なりすまし

泉野帳

第一話【六月九日(金) 相馬葵】


 今夜、両親が旅行へ行ったのと入れ違いに、兄さんが実家に帰ってくる。

 私がマッチングアプリを始めたと知ったら、蒼太そうた兄さんは驚くだろうな。

 兄さんが就職を期に一人暮らしを始めてから、父と母と私の暮らしは平穏そのものだった。悪く言うなら退屈だ。

 中高の六年を女の園で過ごし、推薦入学した女子大も特段の真新しさはない。

慎ましく、穏やかな日々だった。

 恵まれた環境になんの不満もないのだけれど、そう、恋をしてみたい。

 私はロマンス小説や少女漫画を通してしか恋を知らない。

 恋は全身が激しく燃えるように熱く、胸の内が千々に切り裂かれるほど苦しいというのは誠だろうか。

 唯一、家族以外で話す男の人は、近所に住む瀬川誠一郎せがわせいいちろうさん。兄さんと同い年で、子どもの頃は三人でよく遊んでいた。今は顔を合わせたら世間話をする程度の仲だ。

 友人の誘いで合コンに行ったことはある。私は未成年だったのに、泥酔した男の人にお酒を飲まされそうになって、途中で切り上げた。それ以降合コンに行く気は失せた。

 合コンに行かない、女子大で、バイトもしていなくて出会いもない。八方塞がりで絶望していると、兄さんが昔マッチングアプリをやっていたことを思い出した。

 この広いネットの海ならば、私の運命の人がいるに違いない。


「マッチングアプリを始めた⁉ あおいが?」

 蒼太兄さんは箸から大豆をつるんと落として、ぽかんと大きなお口を開けた。母がタッパーに作り置きしてくれたおかずたちを、私たち兄妹は食べている。

 予想通りの反応をしてくれて、ありがとう。

「そろそろ私も恋をしてみたいの」

「恋ってお前な……マッチングアプリはやめとけよ!」

「兄さんもやっていたでしょう。ふふ、もうこんなにいいねが」

 いいねを送って、いいねをお返ししたらお相手とマッチングする。マッチングすると、アプリ上でお相手とチャットができる。チャットで気が合えば、連絡先を交換するなり電話をして、やがては実際にお相手と会う。

 私が始めたマッチングアプリはフォーチューンという。会員数が一番多いらしい。

見栄えのいい写真を選んで、プロフィールのアイコンに登録した。お気に入りの赤いティアードワンピースを着て、気取って笑ってみせている写真だ。

 男の人からの反応は、いいねの数が物語っていた。上々だ。

「いいか、マッチングアプリは危ないぞ。約束はドタキャンされるは宗教勧誘・マルチ商法……キリがない。自分の身は自分で守らなきゃいかんぞ」

「平気だよ。いいねをくれた男性のプロフィールは丁寧に読んで判断しているもの」

「本当かよ」

 兄さんは勝手に私のスマホを取って操作しようとする。私は兄さんの手からスマホを奪い返した。

「過保護だよ! 大丈夫だって」

「……それならいいんだが」

 兄さんは納得していない様子で、私の瞳を覗き込んだ。昔から私を守ってくれる優しい兄さん。大学で教員免許を取り、一昨年から中学校教師となった。今年からは生活指導を担当し、不良生徒にも臆せずに立ち向かっている。

 今の私は兄さんにとって、問題のある生徒と同じなのかな。

 いつまでも兄さんが手を引いてくれるわけじゃない。寂しいけれど、自立しなきゃ。


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