惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 買い物を終え、夫と一緒にマンションに帰ってきて、私はエレベータが来るを待っている。乗場モニターを見ると男がひとり、エレベータに乗り込むのが見えた。男は行先ボタンを押し、そのまま壁に寄りかかるようにして立つ。

 おや、と私は思う。 

 モニターに映った男(後頭部と背中しか見えないのだけれど)は、夫にとてもよく似ている。いや、似ているというレベルでは無かった。モニター越しに見るその男はまるで夫そのものだった。髪型(本人は気づいていないかもしれないが、ちょっとつむじのあたりが出会った頃より薄くなっている)もそう、背丈や立ち姿もそう、ちょっと丸まった猫背もそう、寄りかかった壁に頭をあずける時の首の角度なんかにも見覚えがある。いま夫が隣にいなければ、私はまず間違いなく、自分の夫がエレベータに乗ってこちらに降りてきているのだと確信をもって言えるほど、モニターに映る男の後ろ姿は私の夫にそっくりだったのだ。

 私は隣にいる夫をそっと見た。彼はスマートフォンの画面をじっと見ていて、私の視線にも、モニターに映る男にも気づいていなかった。ちょっと面白いので、このままエレベータが降りてくるまで黙っていようと思い、私は再びモニターに視線を戻した。男は相変わらず壁に重心をあずけて立っていた。私はもう一度、隣にいる夫を見た。横顔から肩から足元に至るまでをまじまじと見つめ、それからモニターの男を見た。

 濃い紺のシャツに、黒のチノパン。靴は……よく見えないが、どうも同じような色のスニーカー。モニターに映る男は、私の夫と全く同じ格好をしていた。

 急に足元の床が消えた気がした。心臓がばくん・ばくんと音を立てた。

 あの男と夫とを出会わせてはいけないという考えが、突然私の中に強く湧き上がってきた。

 エレベータはもう4階まで降りてきていた。私は夫の肘を掴んで、「ねぇ、ちょっと」と引っ張った。

「ん? なに」スマートフォンから眼を離さずに夫が生返事をする。

「いや──」何か、上手い言い訳は……「──ちょっと、忘れ物……」

 夫は面倒くさそうにスマートフォンをお尻のポケットにしまうと、右の脇ポケットから車のキーを取り出す。

「いや、そうじゃなくて……そう、買い忘れ」

「なに?」

「何? なんだろう、ええと明日の、だから──」

 そこでエレベータの扉が開いた。


 *


 人を見た目で判断するなといった話があると思う。

 私もおおむね、見た目だけで人を判断しないように努力している(母はよくテレビに出てくる人の顔を見て、断定的な口調でその人がどういう種類の人間なのか──それはたいていの場合、悪口であった──を話すことが多かった。私はそれがとても嫌だった)。

 しかしそれでも、人の見た目というか、特に顔つき(顔ではなく)には、その人となりみたいなものが否が応でも滲み出る、そう思わずにはいられない出来事が、これまでの人生のなかでたびたびあった(つまり、第一印象と、その後付き合うなかでのその人に対する評価とに、幾分の乖離も見られないということ)。

 人間の顔つきには、少なからず、その人の人格というか、どんな風に生きてきたかのかとか、大げさに言えば本質、あるいはその影のようなものが立ち現れる、と私は考える。


 *


 エレベータの中にいた男の顔つきを、そこに現れる影を見たときにこう思った。彼は私の夫そのものだ、と。

 服装や背格好や、あるいは「顔がそっくり」なだけなら、もしかすると夫が隠していただけで(あるいは知らず生き別れた)双子の兄か弟が突然現れたとか、「ものすごくそっくりな人」(この世には少なくとも3人はそういう人がいるらしいけれど)、と考えることもできたかもしれない(それだって十分突飛ではあるけれど、可能性として無くはないと思う)。だけどその男の顔つき──滲み出る何か──は、あまりにも私の夫そのものだった。夫と全く同じように生きて、全く同じような経験をして、全く同じようにものを考えてきた人間の顔つき、そのものだった。

