7 兼家邸へ行く

 三月のこと、私の家にやってきていたときにあの人が急に苦しみ出した。どうしようもないくらい苦しみもがいて、大変なことになったと慌てふためいた。あの人が言うには、

「ここにずっと居たいと思うが、何をするにせよ不都合でならないので、自邸へ戻ろうと思う。薄情だと思わないでほしい。急だがこの先長くないように思われて、切なくてならない。あぁ、私が死んでしまっても思い出してもらえるようなことが何もないのが、心残りで悲しい。」

と言って泣いているのを見ると、動転してわけもわからず、私もまた大泣きしてしまったので、

「泣かないで。苦しいのがひどくなるから。何より辛いのは、思いがけなくこうして別れなければならなくなったことだ。私が死んでしまったら、あなたはどうなさるのか。独り身を通すなんてことはあるまいよ。再婚するとしても、喪が明けるまではしないでおくれ。もし死ななくても、これが最後だと思うのだ。生きていてもとてもこちらへは伺えまい。私が生きている限りは、どうなろうと私に寄りかかっていればいいと思っていたが、このまま死んだなら、これが最後の逢瀬となろう。」

などと、臥しながら悲しげに語っては泣くのだった。そこに居合わせていた侍女たちを皆呼び寄せて、

「こちらのお方をどんなに大切に申していたことが、お前たちはわかっているだろう。このまま死んでしまえば、もう二度とお会いできなくなると思うとたまらないのだ。」

と言うので、侍女たちはみんな泣いた。私は何も言葉が出なくて、ただ泣くばかりだった。こうしているうちに容体がどんどん酷くなって、車を寄せて乗せようとかき起こされ、人に寄りかかってなんとか乗ることができた。こちらを振り向くとしみじみ私を見つめて、とても切なそうな顔をしていた。残る私はまして言うまでもない。同じ家に住んでいる私の兄が騒ぎを聞いて駆けつけて来た。

「なぜそんなに縁起でもなく泣くのです。どうということもありますまい。さぁ、早くお乗りください。」

と言って、あの人を抱き抱えたまま兄も同乗して本邸へ向かった。どうなっただろうと思いやる私の気持ちは言いようもない。一日に何度も手紙を書き送った。こんなことをして出過ぎた真似をと私を憎む人があるかもしれないけれど、そんなこと考えていられない。あの人からの返事は、本邸の年配の侍女の代筆だった。

『自分で書けないのが辛いとばかり、終始おっしゃっておいででした。』

などと書いてある。私の家にいたときよりいっそう容態が悪化していると聞いて、あの人が言ったように本当に死んでしまうのだろうか、看病に行きたいけれどそんなわけにもいかず、どうしたらいいのかと嘆いているうちに、十日が過ぎた。

 読経や修法などをして少しよくなったようで、待ち焦がれていたあの人自らが書いた手紙が届いた。

『全く奇妙なもので、よくなることもなくて何日も過ぎたが、今までこんな大病をしたことがなかったからなのか、心細くてならないよ。』

と、人が見ていない隙に細やかにあれこれ書いてあった。

『少し人心地もついたので、大っぴらというわけにはいかないが、夜にこっそりこちらへおいで。こんなに何日も会えずにいるから。』

なんて書いてある。そんなことして世間がどう思うだろうと気になるけれど、あの人のことが心配で会いたくてならなかった。一度はそんなことできないと返事をしたが、すぐまたあの人から同じように言ってくるので、どうしようと思いながらも、会いたい思いに逆らえず車をこちらへ回してくださいと返事した。車が付けられたのは、本邸の方々が住んでおられる建物から離れている廊下脇の小部屋の前だった。とても細やかに心配りされてしつらえられた部屋の端の方にあの人は横になっていた。姿を見られぬようにと廊下の灯火を消させて降りたので、ひどく暗くてどこから入ったらいいかもわからないほどだった。

「どうしたのだ、ここにいるよ。」

と、待ちきれないあの人は起き上がってきて、私の手を取って案内した。

「どうしてこんなに時間がかかったのか。」

と言って、そこからこの何日かの出来事を語り出した。私と別れてから起こった出来事を順を追って少しずつ解きほぐすように詳しく説明していると急に、

「灯火をつけよ。ひどく暗い。」

と言い、それから私の方を優しく振り向いて、

「まったく不安に思わなくていいよ。」

と言った。侍女が来て屏風の後ろを微かに灯した。

「潔斎していて、まだ魚なんかは食べていないんだ。今宵あなたが来たら一緒に食べようかと思って。さぁ、支度せよ。」

侍女に命じてお膳を運ばせた。少しだけ食べると、加持祈祷に来ていた僧侶たちがまだ大勢いて、夜が更けるので護身の修法をするためにこちらへやって来た。

「今はもうお休みください。このところよりは少し良くなっているので。」

とあの人がいうと、一番位の高いと思われる僧侶が、

「そのようにお見受けします。」

とこちらを一瞥して去っていった。

夜が明けてきたので、

「誰かお呼びになって。帰らなければ。」

と言ったら、

「どうして。まだだいぶ暗いよ。もう少しいたらいいよ。」

と言うのでそのままいたら、だんだん明るくなってきた。あの人は男の召使を呼んで蔀戸を開けさせ、二人で外を眺めた。

「見てごらん、前栽の風情はどうだい?お目にかなうかな。」

少し端によって庭の様子を見た。昨夜は真っ暗で何も見えなかったのに、朝の光の下によく手入れされた美しい庭が広がっていた。けれど心の中はそれどころじゃなくて、

「はしたないほどに明るくなってしまいましたわ。」

と急いで帰ろうとすると、

「なに、これから粥など一緒に食べよう。」

とあの人が言うので、ずるずると一緒に過ごしていたら昼になってしまった。

「さぁ、これから一緒に帰ろう。再びこちらに来るのは難しいだろうから、せめて。」

「こうしてこちらへ参上しただけでも人がどう思うか心配でならないのに、一緒の車で帰ってあなたをお迎えに来ただなんて言われたら、それこそ耐えられないわ。」

「わかった。それなら、男たち、車を寄せ付けよ。」

付けられた車のところにあの人も一緒に出てきて、その歩みがよろよろと危なげだったのを見ると、胸に込み上げるものがあった。

「いついらしてくださるのかしら。」

と言ったら、涙が浮いてきた。

「明日か明後日くらいには行けるだろう。」

と、とても寂しげに言った。車が廊下を離れて牛をかけようとしたときにそっと車の中から外を覗き見ると、あの人はもといた部屋に戻ってこちらを見ながらしんみりしているのが見えた。牛車が進んであの人の姿が見えなくなっても、ずっとあの人のいた方を見続けずにはいられなかった。


『最後だと思って帰ったあの日より 今日の別れはかえって辛いよ』


返事は、

『まだとても辛そうなご様子でしたので、今も心配でなりません。かえってとは、


 我もまた安心できることはなく かえる波路は狂おしいほどよ』


 あの人はまだ苦しそうだったけれど、我慢して二、三日後にやって来た。だんだんいつもどおりの体調に回復すると、またこれまでと同じような程度しか通ってこなくなった。あの人の見えない本心に心が張り裂けそうだった。

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