常である筈だ。大人として、まずはその事を確認させなくてはならない。


「本来であれば貴方は逃げないといけない状況なのよ」


「……それはそうですけど」


「あら、分かってるんじゃない。私が貴方に危害を加えないとは限らないでしょ? 次の瞬間には臓器を取られて絶命していてもおかしくないわ」


 説得をするように話すと彼は数度瞬きをして考えるように膝に顎を置いた。

 長い脚に支えられた頭部が傾げられる。私の主張は伝わった筈だ。恐らく帰らない為の言い訳を考えているのだろう。


「でもそれならそれで、いいかなって……」


「それでいいって……」


 そう思えてしまう事情があると考えると、頭ごなしに彼の価値観を否定する気は起きなかった。


「そもそも本当に危害を加える人間は貴女みたいに警告なんてしません」


「……はあ、そうね。日の出までには帰ってね。それまでは勝手にするといいわ」


 私が根負けする形で説教は終わった。

 これ以上はもう私の役目ではないだろう。彼にも叱って正してくれる者が居る筈だ。一晩反抗して、そして目一杯怒られるのも人生に一度くらいは必要な経験かもしれない。私にはそんな思い出は無いが。

 気を取り直して魔法陣を展開すると、少年はその場に座ったまま私へと話しかけた。


「貴女は、いつもここに居るんですか」


「ううん、今朝からここに居るの」


「……明日も居ますか?」


 どういうつもりなのだろう。まさか明日も会いたいなんて思っている訳ではあるまいか。

 意図の掴めない質問に悩みつつも私は事実を伝える事に決めた。


「場合によるわ。詳しく話すつもりは無いけど、用事が済めばすぐにでもここから居なくなるつもり」


「そうですか」


 私の返答に対する感情すらも分かりにくい。安堵しているのか、それとも寂しいのか。あるいは何となく訊いただけで無関心なのか。

 男の子はよく分からない。私自身"関わりの無い個人"へ関心を向ける事が多いとは言えない性格だが、特に異性の年下となるとどのように接するべきなのか悩んでしまう。


「……人間が怖いとは思わないんですか?」


「警戒しているという意味では怖がっていると言えるわね」


「そうですか」


「……どういう意図の質問?」


 『明日も居るのか』『人間が怖くないか』。それらの質問からは何というか、珍しい生き物に対する好奇心のような物を感じた。

 私自身人間を観察対象として見ている節は有るが、自分自身がそのような目で見られるのはどうにもムズムズするような気分になってしまう。


「ボクの住んでいる場所は異なる種族に対して排他的なんです。そういった価値観が他の種族にもあるのかどうか気になって」


「排他的か…… まあ、どの文化圏においてもある程度の集団であればそうなるのは当たり前の事なのではないかしら」


「当たり前、なんですか?」


「ええ。あまり詳しくはないけど、一種の防衛反応のような物なんじゃないかと思うわ」


 そう伝えると彼は眉をひそめて自分の腕を撫でた。


「人魚の世界でもそういう事があるんですか?」


「もちろんあるわよ。私達の場合その対象となるのは大型の肉食生物だけどね。防衛反応と言うか、もろに防衛戦よ」


「人間とは全然違いますね」


「そうみたいね」


 実際、人間化の儀式に際して陸上の街に滞在した時はあまりの安全性に驚いた。

 勿論夜に一人で出歩ける程の安全性は保障されていなかったが、それでも文字通り自分を喰おうとしてくる生物が居ない点においては海底で過ごすよりも安心出来た。


「……どっちが良いんだろうなあ」


「さあ。どちらが良いんでしょうね」


 しかし、そんな安全が保障されているという事は共通の敵として圧倒的な存在感を放つ者が居ないという事でもある。

 そんな中で働く防衛反応というのは、即ち集団内の異物の排除および集団に接近する異物の排除だ。少年が語ったような異種族に対して排他的であるというのもその一つなのだろう。

 ミプルを始めとする人間化の儀式を受ける人魚に関しては人間に扮するように言っているからその心配は無いと思うが、それでもこの世界の人間の大半を占める"リトア"以外の種族には肩身の狭い思いをしている者も居るだろう。


「貴方は、人魚である事が原因で人間に苛められた事ってありますか?」


「無いわね。そもそも関わり合いにならないから」


「……そっか、海の中で生きているんですもんね」


「ええ」


 照明の玉から顔を背けるような仕草を見せた少年は、そのまま言葉を発さなくなった。好奇心が満たされたのなら何よりだ。

 話を終えて今度こそ魔法の研究を進めようと魔法陣を展開する。私が今作り出そうとしているモノは記憶を映像化して媒介の宝石に保存する魔法だ。

 これと言ってこの魔法を作らなければならない理由は無い。単なる趣味だ。ロマンティックな物が好きだから作ろうと思った。それだけだ。


「……」


 空白の魔法陣へと適当に必要そうな単語を並べてゆく。

 "銘記"、"記憶"、"参照・術者"、"保持"、"像"、"対象・媒介"。そしていかなる魔法にも欠かせない"安定化"。試作品第一号としてはこんなもんで良いだろう。次は書き込んだ記憶を見るための魔法だ。

 組み立てた魔法陣をペンダントへと付与する。これが正しく動作しているかどうかは付与した物を見る為の魔法が出来上がるまで分からない。新たな空白の魔法陣を展開すると少年が小さく声を上げた。


「近くで見て良いですか?」


「え? ……歓迎はしないけど、良いわよ」


「やった」


「"やった"なんだ。歓迎されていないのに」


「見せてくれるだけ優しいですよ」


「そんなもんかしら」


 砂浜に腰を下ろす。その右斜め後ろに少年も腰を下ろした。


「それって魔法ですよね」


「ええ、そうよ」


「すごいなあ」


 感嘆とした声が聞こえた。少年の顔を見ていないため表情は分からない。

 気にせず魔法陣に単語を詰めてゆく。書き込んだ記憶を見る魔法に関しては継承の儀式で前世を見る際に使う物を改良する程度で良いだろう。最初の一回目だから適当で構わない。失敗を基に改良してゆくのが私のスタイルだ。

 完成した魔法陣を試しに使用してみる。結果は失敗。一瞬意識が飛びそうにはなったが、これと言って何かが見えた訳では無い。

 媒介に用いたペンダントから魔法陣が消えている事から推察するに、描き込んだ物を見る魔法は問題無く動作したように思える。とすると記憶を書き込む魔法に問題がある可能性が高い。

 改めて魔法陣を作ろうとした所で、少年が少しこちらに近付く音が聞こえた。


「ボクもそういうの、勉強すればできるようになりますかね?」


「もちろん。原理さえ分かれば誰でも扱えるわ」


「へえ……」


「"魔法は人を選ばない"。生まれも才能も種族も関係無い。理解した者皆に力を与えてくれる。それが魔法という技術よ」


 私が魔女を志した切っ掛けの言葉だ。私の師匠である五代目蒼海の魔女によってその言葉が説かれた時、心から感銘を受けた記憶がある。

 説明を聞いた少年が数度瞬きをしてこちらを見つめる。照明との位置関係的に丁度私の影が掛かる位置に居るため表情は良く見えない。わざとやっているのかと思ってしまう。


「……やってみたいなあ」


 星空を見上げた少年が届かない欲望を吐き出すように呟いた。


「やればいいじゃない」


「村には魔法を教えられる人が居ないんです。本屋にも魔法関係の本なんて置いてないし」


 私へ頼もうという気は起こらないのだろうか。

 期待の眼差しを向ける事もせず。指先で砂に魔法陣を模した物を描いている。


「……なるほどね。魔法は平等と思っていたけど環境によってはそうもいかないのね」


「そうみたいですね」


 それなら私が魔法を教えてあげても良い。でも私から『教えてあげようか』と提案するのは何か嫌だ。あれだけ帰れと言っておいて今更友好的な態度を見せるのは恥ずかしい。主張の一貫性が無いように思う。

 『教えて下さい』と言われて『分かったわ』と返すのが私にとっての理想の流れなのだが。


「つまり、今貴方の周りに魔法を使える者は"私しか居ない"という事よね」


「はい」


「……」


 わざとらしく言葉を強調しても彼に意図は届いていないようだ。私からは言わないぞと視線で訴えてもぽかんと視線を返すのみ。


「……村には頼れる人は居ない、と」


「……はい」


 魔法は人を選ばない。

 しかしながら、環境という壁に阻まれて魔法を学ぶという選択が出来ない者も居た。

 今、目の前の少年を阻む壁を越えて手を差し伸べられるのは私しか居ない。この機を逃せば彼は村に居る限り魔法を学べない事になるだろう。それを見過ごすのは私が思う魔女としての在り方に反する行いだ。私が感銘を受けたあの言葉を私自身が否定する事にもなる。


「もし、仮によ?」


「はい?」


 彼の為ではない。私が私のポリシーを護る為であって友好的に接するつもりは無い。

 仮に彼が興味を持ったのが魔法ではなく天文学であった場合私は放っておいた。

 彼の為ではない。


「……貴方が"どうしても"って言うなら、私が魔法を教えてあげても良いけど」


「え? ……いいえ」


「なっ……!? こ、断るの!? この流れで!?」


 想定外の言葉に振り返ると彼は申し訳なさそうに俯いた。


「さっきの会話からして用事があってこの近辺に来てるのかなって思って。時間を割いてもらうのは申し訳ないですから。今回は諦めようと──」


「いや遠慮する基準がおかしいでしょ。私が良いって言っているんだから良いの」


 魚型の下半身を引きずって近付くと彼は距離を保つように後ずさった。


「それに、ここで私が知らんぷりしたらさっきの"魔法は人を選ばない"ってカッコつけた言葉を自分で否定する事になるから」


 少年が目を見開いてこちらを見る。初めて感情が見えた気がした。


「魔法とは自由そのものよ、諦めるなんて悲しい事言わないで。いい? 明日の昼また来なさい。まずは簡単な物を教えてあげるから」


「……分かりました」


 目を真っ直ぐに見据えて訴えた言葉は、先ほどまでとは違って少年にしっかりと届いたようだった。


「じゃあ、今日はもう帰って寝なさい。私から魔法を教わる時は万全の体調で来る事。約束ね」


「はい」


 ゆっくりと立ち上がった少年は名残惜しそうに帰って行った。

 まるで何かを残したかのようなその足取りに思わず周囲を確認しながら、私はその背を見送った。


「ふう」


 波の音が響く。彼が居なくなった後の海岸は静かだった。

 落ち着いた事だし改めて夜空を見ようと地を這い海へと入る。そうやって見上げた夜空はやはり美しかった。


「……」


 まさかこれが運命の出会いな訳が無いよな、と月に問うても答えは返ってこない。

 比較的穏やかな海、良く見える星と月。いつか読んだ物語に似たような舞台で恋が始まる物があったが──


「……違うなあ」


 相手は年下、それも未成年の男の子だ。恋など始まる訳が無い。私の中で人魚が恋する相手は王子か騎士だと相場が決まっている。

 水面から離れて深く海に潜り、ゆらゆらと波に揺れる海草を捕まえて腕に抱く。このままもうひと眠りしてしまおうかと試しに瞳を閉じると、再び起き上がろうという気はすっかり失せてしまった。




