第二話【六月十日(土) 相馬葵】

 翌日の兄さんは朝食の時間になっても、部屋から出てこなかった。せっかくの休日だから、どこかへ遊びに行ってもいいのに。お疲れの人を連れまわすわけにはいかないか。

 私はこの休日はフォーチューンに集中することにしている。

 人と懇ろの関係になるには、行動を共にして沢山言葉を交わす。けれどもマッチングアプリでは、最初からプロフィールに趣味や性格が公開されている。

身長、年収欄も職業欄もある。(将来子どもが欲しいか欲しくないかの選択肢まである!)

 まるで外見も込みのスペックを書いた履歴書のようだ。

 いいねを押してくれた方々のプロフィールを拝見すると、世の中には様々なタイプの男の人がいると分かる。休日はカフェでまったりしている人、海外旅行に頻繁に行く人、激務で癒しを求めている人……。

 私はスマホをベッドに放って溜息を吐いた。一時間向き合っただけで、勉強よりも疲れを感じる。

 いいねを返してマッチングが成立しても、相手と波長が合わずにチャットのラリーが続かない。心も弾まない。兄さんのような人がいたら話しやすいのに。

 そもそも私が夢見ていた恋は、好きになる前提で進むものなのかな。

 ピコン。放ったスマホから通知音が鳴った。誰かにいいねをされると、通知音が鳴るように設定していた。

 いいねをしてくれた男性のプロフィールを見た。髪は刈り上げていて、体格はがっしりとしている。兄さんと似ている。顔は不鮮明でアップでもよく分からない。登録名はS.S。

 職業は教師、年収400万円。一人暮らし、趣味はスポーツ観戦ならびに柔道。

 私はサブ写真を見た。メインとなるプロフィール写真の他に、何枚か写真を登録できるのだ。大抵の人は自分の趣味や、旅行先の写真を載せている。

 そのなかの一枚の写真に私は釘付けになった。

 その男性は力強い笑みを浮かべて、柔道着でトロフィーを高々と掲げている。兄さんと似ているというか、兄さん本人ではありませんか。

 私は穴が開くほど、その写真を見つめた。大学の柔道の大会で、兄さんは入賞したのだ。私が撮ったのだから、よく覚えている。

 S.Sのプロフィールに今週入会済と付記されていた。一週間以内に入会したユーザーはそう付記される。S.Sがいいねされた数は0だった。

 妹を心配する一心で始めたのか、自分もまたマッチングアプリを始めたくなったのか。


 私はとりあえずS.Sにいいねを返して、その足で兄さんの部屋に行った。

 兄さんの部屋のドアを叩く。彼が実家を出ても、部屋はそのままの状態で保たれていて、柔道関係のトロフィーが飾ってある。

「蒼太兄さーん!」

 返事なし。

 私はフォーチューンから、S.Sにメッセージを送った。

『ちょっと、なんなのよー』

『もう心配しすぎだって』

 メッセージに既読がついた。ならば起きているんだ。

 私は再度ドアをノックした。

「なんだよ……」

 兄さんは寝間着姿で欠伸をして現れた。目の前にスマホを突き付けてやる。起きたての芝居をしたって、騙されないんだから。

「兄さん、いいねしないでよ! もう心配しすぎだって!」

「いいね? なんのことだ?」

 しらばっくれる兄さんに、S.Sのプロフィール画面を見せた。これが兄さんだったら誰だというのだ。

 寝ぼけ眼だった兄さんは、次第に恐ろしく真剣な表情になった。

「葵。これは俺じゃない」

「兄さんじゃない? だったら誰だっていうの」

「なりすましだ」

 なりすまし。なりすまし? 一体どうして? なんの目的が?