 時間にすればほんの数秒、私と夫、そして彼とは、エレベータの内と外で向き合っていた。私がいること(そしてエレベータの中の彼の隣に私がいないこと)を除けば、一人の男が鏡を前に立っているように見えたかもしれない。彼は私を見て(私はたぶんとても大きく目を見開いて彼のことを見ていたと思う)、次に夫のほうを見た。彼はただ、本当にただ、夫を見た。それだけだっだ。そこには驚きも何らかの感銘も無かった。感情の揺らぎみたいなものはただの一つもなかった。とても静かな部屋の、がたつきも凸凹も一切ないテーブルの均質な天板に置かれたコップの中になみなみと注がれた水の表面のようだった。

 そんな風に、彼はただ夫を見ていたのだ。

 私は夫を見た。夫もまた彼を見ていた。その二つの目で、確実に見ていた。そして夫もまた、エレベータのなかの彼と全く同じだった。コップの中の水面。微塵の驚きも無かった。二人はただ、目の前にいる自分自身を、鏡でも見るようにただ見ていた。

 彼がエレベータを降り、私と夫が乗る際に、彼ら二人は互いにぶつからないよう身体をちょっと斜めに向けた。会釈さえしなかった。二人はただ、身体をちょっと斜めに捻っただけだった。

 エレベータに乗っているあいだ、私と夫は口をきかなかった。私はついさっきの出来事について考えていた。そのあいだ、夫はまっすぐ前を向いてじっと扉を見つめていた。そんな夫を見ていると、まるでさっきの出来事が私の気のせいなのではないかという気さえしてきた。

 ごおん・ごおん、とエレベータが上に向かって吊られてゆく小さな音が、四方を囲う壁の外側からこちら側に漏れ伝わってきた。

「あの、さっきの……」と私が小さな声で呟いたのと同時に、エレベータの扉が開いた。


 その日、夕食を食べ、映画を一本見て(ひどい映画ではあったけれど、日曜の夜に家で見るぶんにはちょうど良いひどさの映画だった)、お風呂から出てベットに入るまでのあいだ、結局私はエレベータでの出来事について夫とまともに話すことは無かった。実際には何度か話そうとしたし、彼がお風呂から出てきたタイミングで「今日の、エレベータの男のひとなんだけど」と切り出しもした。夫は私を見ながらごしごしと力を込めて髪を拭き、「ああ、そういえば、何か買い忘れたんだっけ?」と話し始めた。それがあんまりにも自然に、なんのやましさらしいものも、後ろめたさらしいものも見せずに、まるでレーンの上をなめらかに転がるボーリング球のように話し始めたものだから、私もそれを遮ってまで話を元に戻すことができなかった。

 夫はエレベータのあの男の話題を意図的に避けたのだろうか? だとすると何故? もしかすると、あの男と夫との間には何か私の知らない秘密があるのかもしれない。それはどんな秘密だろうか? ベットの中で目を瞑りながら、それについてちょっと考えてみたものの、上手く想像することができなかった。合理的な理由が考えつかなかった訳でも、出鱈目な、馬鹿馬鹿しい事情を思いつけなかった訳でもない。ただ単に、想像ができなかっただけだ。エレベータの男や夫の態度は、秘密を抱えている共犯者というよりは、むしろ……盲点。互いが互いの盲点にいるような、そんな、とても奇妙な感じだった。

 そのこと自体は、いったい何を意味するのだろうか?

 そして私はどうすべきだったのだろうか?

 寝返りを打って隣を見ると夫の背中が見えた。寝つきの良い彼が羨ましかった。私はその背中をそっと撫でてみた。隆起した背筋のあいだに、ごつごつとした背骨の感触があった。


 それから数カ月のあいだ、エレベータに乗るたびに私は夫そっくりなあの男のことを思い出した。幸か不幸か、私一人の時も、夫と一緒の時も、私があの男を見かけることは無かった。もしかすると彼はたまたまこのマンションの誰かに用事があって、たまたま私たちと鉢合わせただけだったのかもしれない。

 結局、夫とはそのことについて一度も話さず仕舞いだった。一年も経つ頃には、私はエレベータでの出来事そのものをすっかり忘れていた。


 *


 夫が一週間ほど海外へ出張に出かけた。

 私ひとりなので、オフィスから帰宅途中でファミレスに寄って簡単に夕食を済ませた。

 ウチに戻って玄関扉を開けると、リビングの明かりがついているのが見えた。ついでにテレビの音も漏れ聞こえてくる。つけっぱなしにしていたのかな、と思いつつ、私は傘立てから夫の黒い蝙蝠傘をそっと引っ張り出し、手首で軽く振って感触を確かめる。そしてしっかりと両手で握り、静かにリビングへ向かう。ドアハンドルに手をかけ、ゆっくりと回して開く。