──────────


 次に目が覚めたのは朝だった。

 残念な事に朝日が黄金に輝く時間は逃してしまっていたが、淡い色の青空に迎えられる目覚めは悪くなかった。

 今日は二日目、試練が終わるまで今日を合わせて五日だ。

 日にちの確認をしつつ、少年はもう来ているだろうかと水面に顔を出すと、砂浜に新しい物だと思われる足跡を見つけた。そして昨晩彼が隠れていた岩の陰からまた髪の毛が見えている事に気が付いた。


「……ごめん、待たせてしまったかしら」


 目を擦りながら砂浜へと上がる。すると昨日と同じように岩の陰から恐る恐る少年が姿を現した。


「お、おはようございます……」


 姿を現したと言っても、頭の一部と右目の辺りまでしか見えていない。明るい所で顔を見られるのは恥ずかしいという事だろうか。


「何を今さらそんな隠れてるのよ。昨日散々話したじゃない」


「いえ、あの……」


 何かを説明しようとした彼は急に言葉を止めて俯いてしまった。表情すらも変えずに起こったその変化は正に思考停止と言う他無かった。


「まさか時間差で私の事が怖くなったとか?」


「そういう訳ではなくて……」


 一体何だと思いながら人間化の魔法を自分に適用する。久しぶりの脚に若干ふらつきながらも少年へ歩み寄ると、彼は困ったような笑顔を浮かべながら私に顔を向けた。


「──!」


 最初に目に飛び込んだのは頬の大きな痣だった。

 昨日帰すのが遅れたせいでこんな事になったのかと思ったが、よく見るとそんなに新しい痣ではなかった。

 その他にも首や肩や腕など身体のあらゆる所にある打撲や切り傷の跡が次々と目に飛び込んでくる。

 昨晩負ったような新しい傷は無いにしても、彼の身体からは"常日頃から暴力を受けている"という情報が見えてしまった。


「…………」


 昨日は無かった、と言うより暗くて見えていなかったのだろうか。いずれにしても、子供がこんな状態にある事を見逃してしまった後悔は大きい。


「あの、貴女のせいじゃありません。本当に。昨日は何もされてませんから」


「……ええ、分かったわ」


 一瞬にして思考が走る。私の対応は全て間違いだったのではないか。そんな不安が昨晩の記憶に冷風を送る。

 凍り付くようなコンマ一秒の時間を経て、彼は気丈な笑顔を浮かべながら砂浜に腰を下ろした。


「魔法を教えてくれるんですよね! ボク、楽しみにしていたんです。早速教えてください!」


「……うん」


 どうしたものか。

 放っておける問題ではないが、無暗に首を突っ込める問題でもない。

 今の所私へとSOSを発しているような様子は見えない、しかし助けを求められるのを待っていては取り返しがつかなくなってしまうだろう。

 『それ程の事が起こっているのだ』と、彼の身体に刻まれた証拠がそう語っている。


「……」


 だが慎重になるべき問題でもある。長くても七日しかここに滞在しない余所者の私では安易に触ると事態を悪化させかねない。

 彼が誰かに助けを求めたと解釈されると、彼に暴力を振るっている者の怒りはより理不尽に、そして激しくなってゆくだろう。


「決めた。今日教える魔法は身を守る魔法よ」


「……」


 気にさせてしまったかと思っていそうな眼差しで少年が肩の痣を撫でる。


「気にしない訳が無いでしょう。ポッと出の私にどうにかできる問題じゃないけど、それでもこの魔法はきっと貴方の為になるわ」


「……分かりました。お願いします」


 少年の目の前に手を差し出し、魔法陣を展開する。

 それを見つめる彼の瞳にはまだ輝きが残っていた。


「空白の魔法陣に単語を当てはめて魔法を作り上げる。これが基本よ」


「は、はい」


「まずは魔法陣の出し方から覚えましょう。手を出して」


「はい」


 言われた通りに少年が手を出す。それを握って彼の中に私の魔力を送りこんだ。

 彼の中に眠る魔力と私の魔力を繋ぎ、引っ張るように手の先まで導いてゆく。


「頭から首へ、そして肩を経て手の先まで…… 魔力が流れるこの感覚、分かるかしら」


「なんとなく……」


「よし。そのまま手に意識を集中させて」


 体内にある魔力を認識させるにはこの方法が一番だ。認識さえ出来ればそれを操る事は容易い。

 

「なんか手がゾワゾワします。これが魔力ですか?」


「そうよ。その状態で空白の魔法陣をイメージして。さっき見せたコレよ」


 繋いだ手を放して先程展開した魔法陣を見せる。すると少年の手の上にゆっくりと魔法陣が浮かび上がった。


「で、できた…… こんな簡単にできるんですね……」


「基礎中の基礎だからね。簡単である反面、この感覚を忘れたら何も出来なくなるわ」


「なるほど…… 肝に銘じておきます」


「よろしい。じゃあ次は単語を詰める工程ね。読み書きは出来る?」


「はい」


「なら話は早いわ。見てて」


 魔法陣に三つ単語を入れる。今回教えるのは身を守る簡単な魔法だから"保護"、"対象・術者"、"安定化"のみだ。

 完成した魔法陣を少年の目の前に差し出すと彼は浮かんだ文字の意味を読み取るようにジッと目を凝らした。


「このように魔法陣の中で単語を組み合わせる事によって魔法は完成するの。さっきと同じ要領で単語をイメージして、私と同じ魔法陣を作ってみて」


「分かりました。ええと、保護、対象・術者、安定化……」


 次々と単語を浮かべてゆく。そして完成した魔法陣を見つめた少年は小さな達成感による喜びをその表情に浮かべた。


「初めてにしては手際が良いじゃない。これで完成よ」


「おお、ありがとうございます。どうやって使うんですか?」


「自分の身体に付与するの。押し付けるだけで良いわ」


 お手本を見せるように腕に魔法陣を当てて効果を付与すると、少年も同じように魔法陣を自らの腕に押し付けた。


「慣れれば最初から単語が刻まれた状態の魔法陣も出せるようになるけど、先ずは工程一つ一つを丁寧にやって感覚を覚えると良いわ」


「分かりました」


 頷いた少年が再び空白の魔法陣を展開する。

 何かに迷うような表情でその中を見つめ、そして私の方を向いた。


「これって、単語を変えれば別の魔法になるって事ですよね?」


「そうよ」


「……何か課題を出してくれませんか。自分で考えてみたいです」


「随分と意欲的ね。じゃあ…… そうねぇ、手を触れずに物を持ち上げたり動かしたりする魔法なんてどうかしら」


「ちょっと考えてみます」


 この場合最低限必要となる単語は"安定化"を除き"保持"や"把握"などの物を持つ事に関する言葉に加えて"遠隔"と"追従・術者"および"対象・都度指定"の言葉が必要になる。この程度の単語量だと動作は極めて単純かつ不自由な物になるが、この魔法陣を手に付与すればそれなりに便利な魔法になる。


「……"物を握る"、とか?」


「それはやめておいた方が良いわよ」


「駄目なんですか?」


 忠告を聞いた少年がぽかんとした顔でこちらを見る。


「ええ。直接的な言葉は力が強くなりすぎるの」


「直接的……」


「動詞や固有名詞、それと"対象と手段が繋がった言葉"も危険だと思っておいて。物を動かすという目的に対して"物を握る"という言葉は対象と手段が繋がっている上に動詞も入っているでしょう?」


 砂をノート代わりに要点を纏めると少年は真面目な表情でそれに目を向けた。

 魔法とは"実現する力"だ。魔法陣に乗せられた言葉を忠実に実行する性質を持っているが故に、具体的な言葉を用いて分かりやすい指示を描くと大抵は"やりすぎ"になる。『単語のみで構成された"多少足りていない魔法陣"を作った方が術者によって制御できる余地が残っているため安全』というのが現代における魔法学の考え方である。あくまでも海底王国内での話だが。


「なるほど、じゃあ保持と…… "物"を入れれば良いのかな?」


「この場合は"対象・都度指定"がオススメよ」


「そんな言葉も使えるのか…… これで物を持つことが出来るようになったという事ですよね?」


「ええ。後は手を触れずに動かす為の単語が必要ね」


 少年が顎に手を当てて考え込む。その様子を見ているとなんだかんだで成長が楽しみになってしまう。

 マヨに魔法を教えていた頃を思い出す。彼女も今となっては立派に魔法を扱えているが、最初はこの少年のように丁寧に慎重に考えて魔法を組み立てていた。


「手を触れないなら"遠隔"なんてどうです?」


「うん、正解よ」


「よし! んで、次は…… "移動"とか?」


「その場合は移動という単語に加えて方向を指定すれば成立するわね。"移動・横"とか」


「"移動・任意"は?」


「素晴らしい」


 感覚を掴んだ少年がすらすらと魔法陣を組み立ててゆく。

 思いがけず新たな弟子が出来た事に微かな楽しさを感じながら彼を見守っていると、あっという間に時間が過ぎた。

 二つ目の魔法が完成した後は出来上がった魔法の実演に夢中になり、そのまま昼頃まで物を動かしてみたり身を守る魔法の効果の確認を行ったりしていた。

 そして気が付いた頃には昼過ぎになっており、『とある用事がある』と言い残した少年は村へと帰って行った。

 正直な所あんな怪我を負わせた者の居る所に送り帰すのは不安でしかなかったが、私が教えた魔法を信じて祈る事しか出来なかった。

 どうしても気になってしまうが、行動を起こすにしても今はその時ではない。

 今この場でできる事は"何をどうすれば解決に向かうか"を考える事だけだ。


「……うーんん」


 モヤモヤと考えながら海へ潜り、私は夜になるまで雑念と共に魔法の研究をした。




──────────


 朝日が目を刺す。いつの間にか眠っていたようだ。

 まだ少し眠いが、『私が眠っている間に彼が助けを求めに来たりしていないだろうか』という考えが頭に過り身を起こした。

 低血圧の身体にバクバクと悪い緊張を打ち付ける胸を落ち着かせながら海面に顔を出すと、彼はまだ来ていなかった。新たな足跡も増えていない。太陽の位置的に昨日少年が来た時間は過ぎている筈なのだが。