「いいえ、このアカウントは兄さんのものだよ! これ見てよ。本人確認済でしょう!」

 私はS.Sのプロフィール画面を、兄さん本人に見せた。

フォーチューンを始める前に、運営から顔写真つきの身分証の提出を義務付けられる。全ユーザーが対象だ。

 本人確認は顔写真付きの身分証の写真を送信すれば、すぐに終わる。簡単だ。

 そういった手続きを踏んで、全ユーザーはマッチングアプリを利用しているものだから、私は兄さんのアカウントだと信じて疑わなかった。

「ありえない。そもそも俺はとっくにフォーチューンを、アンインストールしたよ」

 兄さんはスマホの画面を私に見せた。インストールしたアプリが画面上に広がっていて、見づらい。

「ちょっと触るね!」

「ああ」

 設定からアプリ一覧を開く。五十音順にさかのぼっても、マッチングアプリのアイコンはなかった。

 兄さんにスマホを返す前に、ポケットに突っ込んだ私のスマホが鳴る。

 S.Sからメッセージが届いていた。


『今、起きたよ笑』

『休日だから寝かせろよな』

『葵は騒がしいな』


 私は兄さんのスマホを凝視した。兄さんは何もしていない。

「クソッ、なんだこれ!」

 兄さんは壁に穴を開ける勢いで、拳を叩きつけた。苛立つと兄さんは物に当たってしまう。

「落ち着いて」

 私は兄さんを宥める。何か理解の範疇を超える出来事が起こっている。

「……これは俺たちじゃ手に負えない」

 落ち着きを取り戻した兄さんは、どこかに電話をかけ始めた。

「分かった。助かる。じゃあ今からいいか? 一旦切る」

 親しげな口調からして友人かな? 兄さんの交友関係で、顔と名前が一致している人はあまりいない。幼馴染の瀬川さんくらいだ。

「なんとかなりそうだぞ」

「本当!?」

 私は声を弾ませた。兄さんにはいつものような自信が戻ってきていた。

「大学の友人にインターネット全般に詳しいやつがいる。事情を話したら、協力してくれるそうだ。今からそいつも交えて対策を立てる」

「そ、それは男の人……だよね?」

 つい、くだらないことを口走ってしまう。

「俺に女の知り合いはいない。三人で話した方が話はスムーズだ。いいか?」

 私は頷いた。

「ずっと廊下にいさせるもなんだし、入れよ」

 兄さんの部屋にお邪魔する。室内は清潔に保たれていて、埃が積もっていない。たまに掃除をしに入っていて、よかった。

私は兄さんと並んでベッドに腰掛けた。

「じゃあ、電話かけるからな。何か聞かれたら、最低限答えるくらいでいいから」

「分かった」

 兄さんが頼もしい。大きな背中が、また私を守ってくれているのを感じる。

 

『初めまして、事情は聞いています。塩尻俊しおじりしゅんです』

兄さんの友人の塩尻さんの声はとても温かかった。

相馬そうま葵です。このたびはすみません、その……」

 私は口ごもる。マッチングアプリのことを説明するのが恥ずかしかった。

「気にするな。塩尻、事情はさっき軽く説明した通りだ」

『マッチングアプリで相馬になりすましたアカウントが、葵さんに接触してきたと』

「そうだ」

『葵さん、マッチングアプリの名前を教えて』

「フォーチューンです」

 スマホの向こうからキーボードの打鍵音が聞こえる。

 私は恐る恐るフォーチューンを開いた。あれから何もメッセージは届いておらず、スマホは不気味な沈黙を保っていた。

『そしてなりすましたアカウントには、本人確認済の認証がついていたと……相馬、すぐに所持品を調べてくれ』

「俺が?」

『身分証明書、クレジットカード、パソコン、スマホ、悪用されると困るものを全部調べて』


 相馬さんは優しい口調で有無を言わさずに言った。兄さんはボディバッグを逆さまにして、中身をベッドにぶちまける。革の長財布とポケットティッシュ、ガム。兄さんは身軽な格好で帰省したようだ。実家の兄さんの部屋に、衣服や下着は揃っている。

