第2話 証左の噴霧器
また別の日。
一人の男がこの店を訪れていた。雑多に溢れかえる品々には目も暮れず、カウンターで店番をしている少女に視線を向ける。
「いらっしゃいませ!! 何かお探しですか?」
男の風貌はとことん怪しかった。黒い帽子に、上下共に黒いジャージ。市販のマスクで口元を隠し、素顔による特徴を相手に与えない。
今は夏真っ只中。明らかに不審であることを周囲に示している男に、それでも店番の少女、笹川瑠璃は嫌な顔一つ見せず笑顔で尋ねた。
そのことが以外だったのか、虚を突かれたように男は視線を泳がせ、今度は少女の隣で作業をしている少年に焦点を合わせる。
そちらは少女とは対象的。見せる表情は疑いのそれで、男の第一印象を見たときに大多数の人間が示す感情だった。
そうして男は安堵する。疑われることが普通。笑顔を向けられるなど気持ち悪い。言葉にはしなくても、放つ雰囲気はそう物語っていた。
「痕跡を無くす道具とか、証拠を隠滅する商品とか、何でもいい。とにかく俺がそこにいたことを消せるもの、何かねえか?」
威圧的でしかし淡々と要件を述べる男。唯一露にしているその瞳から窺える情報も少なく、客を疑って止まない少年、淡海賢護の表情は益々険しくなる。
男の外見もそうなのだが、何よりその言葉の意味を素直に受け取れば、この目の前の人物が何をするつもりなのか、想像出来てしまう。
賢護はこっそりと、聞き取られないような声量で瑠璃に耳打つ。
「なあ笹川。こいつに物を売るのは止めといた方がいいんじゃねえの?」
「どうして?」
「いや、何かあからさまに怪しいし。証拠隠滅がどうとか言ってるし。悪用されるんじゃ……」
「もう、心配性だね賢護君は。ドラマの見すぎだよ。どうせしょうもないことだって」
瑠璃は心配性を通り越して、危機感が希薄過ぎるが、彼女の本分はそこでは無いのだろう。続けて瑠璃は付け加える。
「それに、私達のお店は人の願いや望みを叶えるためにあるの。例えどういう結果になることになっても、それに私達がとやかく言うことは出来ない。どうすることも、出来ないんだよ」
それが当然だと。落胆した様子も見せず、瑠璃は姿勢を戻し笑顔で男に向き直った。
「すみません。お待たせいたしました。えーっと、要はあなたの存在を消せればいいんですよね」
「そうだ。取り扱っていないとか吐かすなよ。この店は何でも願いを叶えてくれるはずだ。ならこの要求も当然受けてくれるんだろ」
どこまでも高圧的。人を不快にしかさせないその態度に、いい加減賢護は文句を言いたくなるが、それを実行する前に、瑠璃が立ち上がる。
「ちょっと待っていて下さい。あなたの願いと同様の物を探してきますから」
業務的にそう一言告げて、奥へと入っていった。
残された賢護は、無言で目の前にいる男を睨む。余りにも怪しい。瑠璃はああ言ったが、どう考えても悪用するに決まっている。何もこの男のことを知らないのに、そう決めつけて掛かるのは良くないことだと解るのだが、何よりも疑わずにはいられない。
理屈ではない。本能で、この男の危険性を感じていた。
男の風貌もさることながら、その雰囲気もまた常人では出し得ない何かを含んでいた。
それが殺気であるか異常性であるか、賢護には判別出来ない。ただ怪しいと、そんな単純な思考だけが、賢護の胸中を占めていた。
「あんた――」
「賢護君」
無言の空間に耐え切れず、その怪しさを問い詰めようとしたが、重ねるように放たれた瑠璃の言葉にそれは遮られる。
スプレー缶のようなものを手に持つ彼女は、微笑みながら諭すように語る。
「やっぱりあなたは優しいんだね。多分それも自分のためじゃなくて、誰か知らない人のためなんだから。……でもね、それも大事なことだと思うけど、何よりも自分を大事にしなくちゃ。命は、有限なんだよ」