「……いや違うな」


 むしろ昨日がおかしかった。私が指定したのは昼頃だ。

 今更ながら言われた通りにしているだけであると思い直して水中の岩場に腰を掛けた。

 今日は三日目、試練が終わるまで今日を合わせてあと四日だ。

 眠気の残る頭を切り替えるように日にちを確認していると、思考がすり替わるかのように少年に関する考え事が湧いて出た。

 そもそも、あの怪我はどのような理由を以て負わされた物なのだろう。彼自身が語った『村の人間は他種族に対して排他的』という言葉や『人間が怖くないのか』という言葉から考えると彼がリトアではない種族であるように考えられるが、さすがにそれは曲解だろう。

 私自身の理解が浅いだけかもしれないが、彼の姿はリトアと異なっている様には見えない。


「……ん」


 別の理由は何か無いかと思考を巡らせていると、砂を踏む足音が聞こえてきた。

 音の主に気付かれないように恐る恐る顔を出して確認をすると、そこには頬に新たな痣を作った少年が立っていた。


「──っ!」


「うわ! あ、人魚さん」


 思わず砂浜へ飛び出してしまった。ザバンと水の音を鳴らしながら現れた私に一瞬驚いた彼は変わらない笑顔を私へと向けた。後ろ手に何かを隠しているが、今はそれよりも彼の怪我が心配だ。

 魔法で下半身を人間の脚に変えて彼の頬へ触れる。青い色からしてそれなりの時間が経っている。昨日帰ってすぐに負った怪我だろう。口の端にある傷も既に乾いて出血が止まっている。


「こんな…… 怪我をして……」


 撫でる度に少しだけ痛そうに瞼を動かす。治療ができれば良いのだが、怪我や病を治療する魔法はまだ開発出来ていない。


「どうして……っ」


 自分の不甲斐無さに涙が出そうになる。大人として、目の前の少年を救えないのはいかがなものか。

 今すぐにでも村へ押し入ってしまいたい気持ちになるが、そんな一時のカタルシスを求めた行動によってもたらされる未来は悲惨な物にしかならない。あくまでも慎重に、根本的な解決が必要だ。


「どうして貴方がこんな仕打ちを受けなければならないの?」


「……」


 この少年に原因が分かるのなら、解決の糸口にはなる筈だ。

 そう縋るように少年の目を見つめると、彼は俯いてくたびれた笑顔を浮かべた。


「クアラって種族を知っていますか?」


「……南東の大陸に居る不老長寿の種族、だったわよね」


「はい。ボクはクアラとリトアの混血なんです」


 話に聞いた事がある程度の知識だが、クアラは血液に独自の共生微生物を持っている。その微生物の働きによって"免疫を獲得する能力に優れている"という体質を持つが、そのせいで実験体として扱われてきた歴史がある。毒を飲まされ、汚泥を傷に塗られ、そして血を抜かれてきた。

 クアラが"人種"として認められるようになってからはそのような扱いは禁じられるようになったが、それでもかつて人として扱われていなかった背景があるだけに、文化圏によっては未だ迫害を受ける事も多々ある。


「………………ごめんなさい」


「えっ。な、なんで謝るんですか!?」


 私一人でどうにかできる問題なのだろうか。

 この子の親に掛け合ってみるか。しかし親もろとも迫害の対象であるならば解決には繋がらない。

 それなら村の長に掛け合ってみるか。しかし村全体が異種族に対して排他的であるならば味方として機能しないかもしれない。そもそも村長がそのような思想を持っているのかもしれない。


「貴女から教わった魔法のおかげで最低限の怪我で済んだんですよ!」


「え……?」


「ボクは痛くもないし怪我もしてない。でもやってる側は手ごたえがあったみたいで、皆すぐに居なくなったんです。ほっぺの痣は油断しただけ!」


 後ろ手に隠した物をこちらに差し出した少年が笑顔を浮かべる。

 その手に握られていたのは二つの小ぶりな果物であった。名前は知らないが、実が固く皮が黄色い物だった。


「これはそのお礼です。陸にある物って食べたことあります?」


 一つを受け取ると少年は期待の眼差しを向けてきた。きっと喜ばせようとしてくれているのだろう。


「……あるけど、多分これは初めてね。見た事の無い物だわ」


 有無を言わさず自分のペースに引っ張り込んだ少年が岩に腰を掛けた。私もその隣に座ると彼は皮ごと果実にかぶりついた。口の端に傷があるせいか、その一口は普段の私よりも小さかった。


「これはリンゴって言うらしいです。甘くておいしいですよ!」


「へ?」


 飲み込んだ彼が笑う。

 リンゴならば食べた事がある。皮が赤く、果汁が豊富で酸味と甘味が美味しい果物だ。


「……ありがとうね、いただきます」


 続いて私もその果物を一口齧った。

 率直に言って、全然甘くなかった。酸味が強く、ほんのりと渋い。辛うじて後味はほんのりと甘く感じたが、これがリンゴではない事はこの瞬間に分かってしまった。

 恐らくは、騙されて別の物を買わされたのだろう。


「おいしいですか?」


「ええ、とても」


「ふふ。じつはボクも今日初めて食べるんです。奮発しちゃいました」


 喉を通らない。味のせいではない。今にも泣いてしまいそうだったからだ。

 喉を裂いてでも完食する勢いで全てを飲み込むと、彼は嬉しそうに自分の分の果物を平らげた。


「貴方、名前は何て言うの?」


「フリットです、フリット・クランツ」


「そう。 ……親御さんは、その怪我についてなんて言っているの?」


 先ずは家族から。そう思って投げかけた質問に対して彼は表情を変えずに答えた。


「親は居ません。行商人だったんですけど、この辺に来た時に事故で亡くなってしまいました。ボクだけ無事だったからそこの村の人が拾ってくれたんです」


「……保護者は?」


「いません」


「……そう。貴方は普段どこで生活しているの?」


 限界を迎えそうな情緒を押さえつけて会話を続ける。表情には出ていないと思いたい。


「村の人達に貰った小屋があって、そこで寝てます。近くに川もあるから水浴びも洗濯も出来ています。心配する必要はありませんよ」


 表情に出ていたようだ。気を利かせた一言を加えた彼は笑いながらも俯いた。


「……過去に普通の生活をしていた記憶がありますし、今が異常である事は分かっています。でもボクは今生きることが出来ている。だから大丈夫です」


「……」


 膝に肘をついて指先を合わせながら語る。彼なりに考えている事を象徴するようなその仕草の中には、ありのままの悲しみがあるように見えた。


「……ごめんなさい、こんな楽しくない話をしてしまって」


「いえ、とんでもない。ボクはどんな会話でも楽しいです」


 このままではいけない。幼いとまではいかないが、親も保護者も居ない子供が迫害を受けながら生きているこの状況を見過ごす訳にはいかない。

 正直、あの村にいる人間を正して彼が無事に過ごせるような環境を作り上げるのは不可能に近い。

 それでも一つだけ、無理のある方法ではあるが思い付いた事がある。


「フリット君は今住んでいる村に思い入れはある?」


「……いいえ」


「なら私と一緒に来ない?」


「えっ?」


 無計画ではあるが、すぐに彼を助ける方法はこれしか無い。

 人間化の際に人魚にかける魔法を改良すれば呼吸に関しては問題は無い。食べ物もエビや小型のイカであれば人間でも抵抗なく口にできるだろう。


「私、海底にある魚達の国に住んでいるの。そこに住んでみない? きっと仲間たちも歓迎してくれるわ」


「す、少し考えさせてください」


 眉をひそめてこめかみに手を当てる。やはり葛藤を抱えているのだろう。


「分かった。でも遅くても四日後には私はここから居なくなってしまうから、行きたいと思ったらそれまでに伝えてほしいわ」


「……分かりました」


 フリットが頷き、静寂に包まれる。

 彼は今日も魔法を教わるつもりで来たのだろう。そんな所へこんな話題を出した事に申し訳無さを感じながら、とりあえず私は彼へと尋ねた。


「……じゃあ、今日も魔法の勉強してみる?」


 押しては寄せるさざ波の音が間を埋めるように鳴り響く。


「今日はちょっと、考える時間が欲しいです」


「そう。 ……そうよね」


 背を丸めて自らの影の中へと頭を下げた彼はそのまま悩むように暫く黙っていた。

 思えば、彼は今迫害されてはいても"一応は"同じ人間のコミュニティに属している。しかし私の誘いに乗るとなった場合はこれまでとは打って変わって魚と人魚のコミュニティに属する事になる。彼からすれば私達は身体の形も文化も価値観も全てが異なる正真正銘の異種族だ。陸への憧れがあった私とは違い、彼がそのような変化を受け入れられるかは分からない。