 テレビの画面では昔のスパイ映画が流れている。その正面のソファに人影がある。その人影がこちらに振り向く。

「うわっ、えっ? なに、傘なんか持って」

 パジャマ姿の夫がソファに座ったままそう言うと、手に持った缶ビールをんっぐと一口飲んだ。急に体の力が抜けて、私は振りかざした蝙蝠傘を床に落とした。

「だて、出張だって言ってたから……」

 夫は笑いながら、「ああ、ごめん、急に予定が繰り上がっちゃってさあ。連絡いれたんだけど」

 私はスマートフォンを確かめ、「来てないけど……」と、ちょっと恨みがましく言う。ええ? と夫が声を上げて自分のスマートフォンを取り出して、

「あ、ごめん、送れてなかった」

 ブブブ、と私のてのひらでスマートフォンが震え、夫からのメッセージが表示された。私は溜息をついた。


 お風呂から出て冷蔵庫を開けたところで「ごめん、俺にも、もう一本」とリビングから夫の声がする。既に酒を飲んでいるせいだろうか、いつもより明るい声色だった。500mlの缶ビールを二本持ってリビングに行き、夫の隣に座る。タブを開けるとぷしゅり、と白い泡が漏れ出てきた。「お疲れ」と言って夫が私の持っている缶を自身の缶で軽くこづく。私も「お疲れさま」と言う。泡が私の太腿あたりに数滴、ぽとぽとと落ちた。

「どうだったの、出張。上手くいった?」と聞くと、

「ん? んん……」

 夫はんっぐ、んっぐ、とビールを喉に流し込んでから、にやりと笑った。

 それから、二人で映画の続きを見た。話に深みがある訳でも無いけれど、押しつけがましくも難解でも無く、そして程よく金が掛けられた、つまりまあ、仕事終わりに夫婦で見るには丁度いい塩梅の映画だった。最後は都合よく主人公(彼は少し背が低い)と顔の良い女(ヒールは履いてないのだけれど、ひどく背が高い)がひしと抱き合って、500mlの缶ビールみたいなキスをした。夫も私もゲラゲラと笑いながらそのシーンを見た。

 そのあと、別にその映画にあてられたという訳でも無いのだけれど)、私たちはベットに行ってセックスをした。特に仲の悪い夫婦では無かったのだけれど、お互いの仕事が忙しく、ここ数年は自然とそんなことをする機会もすっかり無くなっていた。それだけに、久しぶりの性交は何だかとても不思議な感じがした。まるではじめての相手と抱き合っているような奇妙な感じだった。それでいて、その夜の性交自体は、私自身が記憶していたものより遥かによいものだった。年齢によって感じ方も変わるのだろうか? 私は彼に抱かれながらそんなことを考え、彼の背中を撫でた。隆起した背筋のあいだに、ごつごつとした背骨の感触があった。


 翌朝、私はコーヒーを飲みながら、テーブルを挟んで向かいに座ってスクランブルエッグをつつく彼の顔をまじまじと見つめた。彼の額や、額にかかる前髪や、眉やまぶた、ややブラウンがかった黒い瞳、耳たぶ、唇や顎、首筋や肩、手と指先なんかをじっくりと観察した。こんな風に、真正面から、じっくりと彼を見るのはいつ以来だろうか。

 そのときふとこう思った──私の夫は、本当にこんな顔つきをしていたのだろうか? と。

 彼の額はあんなに広かっただろうか(単に禿げかけているだけだろうか)? 眉の太さは? 首筋のあんなところにほくろはあっただろうか? 耳たぶの形はあれで良かったのだろうか? 鼻の高さは? 唇はあんな風だっただろうか? 指の太さや長さは? 昨日抱かれた時はどうだっただろう? 彼のペニスのかたちは? 私の手が撫でた彼の背中の感触は、私の夫のものだっただろうか?

 私の視線に気づいて、目の前の男が顔をあげてこちらを見た。

 重力がふっと消えたように足元の感覚が無くなった。ばくん・ばくんと心臓が早鐘を打つ。ごおん・ごおん、と、とても小さな音が、私の頭のなかで鳴り響いた。エレベータの、四方の壁の向こうから伝わる音だ。エレベータが止まると扉が開く。そこには夫がいる、あるいは──。

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