「……」
彼女が何を思って、何を見越してそう言ったのかは分からない。客である男の機嫌を損ねさせないためかもしれないし、いらないことを訊こうとした賢護を想ってのことかもしれない。
何にせよ、賢護は黙り込み、男の視線は瑠璃に向けられた。彼女の意図は不明だが、今あるこの状況を作り出したかったのだろう。
満足そうに頷いた瑠璃は、再び男に向き直った。
「お待たせしました。あなたの望むもの、それに最も近い物です」
カウンターに置かれたのは、やはりスプレー缶。ラベルも貼られていない、筒状で噴射口が取り付けられているそれは、間違いなくスプレー缶だった。
「……何の冗談だ、これは?」
「冗談なんかではありません。これは『証左の噴霧器』。それを振り掛けられた人間はその存在を隠滅出来、誰にもその痕跡を追えなくなります。だからこれは、私達の受け持つ商品で、あなたの願いを実現させるのに一番適しているものなんです」
納得いっていないのか、男が放つオーラからは不機嫌の色が窺え、その瞳は不満を訴えている。想像していたものがどのようなイメージで形作られていたのかは知らないが、そんなもので願いが果たせるのか、という最もな疑問は口に出さなくても伝わってくる。
賢護も内心そう思っていた。
この店の特質や本質を知らなければ、この一連のやり取りを受けて、疑ってかかるか、それか馬鹿にされていると取っても不思議ではない。男の反応もそれだった。
「俺も暇じゃない。冗談は冗談で止めておかないと、痛い目を見るぞ。スプレー一つで出来ることなど何も――」
「痕跡を消せます」
即答だった。男の言葉にも、得体のしれない雰囲気にも、鋭く刺さる眼光にも、怯むことなく、瑠璃は一言でその空間を支配した。
会話が途絶える。
耳につくのは掛け時計が時を刻む音だけ。それだけが、その小さな音だけが、部屋中に響いていた。
どれだけ経ったかは分からない。賢護が体感していた時間は、引き伸ばされていたようにも感じたし、一瞬にも感じられた。
ただ、瑠璃を睨み続けていた男は、やがて嘆息し、その視線をスプレー缶に落とした。
「少し、試させてもらうぞ。それに文句は無いな」
「はい、いいですよ。じゃあ……」
「いい。自分でやらせろ」
スプレー缶を手に取り、振り掛けようとした瑠璃は、渋々それを渡す。賢護は、それを端から見ているだけ。
やはり、渡すべきでは無いのではないだろうか。賢護の胸中に何か嫌なモノが駆けるが、口に出す前に男はそれをひったくり、躊躇うことなく自身に振り掛けた。
色は無い。勢い良く噴出された霧は、男の全身を包むように舞い、すぐに消えた。
「これで本当に……」
効果があるのだろうか。そう言い切る前に、男の身体が跳ねた。
上に、ではなく後ろへ。どちらかといえば駆ける所作に近いその動きが、逃走のそれだと認識するのに、しばらくの時間を要してしまった。
「あいつ!!」
呆然から意識を取り返した賢護は、カウンターを越え、男を追い掛ける。が、咄嗟のことで反応が遅れてしまったこともあり、入口にたどり着く頃にはもうどこにも男の姿は確認できなかった。
「くそっ……!!」
何度見ても、景色は熱の立ち込めるアスファルトが続いているだけで、人は何処にもいない。探しに行っても、恐らく痕跡の一つさえ掴めないだろう。
諦めた賢護は店内に戻り、瑠璃に謝る。
「悪い。捕まえられなかった」
外とはうって変わって、現代科学の冷気がその身に浴びせられる。心地良いが、開放感が無いこの屋内では、少し息が詰まりそうになる。
瑠璃もそう感じていたのか、冷房のリモコンを弄り換気を優先しようとしていた彼女は、バツの悪そうな顔をした。
