第3話 死神の御守

 誰もいない。

 生活雑音も、誰かの話し声も何も聞こえない。生きているのか死んでいるのかも分からない、そんな空間。そこではただ人工的な照明だけが、煌々と全体を照らしているだけ。

 少女は一人暮らしだった。

 親から離れ、学生寮でかれこれ二年間生活している。おかげで、この寮内の人間とは随分仲良くなれた。管理人ともよく話すし、作り過ぎて余らせた夕食等をお裾分けしてもらったりもした。


 しかしそれも一週間前までの話。今では寮全体で、少女の悪い噂が広まっている。もちろんそれは学校でも同じこと。それで特に何か被害があったわけでは無い。ただ陰口が余りにも多く、あからさま過ぎているだけだ。

 それでも、少女にとってそれは耐え難いものだった。根拠のない噂を流され、悪意でしかない嘘がばら撒かれ、次第に安息の地までもが奪われていく。最早、知り合いの誰一人として信用出来なかった。


 ただ一人、管理人だけがそれまでと変わらずに接してくれている。会えば話し掛けてくれるし、会わなくても訪ねてきてくれる。良い人だと、素直にそう思える。

 だから、少女にとってそれだけが危惧すべきことだった。

 これから死のうというのだから、発見されるリスクはなるべく少ない方がいい。それで助かってしまっては意味も無い。


 今は深夜。

 寮内の誰もが寝静まり、誰もが生活していない時間帯。

 故に静寂。故に、誰も助けになんて来るはず無い。

 これからこの世界と離別することが出来る。少女の鼓動は嫌でも高まっていた。


「それにしても、本当に効果があるのかしら……」


 手元にあるのは黒々とした石。携帯しやすいように紐が通されていること以外、何の変哲も無いただの石だ。

 何でも身に着けているだけで所有者を楽に致死に誘うものらしいが、そこに信憑性は皆無。無料で貰ったことも相俟って、大して期待はしていなかった。

 まあ無料なら無料で諦めがつくし、万が一にも効果が望めるかもしれない。

 これから死へ向かう者とは思えないほどに、楽観的な考えで片づけた少女は、カッターナイフを手首に添えた。

 ここは風呂場。仮に失血によるショック死で死ねなくても最悪、溺死出来る体制にしている。


「よし……」


 しばらく浸かっていたので、身体が熱く、頭がぼうっとしてきている。

 少女は、添えているカッターナイフに力を込める。

 ――ようやく。

 痛みを味わうことなく、この世から脱せられる。

 この石の真偽などどうだっていい。ここまで漕ぎ着けるきっかけを与えてくれただけで、十分役割は果たしている。


「さようなら。私の腐った世界」


 確かに、痛みは無く。

 そんなことを思うよりも早く。

 栓を抜いたように。少女の身体から、鮮血が飛び散った。


 目を開けばそこは真っ白な場所だった。壁も天井も、揺れるカーテンも白。今身を置かれているベッドも、染み一つ無い純白だった。

 ここが何処かも分からない。呆然と、その世界を眺めていると、不意に横から声が飛んできた。


「良かった……、目が覚めたのね」


 懐かしい声。唯一心を苦しめないその声音に、虚ろながらも視線を移す。

 優しく微笑む管理人が、そこにいた。


「もう、自殺なんてしちゃ駄目よ。あなたがどう思ってるのか知らないけど、悲しむ人だって確かにいるんだから」


 目覚めが悪い。管理人の話も、耳から耳へと通り抜けるだけで一つも入ってこない。寝不足というわけではないのだろうが、それでも疲労感は凄まじく、意識もはっきりしないまま、視線を周囲へと移した。


「……ここは?」

「病院よ。たまたま私が夜中に目を覚ましてたから良かったけど、運が悪ければ死んでたのよ」


 病院。

 あまりにも、その単語は現実的過ぎて、だからこそ耳に残った。目が覚めるとそこは天国でした、と言ってくれた方が良かった。

 熱を感じる。頭はぼうっとするが生きているという実感は、まだある。

 とにかくここは現実世界。死んで天国に行ったわけでも、地獄に落ちたわけでも無さそうだった。


「じゃあ目を覚ましたこと、病院の人に伝えてくるわね」


 管理人は立ち上がり、部屋から立ち去った。そこに残ったのは静けさだけ。

 ふと、備え付けられているテーブルを見る。そこにはペットボトルと果物、それに『石』があった。

 白で統一されたこの室内にはそぐわない、闇そのものを体現したような黒。身に着けていられるように紐を通されているそれは、間違いなくあの店で貰ったものだ。

『この石を身に着けているとね、ちょっとしたことでも致命傷を負うことが出来る』

 そんな店主の声が木霊して聞こえてくる。

 確かに、その通りだと思えた。手首を切った時、噴水のように血が噴き出した。幾ら動脈からは血液が勢い良く飛び出すとはいえ、その出血量は尋常では無かった。また当初の目的通り痛みなどは微塵も感じなかった。

 薄れ行く意識の中、それらの効力を実感出来たので、そこに関して疑うことはしない。


 ただ後悔することがあるとすれば、死ぬことが出来なかった。それが一番の願いであり、望むものであった。

 あれだけの出血で、誰も助けなど見込めない状況だったはずなのに、自分は今こうして生きてしまっている。

 ここは天国でも地獄でもない。何処にでもある病院で、澱み、腐りきった現実世界のままだった。

 やはり店主の言う通り、致命傷止まりらしい。それが原因で、死ぬことは有り得ないという話。今身に起きている状況は、全て予定調和の産物だったみたいだ。

 それは確かに残念で、願いが完全な形で叶えられなかった不満は残る。

 けれど、結局のところ。

 その石は人の状態や外傷などに関係なく、例外なくその所有者に致命傷を与える物であると決定付けられる。それは、直接望むことではないにせよ、死そのものに近づける手段に間違いなかった。


「致命傷はこの石で……、あとは私が……」


 死に対して何も恐れることはない。致命傷まで近づけるのなら、死はすぐ目の前だ。

 手首を切って死ねないなら舌を噛み切ればいい。飛び降りて死にきれないならそのまま道路に飛び出せばいい。

 叶うなら誰かの手で殺してくれれば手っ取り早いが、気軽に犯罪に手を染めてもらうわけにもいかない。

 致命傷まで至れるのなら、後は簡単だ。

 手首に残る違和感をなぞりながら、数多くある選択肢に思いを馳せ、彼女は小さく微笑んだ。

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