 絶対的な安寧が保障されている訳でもなく、他人との関わりにおいて疎外感を感じてしまう事だってあるかもしれない。冷静になってようやくその事に考えが至った。

 今の彼にだって失う物はある筈だ。現状からの解放の代償としてそれらを突き付けられては苦しんでしまうのも無理は無い。


「……軽率だったわね、ごめんなさい」


 『理性的解決を』と頭で考えていながら感情は全く制御できていなかった。

 そのことを反省しながら頭を下げると、すれ違うように彼が頭を上げて背筋を伸ばした。


「確かにいきなりすぎて驚きました。でも正直言って嫌ではないんです」


「そう言ってもらえると嬉しいわ」


「ボクとしても、今のこの状況から解放されるのならそれ以上に喜ばしい事はありません」


 すらすらと語る彼の瞳を見ると言い淀むように口を結んだ。そして私の顔から目を背けるように視線を運び、続きを話し始めた。


「……ただ、ボクには夢があるんです」


「夢?」


「はい。この世界を旅してみたいんです。異なる文化や歴史に触れて、友達も作って、気に入った土地に居付いて家族を作ったりして…… 幸せな気持ちで一生を終えたいんです」


 私の夢に似ている。それもあって彼の言葉には深く共感できた。

 それに、夢を語る彼の瞳には年相応の輝きが見えた。曖昧でありきたりな表現だが、私の眼には確かにそう映った。


「良いじゃない。良いと思う。それで良いの。永住しなければならない訳ではないのだから、きっとその夢も叶えられるわ」


「そうなんですか?」


「ええ。旅に出る準備ができたら陸に戻るという事でも全然大丈夫。要は現状から抜け出すための第一歩ね」


 自分でもよくうまい言葉が出てくるなと少し呆れた。

 本心としてはただ彼を無理やりにでもこの凄惨な状況から引き離したいだけなのに。


「第一歩ですか……」


「あの村じゃ旅立ちの準備も自由に出来ないでしょう?」


「それはたしかにそうですね」


 頷いたフリットが自らの手を見た。ガサガサに荒れ果てたその肌は彼が過酷な労働に取り組んでいる事を物語っていた。


「それに、そんな傷だらけじゃ何処へ行っても…… なんというか、変な目を向けられるかもしれないわ。その治療も兼ねて暫く海底で過ごしてみるのも選択の一つだと思うの」


 改めて顔の傷に目を向ける。兎にも角にも隠せない傷は治さなければならない。

 "そのような扱いを受けていた"という印象を持たれたら新たな地でも連鎖的に第二第三の苦しみに見舞われる可能性だってゼロではない。


「一時的に滞在する、みたいな?」


「そうね。旅に出るための準備に使っても良いし、気に入ってくれればそのまま永住しても良い。全て貴方の自由意思に任せるつもりよ。どう?」


「そうですね…… じゃあ、試しに一度行ってみようかな」


 少しの期待を表情に浮かべて頷く。その顔を見ると少しだけ安心してしまった。

 しかしながら、これは現状からの解放であって彼の苦しみからの解放ではない。今後も責任ある行動を取らねばならない。


「じゃあ、私が帰る時に貴方も一緒に来るという形で良いかしら」


「はい」


「あまり長くは待たせないと思うけど、もう少しだけ待っててね」


「はい!」


 深く頷いた彼は笑顔で立ち上がった。


「そうと決まったら準備をしなきゃですね。今の家を出る前に掃除くらいはしておかないと」


「そうね、一応礼儀としてね」


「今日の所はこれで帰ります。ありがとうございました!」


「ええ、気を付けてね」


 駆け足で去って行った少年を見送り、姿が見えなくなってから私は海へ潜った。

 自分の事ながら、勢いであんな提案をしてしまった事に少し驚いてしまった。

 フリットは笑顔を見せてくれていたが、内心では警戒していただろう。そう思うと今更恥ずかしいような呆れるような気持ちになってしまった。これからの行動で誠意を示せば彼は安心できるだろうか。


「はあ……」


 モヤモヤと浮かぶ考え事に頭を悩ませながら、気持ちを切り替える意味も込めて魔法の研究を始める事にした。

 あれから色々と試した結果、ペンダントに付与する魔法陣の単語が足りていないのではないかという考えが浮かんだ。

 今魔法陣に刻んである事を要約すると"何かを書き込め"という指示と"何を書きこむのか"の指定のみ。この場合で言うと私の記憶を書き込む魔法になるのだが、そこへ更に"いつからいつまでの記憶なのか"を指定する言葉が必要なのではないかと閃いた。

 そんな訳で、とりあえず試しに二日前の"仮眠を終えて夜に目覚めてからの二分間"を参照するように組んでみた。


「これでダメだったらお手上げね……」


 ため息交じりに"書き込んだ物を観る魔法陣"を展開し、発動させる。すると酷い眩暈の後に見覚えのある情景が目の前に広がった。

 綺麗な月と星、それと穏やかな海。紛れもなく一昨日に見た光景だ。何度見ても綺麗なその光景に見惚れていると、不意にその景色が消えて"今"に戻って来た。指定した通り二分間だけ記憶を見ることが出来たようだ。

 限界は何日前なのか、続けてどれくらいの長さの記憶を見ていられるのか等更なる疑問が浮かんだが、この段階をとりあえずの区切りとして別の魔法の研究を始める事にした。




──────────


 眠らずに朝を迎えた。

 結局、一晩程度では私の望む魔法は生まれなかった。

 『これで今回は最後にしよう』と朝日を見ながら空白の魔法陣を浮かべても、もはやアイデアは浮かばなかった。

 昨晩、気分転換も兼ねて作り始めた魔法は怪我の治療に関する物だ。

 その為に必要となる単語として思い浮かぶのはせいぜい"再生"や"治療"のみ。しかしそれらはたった一語のみであるにも関わらず"目的に対する直接的な言葉"であり、それらを詰めた魔法陣は軒並み制御の利かない危険な魔法となってしまった。

 それではもう少し制御の利く単語にすればいいと思ったのだが、フリットの主な症状である打撲に合わせる事を考えると"冷却"や"圧迫"くらいしか治療に使えそうな物は無い。それならばわざわざ魔法を使ってまでやる意味が無い。上質な道具を使った方が適切な処置を出来るだろう。


「内出血、皮下組織。うーん」


 どのような原理であのような痣が出来るのかは分かっている。何がどうなって痣が消えるのかも分かっている。だが魔法によって治療するとなるとなかなか思い通りには出来ない。


「今日は四日目…… 残りは今日を合わせて…… 三日だったかしら」


 徹夜の脳ではすんなりと考えが纏まらない。こんな状態で魔法の研究をしていたのかと自らに驚いてしまった。


「──様、ドルテ様」


 肺呼吸でもして気持ちを入れ替えようかと砂浜へ上がると、波の音に紛れて微かな声が聞こえて来た。

 空耳かと周囲を見渡す。すると海の中に特徴的な魚の姿を見つけた。彼はイシダイのコモだ。囚人のような見た目だが、王宮から魔女への連絡係として頻繁に顔を合わせる重役である。


「コモじゃない。こんな所まで来てどうしたの?」


「マヨ様のお母様が今後について話したいと。その日程についてご相談をさせて頂きたく参じました」


「……」


 踵を返して波打ち際でしゃがみ込む。マヨの母親は前々から魔女の修業について色々と相談を持ち掛けて来ていた。

 内容は大抵学業に割く時間を増やしてほしいとかそういった事だ。主張そのものについては私も賛成ではある。勉強も大事だ。だが最近は少々やりすぎな気もする。

 元はマヨ本人の自由な時間を使って私が魔法を教えていたのだが、これまでの相談によってその時間も徐々に学習に充てられるようになってしまった。


「海底の時間じゃ数時間くらいで戻るってのに」


「早急な対応を求む、との事です」


「はあ…… じゃあ戻ったらすぐに対応するって伝えておいて」


 親心は分からなくもない。しかし子供の心も尊重してこそだと思う。

 マヨはしっかりやっている。今更縛り付けるような教育方針にする必要は無いだろう。その事を今度こそ理解させなければならない。

 どのように会話を運んで行けば説得できるだろうかと思考を巡らせていると、背後から砂を踏む音が聞こえた。


「お、おはようございます」


 顔だけそちらに向けるとフリットの姿が目に入った。今日は新たな傷は増えていない。

 少し安心したが、まだまだ油断はできない。


「おはよう、フリット君」


「おや? 人間のお知り合いが出来たのですね」 


「ええ」


 コモが水の中からフリットの顔を見つめる。

 対するフリットもコモの事を物珍しそうに眺めていた。


「彼、痣だらけですね」


「色々と事情があるの。彼を一度海底王国にご招待しようと思っているのだけど大丈夫かしら」


「貴方のお知り合いという事でしたら大した問題は無いのでは」


「随分とすんなり決めるのね。本当に大丈夫かしら」


 海底王国に人間が来たという前例は無い。これといって立ち入らせてはいけないという決まりがある訳ではないが、少し慎重になる必要はあるだろう。


「では私が彼の人柄を見て判断いたしましょう。どのような人間か分かっていれば王宮への報告もより詳細に行えますので」


「そうしてもらえると助かるわ。お願い」


「……あの、もしかして今魚の方と話されていたんですか?」


 会話の切れ目を探るようにフリットが尋ねる。そのまま私の隣に屈んだ彼はコモを観察するようにじっと見つめた。


「そうよ」


「この方が人の言葉を話せる、という訳では無さそうですね」


「いえ、彼は私達と同じ言語を使っているわ。貴方に魚の声が聞こえていないだけ」


「あ、そうなんですか?」


 興味深そうにコモを見つめる。対するコモも品定めをするようにフリットの表情の変化を凝視していた。


「彼、コモって言うの。貴方と話したがっているわ」


「どうすればいいんですか?」


「今できるようにするわ。こっちに寄って」


「は、はい」


 こちらに寄ったフリットの頭を掴み、魔法を教えた時のように魔力を引き寄せる。

 今回魔力を流す場所は脳全体だ。魔法陣を用いて聞こえるようにすることも出来るが、そうするよりも自らの魔力を用いて体質に干渉する術を修得した方が後々楽だ。


「今回魔力が流れ込んでいる場所、わかる?」


「は、はい。頭がボヤっとします」


「この感覚を覚えて。自分だけで制御できるようにやってみて」


 フリットが目を瞑る。集中状態に入った事を確認して頭から手を放すと、彼はこめかみに手を当てて眉をひそめた。


「お、お、今、たぶん出来てます。喋ってみて下さい」


「では…… 初めまして、フリット殿。私は海底王国の連絡係、コモと申します。聞こえていますか」


「──! 聞こえます! 初めまして!」


 フリットが目を開いて砂浜に正座する。やはり彼は魔法に関する良い才能を持っているようだ。

 他の人間がどの程度の時間を掛ければこの技能を習得できるのかは知らないが、魔力の制御に関しては間違いなく呑み込みが良いと言える。


「フリット殿は、海底王国に来て何をするつもりなのです?」


「ええと、なんだろう」


 質問を受けたフリットは数度瞬きをして悩むように首を傾げた。


「私が誘ったの。色々と思う事があって」


「ほう、そうでしたか。定住するつもりで?」


「いえ、それは…… まだ考えている段階です」


「……」


 フリットの返答に何故か少しモヤっとしてしまった。

 もし『やっぱり元の場所に帰る』なんて言われたらどうしよう。魔女としての役目がある以上、私は同行する訳にもいかない。彼を迫害する村へと帰ってゆく背中を見送る事しか出来ないのだ。