「パソコンなんて、今は持っていないぞ」

『そうか。ひとまず今あるだけのものを確認しよう』

 兄さんは財布の中身を検分する。お札は一万円札が三枚と、五千円札が一枚。クレジットカードが数枚あった。

『写真付き身分証明書はあった?』

「ああ、運転免許証とマイナンバーカードがある」

 運転免許証は先月更新されていて、マイナンバーカードは兄さんが大学生の時に作成されていた。よくよく見ると、マイナンバーカードの有効期限は去年で失効していた。

「兄さん、有効期限」

「あー、忙しくて更新するの忘れてた」

『フォーチューンの利用規約では、有効期限が切れている本人確認書類は、本人確認の認証の審査段階で弾かれるんだって。つまりフォーチューン上ではそのマイナンバーカードは悪用されていないってこと』

 と、塩尻さんが調べてくれている。

 兄さんはマイナンバーカードを裏返したり、また表に返したりしてほうっと息をついた。

「自分のずぼらさに救われたってわけだ。更新しなくちゃいけないのには変わらんが」

『他に写真つきの身分証明書はある?』


 兄さんは思い出したように戸棚を開けた。パスポートが戸棚の引き出しに入れっぱなしになっている。

 臙脂色のパスポートを開くと、高校生頃の兄さんの写真が載っている。これもまた、有効期限が二年前に過ぎていた。

「パスポートも有効期限切れだ」

『となると、悪用されたのは運転免許証の可能性が高いな。写真付きの身分証明書を偽造すると、すぐに分かる。偽造の線はないだろう。相馬の運転免許証の更新は先月。なりすましアカウントが免許証を手に入れたのも、この一か月以内ということだね。心当たりはあるかい?』

「覚えはないな」

 兄さんは小さく貧乏ゆすりをしだした。

 兄さんは嘘を吐く前に、貧乏ゆすりをする癖がある。

 心当たりがあるのに、なぜ覚えがないと嘘を吐いたんだろう。気になったが、話は先に進んでいく。

『運転免許証を悪用されたら、携帯電話の契約・架空の銀行口座の作成などなど、犯罪の足掛かりになる……相馬の免許証を手に入れたやつは、どうして免許証をまた返したのかな。免許証を返さない方が、色々な犯罪に使えたのに妙だな』

「犯人は腰抜けの間抜けだ」

 と、兄さんはふんぞり返る。

『狙いが分からなくて不気味だ。葵さんは大丈夫かい? とにかく早く警察に届け出よう』

 塩尻さんが男友達に対する声色から意図して変えて、私に声をかけた。


「……ぞっとしました。でも、犯人を警察に突き出す前に、私は話してみたいです」

 人生で一番背筋が凍った。

 兄さんがマッチングアプリにはろくな人間がいない、と毒を吐いていた意味が少し分かった。誰かを騙そうとする人間もいるのだ。

 でもだからこそ、なりすましを野放してはいけない。兄さんの免許証を盗み、どうして私に接触を図ってきたのか、得体の知れないままで終わらせてはいけないと思った。


「私はS.Sがなぜ兄さんになりすましたのか知りたい。そして捕まえたいです」


「葵、よく言った!」

 兄さんは私の肩を強く叩いた。痛い。

「それでこそ、俺の妹だ。てなわけで塩尻、ハッキングで犯人をぱぱっと特定してくれ」

『漫画じゃないから、そんなことできないよ』

 一つ、名案を思い付いた。私はその名案を二人に話す。

『危険だよ』

「そのやり方なら犯人を割り出せるだろうが、危険だぞ」

 塩尻さんは反対し、兄さんは私の案に利点を見出しつつ反対した。

「S.Sの正体を割り出すには、このやり方が確実だと思います。大丈夫です」

 私はきっぱりと主張し、最終的に兄さんたちは折れた。こんなに自分の意見を押し通したのは生まれて初めてかもしれない。

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