第5話 あんた、または、千の幸いの子
歩き出す。
「あんた、はじめてわたしのこと、あんた、って呼んでくれたね」
「はい?」
いや、そんな呼びかたをした覚えはないけれど、でも呼んでいたかも知れない。
「よかったら、名まえ、教えてくれる? もちろん、よかったら、だけど」
「ああ」
いまでさえ、この子について行くと、どこか人気のないところに四‐五人の瑞城の子が待ちかまえていて、雨のなかで鞄を取り上げられたり突き転ばされたりして、お金やだいじなものを取られてなぶりものにされるんじゃないかと恐れている。
たとえば、その数万円する電子辞書とかを。
そんな瑞城の子に名まえを教えれば、なりすまされて、その名まえでネットにいやらしいことや下品なことを書かれるんじゃないだろうか。
でも、やっぱり、傘に入れてもらって他人行儀はしたくなかった。
「
「澄野……愛……だけど」
「どんな字?」
無遠慮にきいてくる。
今度こそ、断りたい。
「水が澄む、の澄む、に、野原の野、それに愛するの愛」
「うわぁきれいな名まえっ!」
相手の子は胸から上を揺すって大げさに感心し、愛の顔をじろじろ見た。
「一つも、なんて言うの、一つも否定的な字がないじゃない!」
思わず顔を逸らしてしまう。
こういうときには、自信なさげに「名前負け、してます」とか言ったほうがいいのだろうか?
そして、相手の名まえも聞いたほうがいいのだろうか?
でも、「あんたの」ときく? それとも「あなたの」?
「あんた」は
でも、愛がきく前に、相手から名のった。
「わたしはね、
「ああ」
千の幸いの子?
「そのほうがいい名まえじゃない? 千の幸いって!」
愛が千幸子の顔を見上げて言う。
「よくないよ」
千幸子は言い返した。
「まあ、千の幸いはいいと思うんだ。妹が「
また、くすっと笑う。
「でもさ、その幸いとかをさ、倉に入れて垣で囲って閉じこめてるんだよ? あんまり印象よくないと思うんだけどなぁ」
「それだけだいじにしてるってことじゃない? 悪いほうばっかりにとっちゃだめだよ」
「いいこと言うじゃない、優等生!」
言うと、千幸子は、左手に傘を持ち替えると、空いた右手で、ぼんっ、と愛の背中をたたいた。
力が強い。痛みがしばらく残る。
その愛を見て、千幸子は、今度は、くすすっ、ではなく、大きい声で豪快に笑った。
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