 次に陸へ出られるのはいつになるのだろう。もしかするとその時にはもう彼は力尽きているかもしれない。


「今回はとりあえず王国を見て回るという事ですね?」


「はい。王国での暮らしや過ごしている皆様の事を知れたらと思っています」


「なるほど。いやはや、そうすると初めての観光客という事になりますね。出来る限りおもてなしの準備をしておかなければ」


「お、おもてなし!? いやそんな、お構いなく!」


 慌てて両腕を振る仕草を見たコモが笑い声を漏らす。

 たった三つの質問でフリットの素直さを見抜いたコモはヒレを正して頭を下げた。


「いえいえ、大事なお客人ですからしっかりおもてなしさせて頂きます。お待ちしておりますよ。では私はこれで」


「は、はい。緊張するなあ」


 コモが海底王国の方角へと泳いでゆく。見送るように遠くの水平線を眺めたフリットは膝の砂を払って立ち上がった。


「あまりプレッシャーに感じる必要はないわ。皆温厚で新しい物が好きな性格だから歓迎してもらえると思うわよ」


「そっか……」


「緊張ばかりでなく楽しみにしてもらえるなら私としても嬉しいのだけどね」


「はは…… じゃあ、楽しみにします」


 照れた笑みに微笑みを返すと彼はさらに嬉しそうに笑った。


「ところで、今日は何の用で来たのかしら?」


「これと言って用は無いんですけど、ちょっと時間が出来たので」


「そう。お部屋の片付けは済んだ?」


「はい。シーツくらいしか無いので」


「……そう」


 親の遺物も無いのかと思うと、改めてよくない想像がモヤモヤと広がった。

 彼が自由になって旅に出たら故郷に帰ったりもするのだろうか。故郷であればもしかしたら何かが残っている可能性がある。


「荷物が少ないのは旅立ちには好都合、かしらね」 


 もし、彼が帰郷を望むのなら力になりたい。

 クアラ一人で旅をするとなると再び今のような目に合う可能性だってゼロではない。私じゃなくても誰かの助けが必要になるだろう。


「おおーい! フリットーっ!!」


「──!」


 風景に似合わない乱暴な男の声が響く。するとフリットは慌てた様子でこちらに視線を向けた。


「村の人だ。海に隠れて!」


「え? でも」


「"でも"じゃない。貴女に何かされるのは嫌だ。早く!」


「……ごめん」


 指示された通り海へと隠れた。

 この場でフリットに危害を加える男を魔法でどうにかする事も可能ではあるが、そうするとフリットが犯人に仕立て上げられる可能性がある。命の危険が無い限りは様子見をする事しかできない。

 せめて身を守れるようにと防御の魔法陣を彼に付与すると、少し遅れてほっそりとした男が海岸に姿を現した。


「ここにいたか、ふう。探したぞ」


「すみません。なんのご用件で?」


「いや、いきなり部屋が奇麗になってたんで少し気になってな」


 会話を聞いている限りでは今のところ普通だと思った次の瞬間、男がフリットの肩を掴んだ。


「まさか出て行くつもりじゃねえだろうな?」


「……」


「お前を拾って育ててやった恩、まだ返しきれてないだろ?」


 どの口が言うのか。確かに拾われなかったら事故を起こした時に力尽きていたかもしれないが、その後何が起こっていたのかは彼の傷を見れば一目瞭然だ。


「ほら、分かったらさっさと戻ってこい。出て行きてえなら遊んでねえで働け」


「……はい」


「行くぞ」


 そのままフリットは連れていかれ、その日は戻ってこなかった。




──────────


 五日目、残り日数は今日を合わせて二日。明日の夕方までにミプルが帰ってこなければ人間化の儀式は強制終了となる。そうなると私は陸へ彼を迎えに行かなければならない。

 終了まで三日もかからない簡単な試験だと思っていたのだが、思いのほか時間がかかっているようだ。まさか村でフリットと同じような目に遭わされていないだろうか。

 今すぐ確認しに行きたい気持ちはあるが、単に時間がかかっているだけだという可能性もある。今ここから離れたら入れ違いになってしまうかもしれない。

 フリットに会ったらミプルについて聞いてみようと思い待っていたが、もう夕方だというのにいつまで経ってもフリットが来ない。

 もしかしたら初めて会った時のように夜に来るかもしれないと淡い期待を抱きながら、私は気を紛らわすために魔法の研究を始めた。

 しかし、なかなか集中できない。いつまで経っても研究が進まず、そしてフリットも来ず。そのように動きの無い時間を過ごしているうちにいつの間にやら夜を過ぎて明け方になってしまった。

 六日目、今日が最終日だ。

 結局睡眠すらも取れずに昼になってしまった。フリットはまだ来ない。昨日連れていかれた後に何かをされたのだろうか。今日は海底王国へ案内する約束の日でもあるのだが、一体彼の身に何が起きているのだろう。

 誰も居ない海岸へと上がり、手ごろな岩に腰を掛ける。

 本来であればフリットとは出会わずこのように過ごすつもりだったのだが、何故か寂しさと虚しさを感じた。このまま何も起こらずに夕方を迎えてしまいそうな気がした。


 『肩で息をした彼が現れるのではないか』、そう思いながら物音一つ一つに期待を向ける事数時間。結局本当に何も起こらずに夕方になってしまった。

 二つの約束の時間だ。どのみちミプルを迎えに村へ行けばフリットとも会えるかもしれない。

 そう思いながら海岸から街道へ出て村へと歩き始めた。

 風と草の音が耳へ抜ける。今まで数度だけ聞いた事のある、憧れの世界を象徴する音だ。

 ここ最近で陸の人間の嫌な所を知ってしまったが、それでも陸への憧れは尽きない。どれもこれも、ただの一例だ。もっと広い世界へと足を踏み入れれば、きっと夢に見たような出会いで溢れた世界が広がっているはずだ。

 まるで自分に言い聞かせるようにそんな妄想をしながら村の正門へたどり着いた。

 門番がにこやかな表情で門を開ける。そのまま村へと踏み入り、周囲を見渡す。少し様子がおかしい。何となくではあるが、人々がそわそわしているように見えた。

 何かの催し事でも控えているのかと思ったが、それにしては表情が険しい気もする。


「……よし」


 声をかけるのは少し怖いが慣れない場所で自分の力のみで人探しをするのは無謀だ。


「あの、お時間よろしいでしょうか。人を探しているのですが」


 勇気を出して近くの男性に声をかけたが、彼は言葉を返さなかった。フリットが語った排他的というのはこういう事なのだろう。にしても少しやりすぎな気がする


「あの、お時間いただけませんか」


 気を取り直して他の者にも声をかける。が、やはり彼らも最初の人と同様に私を無視した。

 この村では仕方のない事なのかと気を取り直し改めて周囲を確認すると。こちらへ近寄ってくる数人の集団が目に入った。


「……ん?」


 一瞬見間違いかと思った。

 その集団の後方に居る子供の姿には見覚えがある。というか今まさに私が探しているミプルであるように見える。

 低めの背丈も、特徴的な橙色の頭髪も、やはり私の記憶にある彼の姿に相違ない。


「あの、すみませ──」


 集団の先頭にいる男に声をかけようと歩み寄ると、唐突にミプルらしき少年が私を指さした。


「か、彼女です! 間違いありませんっ!」


「へ?」


 どういう事かと困惑したその瞬間、後頭部に鈍い痛みが走った。




──────────


 意識が戻った時、何が起こったのかを瞬時に理解した。

 恐らく私は背後から襲われて気を失い、その隙に動けないように拘束されたのだろう。ぼやけた意識でも手足が動かない事だけは感じ取れた。


「う──」


 硬い瞼を開けて鈍痛に揺れる視界から状況を確認する。

 周囲を見下ろすような視点だ。そして大勢の人間が取り囲むようにして私を見上げている。私は今台の上に居るのだろう。


「──せ!」


「───に死を!!」


 徐々に鮮明さを取り戻してゆく聴覚が捉えた言葉は、海底では聞いた事の無いような汚い言葉だった。何故私がそんな言葉を投げかけられなければならないのか理解ができなかった。

