9 本邸隣りに迎えられる
秋が過ぎ、冬は一日から月末まで身分の上下を問わず忙しいものなので、あの人は来ずに私はほとんど独り寝で過ごしていた。
三月終わり頃、雁の卵が目に留まってこれを十個ずつ重ねて繋ぎ合わせてみようと、手遊びに絹糸を使ってひとつずつ結んでは括りを繰り返していくと、見事に美しく重なった。このままにしておくのはもったいないと、あの人の妹君の女御様に差し上げた。真っ白な卯の花にそれを結びつけた。特別なことは何も書かず、ただいつものお手紙のように書いて、端に『この十重なっているのは、こんなふうでも重なっていられるものなのですね。』と書き添えた。そのお返事に、
『数知れず君を思う心に比べれば 十重ねるのも大したことなし』
とあったので、そのご返事に、
『思いのほどを知らずにはかいもありません 返す返すも数が知りたいこと』
その後、皇子の五の宮様に差し上げなさったと聞いた。
五月になった。十日過ぎごろ内裏では帝のお薬のことで大騒ぎになっていたが、程もなく二十日過ぎにお隠れになり、代わって東宮様がすぐに御即位された。東宮の亮だったあの人は、御代が代わって蔵人頭に躍進し大騒ぎになっていたので、御崩御の悲しみは並一通りで、お祝いのことばかりあちこちから言いにやって来る。それに応対する私は少しは人並みにあの人の妻として認められたような気になれたけれど、心の奥では鬱屈した思いは変わらなかった。それなのに、目の前の生活は、打って変わったように人々が出入りして賑やかになっていた。
御陵やら何やら噂を聞いていると、お隠れになった前帝の時代にときめいていらした方々はどんなお気持ちでいらっしゃるのだろうと思ってたまらない気持ちになった。数日が経ち、あの人の妹で貞観殿の尚侍と呼ばれている登子様にお見舞いのお便りを書いたついでに、
『世の中を儚いものと御陵の 埋もれる山に嘆いているでしょう』
御返事はとても悲しげで、
『遅れまいと憂いみささぎに思いつめ 心は死出の山にあるようです』
登子様は、先帝の深いご寵愛を受けておられた方だった。
四十九日が終わり、七月になった。殿上人だった兵衛佐の藤原佐理様がまだ年もお若く、深く何かを思い詰めるなんてこともなさそうなのに、親も妻も捨てて比叡山に入って法師になったという。なんて痛ましいことと世間だは大騒ぎになって私の周りでもお気の毒なと噂をしていると、奥方もまた尼になったと聞いた。奥方とはこれまで幾度となく手紙をやりとりした仲だったので、本当に悲しくてあんまりなことと思ってお見舞いの手紙を出した。
『奥山を思うだけでも悲しいのに またあまぐもがかかるだなんて』
返事の手紙は、出家して尼になり俗世を離れてしまったけれど筆跡だけは以前のままだった。
『山深く入った人を訪ねられず 今もあまぐもはよそにいるのです』
と書いてあるのが悲しかった。
こんな世の中だったけれど、やれ中将になったとか三位に昇ったとかと昇進の喜びを重ねていたあの人は、
「別々に住んでいるのは支障が多くて不都合が多かったが、我が家の近くにちょうどいい邸が手に入ったから。」
と言って、私をその家に迎えた。乗り物がなくてもすぐに来られるほどの距離になったので、あの人も世間も私の思い通りになってさぞかし満足しているだろうと思っているようだった。十一月半ばのことだった。
年末ごろ、貞観殿の登子様が我が家の西の対に里下りなさった。大晦日の日に、宮中でするという弓矢で悪鬼を払う追儺の行事が西の対で行われていた。宮中から大勢の役人がやってきて昼間から弓を引く音やら何やら賑やかな様子が私のところまで伝わってくるので、思わずひとり笑みがこぼれた。元日になると西の対の役人は皆帰っていなかったので静かだった。私のところでも静かにのんびり過ごしていたが、本邸の方が正月で人も多く賑わっているのが聞こえて来たので、
「待たれるものは」
なんていう古歌を口ずさんで笑っていたら、そばにいた侍女が手遊びに作った、正月用の栗を糸でくくりつけて捧げ物に仕立てて、それを片方の肩に負わせた男の人形を持ってきた。私はそれに色紙を添えて、歌を書きつけたものを登子様に差し上げた。
『片おもいで苦しそうな山賤(やまがつ)に くるまがないとは思えませんが』
すると登子様からは、昆布を結い集めて薪に見立てたものを男の人形の片肩にたくさん担がせて、その人形をおもちゃの車に乗せて返してきた。見てみると、
『くるま待つ山賤の負う昆布を比べれば 片おもいは勝っているかと』
日が高くなったので、登子様は正月料理を召し上がったようだった。こちらでも同じようにして、十五日にも例年通り小豆粥を食べて過ごした。
三月になった。あの人から登子様に宛てたらしい手紙を間違えて私のところに持って来たことがあった。見ると、私のことを無視するわけにもいかないと思ったのか、『近いうちにお伺いしようとは思うけれど、『私でなくて』の古歌のように思う人がございますので』などと私を揶揄して書いてあった。普段から親しくしている兄妹仲なのでこんな遠慮のない言い方をしているのだろうと思うと見過ごせなくて、ごく小さく手紙の端に書きつけた。
『松山を超える波なんてないものを 私になぞらえて騒ぐ波だわ』
「これを登子様に持っていきなさい。」と言って渡した。登子様はすぐ返事をしてきた。
『松島の風にしたがう波ならば 寄る方にこそ思いは強いのでしょう』
登子様は東宮様の叔母君にあたり、東宮様のご生母亡き後、御親のようにして宮中にお仕えしていらしたので、やがて参内なさるようだった。
『このままお別れになるのかしら。』
などと度々登子様からお手紙が来て、
「ほんの少しだけでもいいから。」
とおっしゃって再三私を招くので宵の頃に参上した。せっかく登子様と一緒に過ごしている時に限って私の住む対の方であの人の声がしてくる。登子様が、
「さぁさぁ、もうお戻りなさいませ。」
と仰るけれど、聞き入れないでいると、
「幼子が宵泣きしているように聞こえますわよ。きっと駄々をこねられますわ。早く早く。」
と仰るので、
「乳母なしでも大丈夫ですわ。」
と言ってしぶっていると、私の侍女が歩み寄ってきて登子様に私を帰すよう催促するので、落ち着かなくて帰った。次の日の暮れどきに登子様は宮中に戻って行った。
五月に前帝の喪が明けたので、喪服を脱ぐといって登子様が里下りなさることになった。今回も私の方の西の対にお下がりなさる予定だったのが、登子様が不吉な夢をご覧になったということで本邸の方に里下りなさった。それから何度も不吉な夢のお告げがあったので、夢を違えたいといって、七月の月が明るい日にこんなふうにおっしゃってきた。
『見た夢を違えられない秋の夜は 眠れないものと思い知ります』
私からは、
『そのとおり夢を違えるのは難しい 会わずにいる私まで辛いのです』
すぐ御返事が来て、
『夢の中であなたと会って目覚めると かえって名残り恋しくなるのです』
と仰るので、私も、
『現実には行き来が絶えても夢の中では 通う路がありますものを』
登子様から、
『絶えるだなんて、何をおっしゃいます。まぁ、縁起でも無い。
会えないと悲しくあなたを思うのに そんな不吉に言ったりしないで』
とあったのには、
『お渡りがなくて遠方人(おちかたびと)になった身も 心ばかりはあなたのもとへ』
といったふうに夜通し歌を詠みあった。
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