「ううん、別に大丈夫だよ。確かにお金を貰えなかったのは痛いけど、あの人何をしでかすか分からないからね。あなたが怪我しなくて良かった。……ところでさ、賢護君」
冷房の切り替えを終えた瑠璃は、一枚の紙を持ち賢護の顔を覗きこむ。その紙はこの店の商品購入者に書いてもらう、誓約書のようなものだ。一般に流通している商品ではないので、それで何が起きても全ての責任を当事者が持つ、という安易ながらも中々に効力を秘めている予防線だ。
その紙が、一体なんだというのだろうか。賢護は瑠璃の言葉を待つ。
「あなたは今、何を追い掛けに行ったのかな」
「……え?」
予想外と言えば予想外。しかし答えられない質問ではない。質問の意図は分からないが、即答出来たはずだった。
「……あれ?」
つい先程、外に出た。それは何か明確な目的があったからこその行動で、気紛れなものではない。瑠璃の言う通り、何かを追い掛けに行ったのだ。
しかし、何も思い出せない。何を追いかけていたのか。何故追いかけていたのか。
まるで、霧を掴むようにその回想は無駄で、しばらく考えても、何一つとして思い出せなかった。
「さっき、お客さんが来たの、覚えてる?」
「客……?」
そのことすら、曖昧だ。もし来ていたのなら恐らくそれが原因で、外に出たのだろう。ただそれを聞かされても、そのことに思い至っても、記憶から新しいヒントを貰うことはない。
「その客、マスクをして全身黒尽くめの怪しい男ね。その人がお金を払う前に、商品を持って逃げたの。で、賢護君がそれを追いかけて行った。どう? 思い出した?」
「えーっと……、ああ!!」
ようやく思い出せた。確かいかにも怪しい、尚且つ危険な雰囲気の男が、試しに商品を使い、その後逃げ出したのだ。それで追いかけたが、結局捕まえられず今に至る。
時間にしてたった五分前の出来事。それすら覚えていないことに自分の頭が暑さにやられたかと心配になるが、瑠璃はそれに対し嬉しそうに笑う。
「思い出せてよかった。私一人憶えてるって、馬鹿みたいだもん。まあそれはそれであのスプレーの効き目が絶大だ、っていうことになるんだけどね」
「あ、そういえばスプレーを取られたんだったな」
「そう。さっき説明したとおり、あのスプレーには物事の痕跡を消す作用がある。人の記憶から消えるし、物理的証拠も、盲目したみたいにみえなくなるの。それは、賢護君自身が一番理解出来てると思うけど」
たった五分前のことさえも、思い出せなくなる。店に誰が来て、何を話し、何を欲したのか。そしてどうなったのか。その記憶には何も残っていない。賢護は身を以てその力を実感した。
「スプレーを試させなけりゃ……」
「流石に試用ぐらいはさせないとね。それに、後悔してももう遅いかな。私みたいに、賢護君がそのスプレーのことを深く知ってたら話は違ってきたかもだけど。もう、あのスプレーはあの人の物なの」
幾らでも後悔の念が生まれるが、そのどれもが役に立たない。どう足掻いても、自分たちは泣き寝入りをするしかないのだ。
逃げた男と、自分自身に対して怒りを覚えるが、それを察したのか瑠璃の口調が子供を宥めるそれになる。
「ここには色んな人が来るよね。目的も、願いも、全員違う人たちが。でも叶えたい願いがある、それだけは皆共通してる。私達の仕事は、その願いを、出来る範囲を以て叶えてあげること。その過程がどうであれ、結果その人達の目的を達せられれば、それを良しとするんだよ」
優しい瞳で覗きこまれる。
賢護も、そうだった。願いを叶えてもらったのだ。夢だって、幻だって、ここは叶えてくれる場所だ。
「それが、願いを叶える場所、夢幻堂なんだから」
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