 殺せ、殺せと、男も女も、老人も若人も。皆それだけを叫んでいた。


「……」


 魔法陣を展開しようとすると首元で何かが光り、頭に激痛が走った。恐らくは魔法を阻害する道具だろう。

 何故ただの村にこんな物があるのか。魔法を使える者が居ないという話と併せて考えると自ずと嫌な結論に辿り着いてしまった。


「これより! 人攫いの人魚の処刑を執行する!」


 側に立っていた男が刃こぼれした剣を掲げて高らかに宣言をする。

 すると集まっていた者達はいっせいに歓声を上げた。


「人攫い? そんな事していないわ」


 身の潔白を主張すると男は私を睨みつけた。


「嘘をついてもお前が何をしたのか、何を目論んでいるのか我々には分かっている」


「はあ?」


 謂れのない罪に困惑すると男は剣を床について私の顔を覗き込んだ。


「二人の子供、ミプルとフリットを攫おうとこの村に訪れたのだろう」


 確かに事情を知らない者が状況だけ把握した場合人攫いだと思われてもおかしくはない。

 しかしながら私にはちゃんとした理由に加えて本人の了承も得ている。


「攫おうとなんかしていない。ミプルという少年は私の知り合いよ。今日迎えに来る旨は事前に伝えていたのだけど。フリットについては──」


「嘘だな」


 私の言葉を遮るように男が切り捨てる。


「どうしてそう思うの?」


「ミプルという少年は我々に助けを求めてきたんだぞ。"蒼海の魔女が人を攫いに来る"と」


「なんですって?」


 慌てて周囲を見回す。ミプルの姿もフリットの姿も見えない。


「……なんてこと」


 少しおかしいとは思っていた。"本来であれば数日で終わらせられるはずの試験を最終日まで終わらせられなかった"。恐らくは、"終わらせる気が無かった"のだろう。

 そして、このように私を悪者にして試験をなあなあにしようと思い立ったのだろう。

 彼には一刻も早く人間として自由になりたい理由があったのかもしれない。それなら話してくれれば配慮したのだが。


「聞いて。私は"この村の者"に干渉するつもりは無い。とりあえずミプルとフリットの二人と話をさせてくれないかしら。用が済んだらすぐに出て行くから」


「フリットがこの村の者ではないとでも言うような口ぶりだな」


「貴方達はどう思っているのかしらね?」


「……ふん」


「話をさせて頂戴」


「できない相談だ」


 刃こぼれした剣が高く掲げられる。話がまるで通じない。もう無理だ。


「……はあ」


 覚悟を決めよう。私ではもう何も変えられない。今日が私の命日だ。

 本当に死が迫っているというのに、私の頭にあるのは他人の事だけであった。

 フリットの事もマヨの事もまだまだ心配だ。二人ともしっかりと自分の意志を持つ強い子ではあるのだが、フリットに関しては彼の人間としての強さをねじ伏せる理不尽が彼の周りに渦巻いてしまっている。マヨだって親との事がまだ解決していないし、教えたかった事だって沢山残っている。


「言い残す事は無いか」


「それはどういう意図の言葉なの? 何かを気取っているのかしら?」


「貴様……っ」


 命乞いをするつもりなど無い。

 マヨやフリットに言いたかった言葉をこいつらに聞かせてやる義理も無い。

 やり残した事に関しては悔しさしか無いが、それでも今この場にいる者たちが望むような死に様を見せるつもりだって無い。


「命乞いでもすれば生かしてやったかもしれないのに」


「そんな事をした所で貴方達が正義になる訳でも無いでしょうに」


「何?」


「穢れ切っているのよ、救いようの無い程に」


 きっと、私の死は陸の世界がより美しくなるために必要な事なのだろう。本当の正しさを知るための過ちの一つという訳だ。

 それこそ、虐殺を経てようやくクアラが人間としての権利を手に入れた現状と同じだ。私が属する"その他の異種族"の死が重ねられようとも、人種として認められる世界はきっと訪れる。過ちがあるからこそ、そのような未来だって巡ってくる筈だ。

 そんな輝かしい未来の礎となるのであれば、それも悪くはない。


「異種族を迫害し、話も聞かずに殺して…… そうやって穢れた歴史を積み重ねて子孫が学んでくれる事に期待すれば良いんじゃないかしら。貴方達の世代はきっとそういう愚かな役回りなのよ」


「っ」


「何よ、その顔。殺したいなら殺せばいいじゃない。貴方達にとっての正義をその歴史に刻めるのよ、今は誇ればいいじゃない」


 瞳を閉じる。雑言を突き抜ける波の音だけはいつもの様に私を包んでくれていた。


「さあ、どうぞ。ナマクラな腕と剣でせいぜい苦しませて頂戴」


「おおい! 何やってる!! 早く人魚を殺せ!!」


「魔女に死を!!」


「「魔女に死を!!!」」


「っ、うおおおおおおおおおっ!!」


 死が怖くない訳ではない。だからこのように瞳を閉じていたというのに。そう叫ばれては死の瞬間が分かってしまうではないか。

 何もかもが期待外れで、我を強く持っていたつもりだったのに涙が出そうになった。


「──な、なんだっ!?」


 拳を固く握ると急に辺りがどよめきに包まれた。それにつられて執行人の動きも止まったのか、数秒待っても剣が振り下ろされる事は無かった。

 一体何事かと目を開くと先程と比べて不自然な程に辺りが薄暗くなっていた。


「なぜ急に雲が!?」


「魔女の力だ!!」


 聴衆の言葉に私もつられて空を見上げると、村へ降り注ぐ陽の光全てを遮るかのように暗雲が立ち込めていた。ここからでも微かな魔力を感じる。まさか誰かが呼び寄せたのだろうか。


「これ、は……!」


 フリットに言わせれば今この村の周辺で魔法を使えるのは私だけだ。だが私は今拘束具の影響で魔法が使えない。

 他に魔法が使える人物といえば私が直々に魔法の基礎を教えたフリット本人以外には居ないはずだ。


「──っ、フリット君!! 居るの!?」


 必死に呼びかけると暗雲から一軒の小屋へと雷が放たれた。

 獣の咆哮のような音と共に閃光が走り、小屋が燃え上がる。その中から体中に新たな痣を作ったフリットが姿を現した。


「っ──! フリット君……!」


「お、お前っ!! やっぱり魔女に洗脳されて──」


「その人はそんな事しない!!!」


 フリットが魔法陣を光らせると、私の周囲の人間全てを散らすかのように更なる雷が降り注いだ。

 そして阿鼻叫喚に包まれる中をふらふらと歩き始めたフリットは私の首を落とそうとしていた執行人を睨みつけた。


「っ! フリット……! お前、自分が何をしているか分かっているのか!?」


「貴方"達"がボクにその言葉を言いますか」


 腕の痣を撫でながら発された冷ややかなその声は、私に向けられた言葉ではないにも関わらず私の背筋をも凍らせた。


「今まで、『自分は何をやっているんだろう』と一度でも思いませんでしたか?」


「……っ」


「……」


 言葉を詰まらせて俯いた執行人の横を通り過ぎたフリットはそれ以上何も言わずに私へと歩み寄り、手足の拘束を解いた。首に付けられている物も外そうとしてくれたのだが、固く取り付けられているのか彼の手ではどうにもできない様子であった。


「ごめんなさい。こうなるって貴女に伝えたかったのに、監禁されていて会う事すら叶わなかった」


「それよりもその魔法陣! ありえない、なんて物を……!」


 刻まれていた単語は"雷"、"安定化"のみ。私が教えたはずの"直接的危険な言葉"に該当する物が入っている事はおろか、魔法陣そのものが直接的な作りになってしまっている。"安定化"を除けばたった一つの単語しかない。こんなのは私でも想像すらしなかった構成だ。


