嘆きの羽化

憑弥山イタク

嘆きの羽化

 細い茎を這い、碧い葉を齧る。殻の外へ出たあの日から、来る日も来る日も葉を齧る。己を育て、いつかは華麗に羽撃く為に。

 或日、兄弟の一匹が喰われた。地と植物を這うしかできぬ、脆弱で矮小な我々には、巨大な捕食者に抗う術が無いのだ。猫の牙や鳥の嘴を恐れるが、体表の模様が奇抜なだけで、逃げることも、毒を呑ませる事もできない。喰われた兄弟は哀れだが、明日は我が身を避けるべく、私は葉の裏に隠れる。

 葉を齧り、齧り、齧り、気付けば私の体重で葉が折れた。兄弟が最初に喰われた日より、私は随分と成長した。生きる術を模索し、喰われぬ策を試す。葉の裏に隠れることが難しくなった今、私は茂る草木に頼る。

 兄弟や仲間とは疾うに離別し、死したのかも喰われたのかも分からない。仮に分かったとて、恐らく私は何も思わぬ。生きて叶えた再会を喜ぶことも、死した仲間を想うこともないのだろう。憐憫では腹は膨れぬと理解しているのは、きっと私だけではない。

 成長の中で、私は地を這うことを辞めた。成虫へ至る行程として、蛹になったのだ。

 蛹になれば、後は羽化して羽撃くのみ。気が遠くなる程に憧れた、薄羽で舞い踊る蝶になれる。茎や葉にしがみつく無様な姿を捨て去り、身の丈を超える鮮やかな羽根を誇示できる。幼虫には贅沢過ぎる、絢爛な羽根で空を舞える。幾度も命を狙ってきた、あの忌まわしい四足歩行動物共を見返す程に、高く、高く飛べる。そしてあの忌まわしい鳥類共を見返す程に、ゆらゆらと、陽炎が如く動きを魅せられる。

 ああ、期待してしまう。

 羽根の色は青だろうか。緑だろうか。黄だろうか。或いはそれらの全てだろうか。

 早く、早く羽撃きたい。幼虫時代を強く生きたのだ、きっと私の羽根は、今まで見てきたどの蝶よりも美しい筈だ。私の姿を見た人間共は、きっと私を生きた宝玉と喩えるのだろう。

 そして遂に───────────羽化をした!

 蛹の殻を捨て去り、私は遂に、羽を得た。

 私は、飛翔した。遙か彼方に思えた大空が、途端に近く見えた。

 空を飛べば、自由さえも得た気がした。否、私は生まれながらにして自由だった。生きる為に葉を齧ったことも自由な判断であり、生きる為に葉の裏に隠れたことも自由な判断だった。羽化を諦め、絶食の末に飢え死ぬこともできた。

 私は自由だった。そして、ただの幼虫から蛹を経て、蝶となった今、私は自由を自覚して羽撃ける。

 ああ!

 なんと素晴らしい日なのだろうか!

 羽化し、自由に羽撃く私を見て、人々は眉を顰めた。きっと、自分達には無い美しい羽根を見て、無様にも嫉妬しているのだろう。

 なんという愉悦───私は遂に、人間さえも手の届かぬ存在となってしまった。

 さてさて、私はもう自由だ。次は……そうだな。この私の優秀且つ美麗な遺伝子を残すべく、雌の蝶を探しに行こう。私に釣り合うような、上質な美しさを持つ雌のところへ──────────。


 鬱陶しい蛾だな……。

 人々は、彼を睨んで呟いた。

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