第一話 8/9
霧が立ち込める夜の路地裏、篝火の淡い明かりさえも靄に飲まれてぼんやりと輝く。
湿った地面の上に、かすかな足音を立て、アオは立つ。
街歩きで鍛えあげられ引き締まった身体が、冷たい夜気を感じながらも、まるで彫像のように、静かに無表情に佇む。
彼女の青く鋭い視線は、目の前に立ちはだかる、怪獣を睨みつけていた。
†††
その怪獣は、まるで海の底から街中に紛れ込んだような異形の存在だった。
その大きさは自販機程度と、さほどでもないが、その姿は不気味で異様。
頭の二本の触覚が、作り物めいた規則的な動作で蠢く。
ぬらりとした表皮。一見、頭と腕の生えた大きな座布団のように見えるが、こいつは歴としたとした一つの命だ。
怪獣の周囲の地面に、じわりとシミが広がってゆく。
アオは浅く息を吸って、吐き、呼吸を整える。
彼女は、一見すると無防備で、丸腰のように見えた。
しかし、その鍛え抜かれ、しなやかな曲線を描く腕と拳には、幾多の喧嘩で鍛え上げられた破壊的な力が秘められている。
地元高校ではヤンキーとして名を馳せ、怪獣と対峙することすら日常となった彼女は、目の前の獣と静かに向き合う。
互いに一歩も譲らぬ緊迫の瞬間が訪れる。
しかし、彼女は怯むどころか、無造作に前に踏み出した。
次の瞬間、まるで時間が止まったかのように、彼女の手刀が怪獣の肩口に正確に叩き込まれる。鋭い一撃に、怪獣は一瞬体勢を崩す、彼女の静かな狂気が空気を支配した。
†††
しかし、腐っても怪獣は怪獣だった。
鞭のようにしなる角が瞬く間に襲いかかる。
アオは身を翻すが、その一瞬の隙をつかれ、角で足を絡め取られて地面に引き倒れた。
アオは歯を食い縛り、反撃しようと脚を振り上げたが、怪獣の粘液が彼女の足を固め、動きを封じた。
鞭のようにしなり、次々と襲いかかる打撃は、彼女の肉体を痛めつけ、体力を奪っていく。息が詰まり、視界が暗くなる、彼女の体は徐々に動かなくなっていった。
静寂が訪れる。
怪獣は、無言の勝利を宣言するかのようにゆっくりと、その角をほどき、アオの体をペッ!と地面に放り捨てた。
彼女の瞼は閉じられ、その静けさはまるで命の鼓動が止まったかのように、深い静寂を漂わせている。
閉じた長いまつ毛も、きつく結ばれた唇も、まるで眠り姫のように清楚で美しい。
霧はさらに濃さを増し、彼女の亡骸を包み込むかのように広がっていった。
†††
霧の奥から、何かが弾ける音が聞こえた。
その音は、まるで何かが目覚めのようだった。アオの体が、わずかに動く。
次いで、全身から霧よりも冷たい「何か」が溢れ出し、彼女の目が開かれた。かつての輝きはなく、その代わりに虚ろな、しかし確固たる意志を宿した瞳が、怪獣を捉える。
アオは、ゆっくりと立ち上がった。彼女の体は、もう生者のものではなかった。皮膚は青白く、血の気を失っていたが、その姿には異様な力が宿っていた。
彼女の動きは緩慢で、だが確実に、ウミウシに向かって歩みを進めていく。
怪獣は何かを察知したかのように身を引こうとしたが、もう遅い。
アオの手が、まるで何かに引き寄せられるようにウミウシの触角を掴んだ。
粘着液が再び彼女の肌を焼きつけるが、娘はもう痛みを感じない。無感情な瞳でウミウシを見つめながら、彼女は力強くその角をへし折った。
怪獣がのたうち回るが、アオは容赦しない。彼女の拳が、何度も、何度も、ウミウシ怪獣の柔らかい体に打ち込まれる。
湿った音とともに体表が飛び散り、怪獣の体は徐々に砕かれていく。アオの手は止まることがない。彼女は復讐の化身のように、執拗に怪物を打ち続けた。
やがて、ウミウシ怪獣は動かなくなった。ただのとなり、路地裏の石畳に広がった。娘はその上に立ち尽くし、何もない虚空を見つめていた。
霧は、彼女の姿を飲み込み、再び静寂が訪れた。
そしてその夜、路地裏には、もう誰もいなくなったかのような静けさだけが残された。
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