「それに怪我も増えてる! こんな体でそんな魔法を使ったら貴方自身の安全だって保障できないわ!」


 そう言うとフリットは私を抱き上げ、村の外を目指して走り始めた。


「ボクの事は良い。貴女が無事ならそれで結構です」


「そんな言葉今言われても全然嬉しくない! 本当に危険なのよ!?」


 絵物語で見た"お姫様が抱きかかえられる時ような恰好"のまま喚くと彼は微笑みのみを私に返した。


「──この林に入って行った!」


 村を出て林の道へと入るともう追手の声が聞こえ始めた。

 あの場にいたのが"全員"ではなかったようだ。


「一斉に撃て!!」


「……村の人たちは弓矢を用意していました。一人で逃げる事になったら注意してください」


「一人でって、何? どうしてそんな事を言うの?」


「念のためです。他意はありません」


 フリットが魔法陣を光らせる。暗雲から放たれた雷が木々を割り、背後を炎で包み込んだ。


「ほ、本当に無茶だけはしないで! ただでさえ傷だらけなのに!」


「無茶でもしないとここで二人とも死んでしまいます。ボクの事は気にしないでください。クアラの体は強いので!」


 更に林の深い場所へと走る。それと同時に波の音も徐々に大きくなってゆく。でたらめな道を行っているようでありながら着実に海へと近付いているようだ。

 フリットが無言のまま走り続ける。後方では新たに駆けつけた人の姿が木々の隙間から見えていた。

 陽光に鈍い輝きを反射する鏃をこちらに向けて弓を引き絞っている。


「フリット君、別の追手が来てる! 矢が来るわ!」


「分かりました!」


 一斉に放たれた矢を一瞬確認したフリットが横へと飛んで躱す。その勢いのまま海への最短距離から外れて追手を撒くように見通しの悪い道へと入った。


「……怪我してませんか?」


「私は大丈夫。でも貴方の怪我は──」


「良かった」


 私の言葉を無理やりかき消すようにフリットが笑顔を浮かべた。

 様子がおかしい。自分自身に降りかかる危険はまるで気にしていないように見える。


「……フリット君、本当に無理だけはしないで」


「……」


 彼は再び笑顔のみを私へ向けた。まさかとは思うが、既に覚悟ができているのだろうか。

 万が一彼が身を挺して私を守るなんて行動に走ったら私は正気ではいられないだろう。

 守りたい助けたいと思っていた少年にそんな事をされたら、そしてそれが原因で彼が命を落とすような事があったら──


「──っ、本当に危険な状況になったら貴方自身の命を優先して」


 そんな事が起きたら、きっと私はもう元には戻れなくなってしまう。


「それは約束できません」


「どうして!?」


「ボクなんかよりも、貴方の命の方が大切になったから」


「どういう、事?」


 戸惑いながらも尋ねると、彼は澄み切った瞳で私の目を見つめた。


「貴女はボクに自由を思い出させてくれた。そして貴女の思う自由を教えてくれた。 ……ボクはそれで生きる希望を思い出して、初めて誰かに夢を語る事ができた」


「……」


「恩人なんです、貴女は。ボクの……!!」


「貴方が今しているのはその"夢"を犠牲にするような行為なのよ!? 私の事はもういいから……っ!」


「……嫌だ」


 少しだけ怒った表情を浮かべながらフリットが言い返す。

 初めて見る表情に言葉を詰まらせると彼の額に汗が滲み始めた。それに心なしか走り方が変わったような気がする。左足を踏み込む瞬間の姿勢に違和感がある。


「フリット君……?」


 顔が徐々に紅潮し、目も充血し始めた。呼吸が荒く、短い間隔で吐かれる息と共に喉の奥で音が鳴っている。


「一体どうしたの──っ!」


 心配と不安のあまり左足に目を向けると一本の矢が刺さっていた。


「貴方、脚に矢が……!」


 この道に入ってからは矢の音も追手の足音も遠くにしか聞こえていなかった。先程避けた時に刺さったのだろう。


「……大丈夫、まだ、走れます……!」


 私を抱える腕が震え始めた。

 発熱、目の充血、手の震え。明らかに毒だ。恐らく言っていないだけで他にも症状が出ているはずだ


「降ろして! いくらクアラの身体でもこんな状態で人を抱えて逃げるなんて──」


「まだ、ボクの方が速く走れる……! 限界が来るまでは、ボクが……っ!」


「そういう事じゃない!! このままだと本当に死んじゃう!!」


 毒や病に強い種族とは言っても、それは他種族の免疫機能と同様に体力があって安静にしている事を前提とした話だ。

 現段階で傷だらけで、さらに体力を消耗した今の彼がこの毒を克服できるとは思えない。今からでも毒を吸い出して安静にしないと彼は死んでしまうだろう。


「すぐに応急処置をしないと……!」


「落ち着いて下さい。仮にここで立ち止まって手当てをしたとしても…… 追手に追いつかれて共倒れだ……!」


「じゃあ私が貴方を殺した事にして村に戻ればいい! 手当てをして、それから──」


「馬鹿な事を言わないでください!!」


 大声を出した弾みでフリットの口から咳が漏れる。

 その様子を見ると既に限界を迎えているようにしか見えないのだが、尚も彼の腕は私を強く抱いている。無理やり降りる事すらもできない。


「だったらせめて…… 私に走らせてよ……!」


「……」


「ねえ!」


 聞く耳を持たずにフリットは走り続ける。

 が、それも長くは続かない。徐々に速度が落ちてゆき、ついには追手の声が聞こえ始めた。


「──もうそろそろ、ですね……」


「な、何が? ちょっと、やめてよ……!」


 まだ海まで距離がある。

 その状況でそんな言葉を呟いた彼は残った最後の力を振り絞るように走る速度を上げ、その数秒後に私を丁寧に地へと降ろした。


「……走れますか?」


「……」


「よし。ではここで一旦お別れです」


「何も言ってないわよ!」


 私に背を向けたフリットが空白の魔法陣を浮かべた。しかしその魔法陣は数秒と持たずに霧散して消えてしまった。

 魔法陣の消えた掌を見た彼は固く拳を握り直し、ふらふらと上体を揺らしながら遠くを見据えた。


「貴方も一緒に来て! 約束したじゃない!!」


 彼が私にやったように、彼を抱えようと腕を回す。しかしびくともしなかった。


「っ、う、ぐっ…… 今度は私が、貴方を……!」


 魔法も使えず、彼を抱き抱えることもできず。そして守りたいと思った少年に守られようとしている。

 魔法の無い私は思った以上に非力で無力だった。そんな事実が突き刺さって涙が止まらなくなった。


「また会いましょう。いつか、あの海岸で。だから今は逃げて下さい」


「……そんな」


「早く」


「っ、ごめんなさい……」


 打ち砕かれるように弱気になってしまった感情を抱いて走り出す。

 波の音に導かれるまま森の中を駆けると、あっという間に彼の姿は見えなくなってしまった。

 その事を確認すると取り返しのつかない事態である事を改めて突き付けられているような気がして、恐怖と悲しさに襲われた。


「……どうして」


 彼が見えなくなった代わりに海が見えた。

 本来であれば彼の手を引きながら帰る場所だったはずだ。

 なのに、なのに。


「どうして……!!」


 こうやって私が自分の命の為に逃げるのが今の彼の望みなのだろう。 

 だがそれよりも前、少なくとも一昨日の段階ではもっと純粋で安らかな願いを抱いていた筈だ。

 『私を逃がす』なんて他人に関するその場限りの事ではなく、ただ『世界を旅する事』を、自分自身の輝かしい未来を望んでいた筈だ。


「魔女が居たぞ! 海へ逃げるつもりだ!!」


 それがどうしてこんな事に。

 憧れた陸の世界で憧れの裏にある物を見て、そしてその中で見つけた少年の未来を犠牲にして走っている。

 一体何なんだ。一体彼が何をした。


「矢を放て!」


 暗雲が消え晴れ渡った空に無数の矢が飛び、紅い陽光に輝く鏃が流星の如く降り注ぐ。

 木の陰へと身を隠して躱す事に成功したが、このままでは追手に追いつかれてしまう。


「ふうっ、ふう……っ」


 息を整えて行くべき道を眼前に見据えた。海は見えている。一か八か、全力で走るしかない。


「村長、魔女の姿が消えました!」


「木の陰に隠れているのだろう。もう一度弓で──」


 準備をさせてはならない。咄嗟の判断で走り出し、崖を目指す。


「ぬ! おったぞ! 矢を!!」


「くっ……! はあっ、はあっ……! 間に合って……!!」


 ここで矢を受けて死んでしまっては全てが無に帰してしまう。夢を持つ少年の全てが。


「はあっ、はあっ、う、うううううう……っ!!」


 惨めに涙を散らしながら崖から海へと飛び込もうとしたその刹那、左足に激痛が走った。


「──あ」


 それによってバランスを崩した私は、姿勢を制御できずに海面へと打ち付けられた。




──────────

───────

────


 いつか読んだ物語を忘れられずにいる。

 それは嵐のような出来事を越え、最後には朝日よりも明るく幸せな結末を迎える陸の恋物語だ。私は目覚めるまでの間、その夢を見ていた。

 まるで実体験のように再生されるその情景に揺れる中、どういう訳か私は微かな嫌悪感を覚えた。

 『結局は全て上澄みの綺麗事を切り取った物に過ぎない』と、そう思ってしまったのだ。

 『現実では凄惨な出来事が起こっている。全て上手く行くわけではない』そんな事実がある事は皆知った上で描かれた救いの物語である事は私にも分かるのだが、それ故に私が救えなかった少年の事を思い出してしまった。

 そうして、私は眠りについたまま"胸の奥にある大切なもの"が徐々に壊れつつある事を感じていた。やがて居心地の悪さに耐えきれなくなった頃、体中の痛みと苦しさに起こされた。


「──」


 海へ逃げ込んだ後すぐに気絶した私は、客人であるフリットを出迎えに来ていたコモに発見されて海底王国へと運び込まれたらしい。それから二十日間の治療を経て私はようやく目を覚ましたそうだ。

 だが、正直言って希望は感じられない。


「────」


 声が出ないのだ。何度試しても出るのは掠れた息だけだ。それに耳も殆ど聞こえない。

 体も自由に動かない。目で見る事や頭で物を考える事は辛うじて多少出来るが、それもいつまで続くかは分からない。日に日に意識が薄れてゆく。寝ても起きても、ずっと眩暈のような感覚がしている。

 私はもう助からないのだと自覚するには十分だった。『絶対に死ねない』という想いも虚しく、私を蝕む人間の毒はいとも簡単に"終わり"を私に突きつけた。


『お師匠様、コモ様がお見えになっています。お通ししますか?』


 マヨが私の顔を覗き込みながら念話の魔法を発動させる。対する私も、それまで浮かべていた魔法陣とは別の魔法陣を浮かべて言葉を返した。


『おねがい』


『分かりました』


 意識と思考のみはまだ動いている分、魔法を用いたコミュニケーションだけは出来る。


「……────」


 不幸中の幸いか、それともただ死に損なっただけか。

 吹き抜けの天井から覗く水面がキラキラと輝いている。以前は憧れを胸にいつまでも眺めていられた光景であったが、今改めて見ると目を背けたくてたまらない気持ちになってしまった。


『ドルテ様、おはようございます』


 コモの声が聞こえた。


『おはよう』


 彼とはフリットを紹介した日以来会っていなかった。

 あれから彼は魔女と王家を繋ぐ立場の者として色々と忙しい日々を送っていたらしい。具体的な事は聞いていないが、おおよそ魔女の代替わりや引継ぎに関する作業だろう。


『何の用かしら』


『一つ、確認したい事があって参りました』


 マヨに会釈をしたコモが私へと寄る。その数秒後に扉を閉める音が部屋に響き渡った。


『国王からの命により、貴女が攻撃を受けた件について詳細な話をお聞かせ願いたいのです』


『……』


『全ては今後の為。人間が我々に明確な敵意を持っているのならば相応の対処が必要になるでしょう』


『戦争の口実でも探しているのかしら。もしそうなら私から話す事は何も無いわ』


 突き放すように寝返りでも打ちたい所だが体が動かない。もどかしい気持ちを表へ出さないようにコモの瞳を見据えると彼は慌てた様子で否定の意を示した。


『陸が危険な地であるのならば今後は人間化の試練を廃止するべきではないかという話が出たので、その判断の為に貴女の話をお聞かせいただければと』


『廃止って……』


 私が知った事や経験した事は一例だと思っている。もちろんあの村だけの話ではないと分かっているが、それでも『まだ人間全てを危険視するべきではない』と私は思う。言ってしまえば希望的観測に過ぎないが、希望を捨てるにはまだ早い。

 それに、そもそもあの出来事は海底王国の住人であるミプルが引き金となって起こった事でもある。彼があの行動に出なければ歓迎はされずともいくらか穏便に終えられただろう。


『その議論の場にマヨは居たの?』


『いえ……』


『……マヨ、こちらへおいで』


「え?」


 戸惑いを表情に浮かべながらマヨが私の顔を覗き込む。

 痺れた顔で微笑みを向けると彼女は心配そうに私の手を握った。


『マヨ、貴女は陸の事をどう思っていた?』


『素敵な場所だと、思っていました。豊かで、暖かくて、優しい……』


『今はどう思う?』


『……怖い事もあると思いました』


『そうね。残酷で、どうにもならない胸糞の悪い事だってあった』


 ほとんど動かない手でマヨの手を握り返すと彼女は暗い表情で俯いた。


『陸は楽園なんかじゃなかった。私はあの七日間でそう思い知ったわ』


『……はい』


『でもそれって、裏を返せばここと殆ど同じなんじゃないかと思ったの』


 二人が困惑した表情で私を見つめる。その表情を見て、『こういう事なんだな』と少しだけ納得した。


『私に攻撃をした人間達は、自分たちのコミュニティを守るために私に武器を向けたの。全部盛大な勘違いだしやり方も正しいとは言えないけど、それでも寛容な目で見ると『彼らのやり方を以て彼ら自身の安寧を保とうとしていた』だけなのよ』


『どういう事です?』


『私たちだって大型の肉食生物は武力を以て撃退しているでしょう。それと同じ事を彼らはしたの』


『……』


『今回は私が撃退される側だったというだけの話で、私たちが彼らと同じ事をしないとは限らない。そう思わない?』


 正直言って、こう語りはしているがフリットに危害を加えた人間達を許す気は起きない。見せしめのように殺す行為だって許す気はない。結局、私が言っている事は自らの意志に反する綺麗事だ。

 だがしかし、私の主観を語ってマヨが持つ思考や地上への印象を塗り潰すような真似は絶対にしたくない。

 彼女には彼女の世界がある。想いがある。抱いた希望も、私が語った陸の物語も、まだ彼女の胸にあるはずだ。


『マヨ』


 彼女にそれらを大切だと思う気持ちが少しでも残っているのなら、人間化の儀式は廃止するべきではないと私は思う。


『あなたはどうしたい? 人間化の儀式はもう辞めるべきかしら? 陸への繋がりを断って、この国の者達だけで生きるべきかしら』


『……っ』


 何かを言おうとするも言葉が出ない様子だ。そのまま考えを纏めるように俯いてしまった。

 そして勇気を振り絞るように、それでいて遠慮がちな表情で答えを出した。


『私は、陸の世界を見てみたいです』


『そう』


『お師匠様が殺されそうになったという事を踏まえると不謹慎極まりない意見だと自覚しています。でも…… こことは異なる世界があるのにその繋がりを断ってしまうのは……』


 握る手に力が籠る。それだけで、私はもう彼女の想いが全て分かったような気がした。


『そ、それにお師匠様が言った"楽園じゃない"って言葉が事実だとしても、だからと言って"陸が私たちにとっての地獄"だという訳でもないと私は思うんです』


『あら、どうして?』


『お師匠様も私も陸の物語に憧れを持っているから』


 跪いたマヨが私と目の高さを合わせる。

 横目で彼女の顔を見ると、何故だかいつもより大人びた顔つきをしているように見えた。


『異種族である以上、人間と私たちの間に壁が存在する事は確かです。それでも…… 人間も、人魚である私たちも同じ物語に憧れを持つ事ができるのなら、きっと交わる事は不可能ではないと思うんです。 ……だから、私は陸への繋がりを断ちたくない』


「──ふ、ふ」 


 思うように動かない腕を伸ばしてマヨの頭を撫でると彼女は目尻に涙を浮かべた。

 あまりにも青臭い。だが蒼海の魔女はこうでないと務まらない。憧れと希望を胸に、同じく陸を目指す者を導く。それでこそだ。

 きっと彼女になら任せられる。


『コモ、これが七代目蒼海の魔女の決断よ。人間化の儀式は希望する者がいる限り止めないと伝えて』


『分かりました』


『ただ一つ、私の意見も聞いてくれるかしら』


『なんでしょう』


 今回の件で人間化の儀式を執り行う場所を選ぶ際には今まで以上に安全性を考慮する必要もあると思い知った。マヨが幼い事を考えると尚更そこに気を付けなくてはならない。

 これまで私が儀式の際に使った海岸は調査隊が見つけた五か所だ。それぞれ場所はそれなりに遠く離れているが、今回使った場所も含めて全て同じ国の領土にある。そう考えると今後も使い続けるのは危険だ。


『これからは別の海岸で儀式を行った方がいいと思うの。難しい条件になってしまうけど別の国、それも異種族に寛容な民族性の国が良いわ』


『私も同意見です。すぐにでも調査隊を出しましょう』


『ありがとう。私の意見はそれだけ』


『分かりました。では私はこれで。お時間いただきありがとうございました』


『ええ』


 畏まったような会釈を残したコモが出口へと向かう。そしてマヨに扉を開けてもらってから数秒その場に留まり、魔法陣に何らかの単語を加えて再び私へと声を送った。


『一つ、気になる事があるのですがお訊きしてもよろしいでしょうか』


『ええ。答えられるかは分からないけど聞くわ』


『……あの少年、フリットさんについての事です』


『……』


 動きを止めたコモをマヨが戸惑ったように見つめている。彼女の様子からしてコモは私のみに言葉を送っているようだ。


『その怪我は彼がやったのですか?』


『いいえ。彼は助けてくれたの』


『……その事も国王へご報告した方がよろしいでしょうか』


『いえ、彼の名前はどこにも出さないで。絶対に』


 彼が生きていた場合、そしていつかこの国を目指すのならば、今この段階で名が広まるのは良くない気がする。

 過敏であると言われれば否定はできないが、少しだけ懸念している事があった。


『人魚の一人が人間の手によって怪我を負ったという現状において、彼の名が広まってしまうと在らぬ疑いや誤解を招いてしまう可能性があるわ』


『そうでしょうか』


『ええ。私自身が否定したとしても邪推をする者は必ず出てくると思うから。それに、こんな結果になった事に関して非難する者だって出るでしょうね』


 私がそう言うとコモはいまいち納得いっていないような表情でこちらを振り向いた。


『貴女がそう仰るのであれば彼の事は他言しないようにいたしますが、なぜそこまで慎重になるのです?』


『もし、もしもの話よ? 彼が生きていてこの国を目指すような事があった場合、なるべく彼が歓迎されるような状態であってほしいと思ったから』


『……承知いたしました』


 そう言い残したコモは去って行った。

 ゆっくりと扉を閉めたマヨが棚へと向かい、薬を取り出した。


『何かお話をされていたのですか?』


『ええ。ちょっとした雑談をね』


 コモが来る前まで浮かべていた魔法陣を再び展開しながら答える。

 その魔法陣を見たマヨは次に私の首元のペンダントに目を向けた。


『目覚められた時から、ずっとその魔法を使っていますよね』


『ええ、そうね』


『……一体何のためにそんな事を?』


 魔法陣に浮かぶ単語を見たマヨが不安そうな顔を浮かべる。

 "銘記"、"思考"、"参照・術者"、"保持"、"像"、"対象・媒介"、そして"随時修正"。

 私のイメージした物がリアルタイムで媒介であるペンダントに記録されるという事象を起こす魔法だ。

 この数日間、私はあの海岸で過ごした七日間と目が覚めてから今までの事をこのペンダントに書き込んでいた。

 魔法の知識を一通り身に着けたマヨであれば私が何をしていたのか理解できていただろう。


『ちょっとした贈り物を作ろうと思って』


『常に魔力を使っていてはお身体に障ります。ただでさえ危険な状態なのに……』


 マヨが私の腕に針を刺し薬を注入し始めた。毒の症状を緩和しつつ神経から脳を刺激し、魔力の生成を助ける為の物だ。


『そうね、でももう少しで終わるから。どうしても今やっておきたいの』


 自分がもう助からない事は分かっている。

 だから一秒でも長く生きたいという気持ちよりも、残りの時間を削ってでも私の想いを遺しておきたいという気持ちの方が大きい。


『……どういった贈り物なんですか?』


『言わば、全部知ってもらう為の物かしらね』


 フリットが生きていた場合、もしかすると彼は責任を感じてしまうかもしれない。

 だから私がどういう経緯で何をしたか、どう思っていたか、そしてどのような気持ちであの世へ行くのかを記録しておこうと思った。

 彼が早々に私の事を忘れて自分の人生を歩めるのならそれでいい。だが万が一、後悔に苦しんでわざわざ私の安否を確認しに海底王国まで来てしまうような事があれば、何かしら残しておかないとすれ違いが生まれそうだ。


『全部?』


『そう。私があの出来事についてどんな風に思っていたかって事を全部』


『どなたに宛てた物なんですか?』


『貴女と、もう一人。私が陸で出会った男の子よ』


『……遺書って事ですか?』


『見方によってはそうかも』


 そう伝えると急にマヨが私の手を握った。


『……不安かしら?』


『不安だし、寂しいです。悲しいです』


『ごめんね』


 全身が痛む。持ってあと数日といった所だろうか。

 せめてマヨが魔女に就任した姿を見たかったのだが、どうにも無理そうだ。


『っ、本当は陸の事をどう思っているのですか?』


『ん?』


『人間化の儀式について、私の意見のみを以て継続を決められていましたが、貴女自身の本当の気持ちは──っ』


 今になって許せない気持ちが湧いたのだろうか、毒に侵されて変色した私の脚を見たマヨが零れんばかりの涙を目に浮かべた。


『継続するわ』


『どうして』


『もう一度会いたい人が居るの』


『その方が…… 先程仰っていた陸で会った男の子なのですか?』


『ええ』


 もう一度会いたい。

 私は貴方と出会った事を後悔していない。深く関わろうとした事も後悔していない。

 ただ一つ、救えなかった後悔だけが今も胸に重くのしかかっている。


『優しくて、純粋で。それに怪我だらけだったけど生命の輝きを感じさせるような強い子だった』


 貴方が生きていたら、もしかすると私と同じくあの日の出来事について後悔を抱くかもしれない。でもどうか今日限りでその暗い気持ちは乗り越えてほしい。

 これを見ている時、貴方が何歳で何をしながらどこで生きているのかは分からないが、私が願う事はそれだけだ。


『なんという名前の方なのですか?』


『……そうね、貴女になら話してもいいかもね』


 そしてマヨも、どうか人間を恐れないで。嫌わないで。

 いつまでも、明るく真っ直ぐな貴女でいて。


『彼の名前は、フリット・クランツ──』


 この目にかかる重圧は微睡みか、それとも死神の誘いか。

 力の入らない手でもマヨの暖かさだけは分かる。

 書き遺したい事は粗方書き終えた。だから今日はもう眠る事にする。

 おやすみなさい。

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