6 母の死

 春が過ぎて夏になった。あの人は夜の宿直で忙しいと見えて、早朝にやってきては日中私と過ごし、夕暮れにはまた宮中へ参内していた。おかしなことと思っていたら、蝉の初声が聞こえてきた。いつの間にか季節が変わったことに驚いて、


「不思議にも夜の行方を知らないわ 今日ひぐらしの声は聞いたけれど」


と歌を詠みかけたら、出かけにくくなったようだった。こんなふうに穏やかに時は過ぎ、あの人の心もまだ私の方を向いていた。

 月夜のころ、気まずい話題をしてそのままあの人が帰ってしまったことがあった。雲の間を見え隠れする月を眺めていると、しんみりと情のこもった会話をしてともに過ごした昔のことが思い出された。それに引きかえ今はと思うと気持ちがくさくさしてきてこんなふうに書き送った。


『曇り夜の月と我が身の行く末と 見通せないのはどちらが上でしょう』


返事は冗談のように、


『察するに月は西だねそなたのは この私だけが知っているのだ』


なんて頼もしそうな詠みぶりだけれど、あの人が本当に拠り所と思っている所は他にありそうなので、そう思うと胸が張り裂けそうなくらい辛かった。順調に出世しているあの人のために長年尽くしてきたのに、子宝にたくさん恵まれもせずいつまであの人が通ってきてくれるのかと不安でいっぱいだった。

 こんなふうに辛い夫婦関係でも母がいる間は何とか耐えてこられたが、長く患っていた母が秋の初め頃ついに亡くなってしまった。どうしていいかわからないくらい悲しみに泣き暮れたことは、ただ事ではなかった。母を看取った山寺には親族が大勢集まっていた。私は母と一緒に逝きたいと強く願った通りになって、どうしたわけか手足が引き攣って動かなくなり、息絶えそうになっていった。もう死ぬのだと思って亡くなった後のことをあれこれお願いしたいと思ったが、後のことを託すべきあの人は山寺にはいなかったので、幼い道綱を引き寄せてやっとの思いで言った。

「私はもすぐ死んでしまうかもしれない。お父様にお伝えしてほしいのは、『私のことはどうか構わないでください。ただ亡くなった母のことは、他の皆さんがしてくださる以上に丁寧に弔って差し上げてください。』と言っていたと伝えてよ。」

そう言った後、

「どうしましょう。」

と言ったきり、口がきけなくなってしまった。もう何ヶ月も患っていた母のことは、心の準備もできていて諦めもついていたけれど、私がこんなふうになってしまったのにはみんなすっかり驚いてしまって、

「どうしましょう。どうしてこんなことに。」

と母が亡くなったこと以上に嘆き悲しんで、泣き惑う人がたくさんいた。私は口がきけなくなって寝たきりになったけれど、まだ意識もあって目も見えていた。私のことを可愛がってくれている父が寄って来て、

「親は一人ではないぞ。どうしてこんなふうになってしまうのか。」

と言って、薬湯を無理に口に入れた。薬を飲んでいたらだんだんと回復していったが、それでも生きた心地がしなかった。亡くなった母が患ってふせっていた間、他のことは何にも言わないのに、ただ私の頼りない身の上を心配して夜に昼に嘆きながら、

「かわいそうに。あなた、この先どうなってしまうのでしょう。」

と何度も苦しい息の中で漏らしていたのを思い出しては胸がつぶれそうだった。

 あの人が聞きつけてやって来た。私は意識が朦朧としていたのでわけもわからなかったが、侍女が代わりに、

「奥様はこれこれでいらっしゃいました。」

と話すと、あの人は泣き出して、死穢も厭わないという勢いで私のもとへ寄って来ようとしたので、

「いけません、いけません。」

と引き止められて、仕方なく立ったまま私を見舞っていた。そのころのあの人の態度は、心底愛情深く思われた。

 こうして母の葬儀のことは、あれこれと骨を折ってくれる人がたくさんいて、全て滞りなく終えた。今は何もすることがなくなって、京より秋が深まっているもの寂しげな山寺に親族が集ってぼんやり過ごしていた。夜になっても眠れず、嘆きながら夜が明ける景色を眺めていると、山の斜面を霧が麓まで立ち込めていて、あぁ、『空には秋の山』の古歌の通りの光景だわと思った。京へ帰るにしても『誰のもとへ帰ればいいの?』という古歌が頭をよぎった。いっそこのままここで死んでしまおうと思うけれど、息子のことを思うと生きなければならないと思い直し、胸がちぎれそうだった。

 こうして十日以上が過ぎた。僧侶たちが念仏の合間に雑談しているのが聞こえてきた。

「実はある場所に、このお亡くなりになった方がはっきり見えたのです。それで近くに寄っていくのですが、すっと消えてしまうのです。」

「どちらにいらしたのでしょう。」

「みみらくの島という所だそうです。」

などと話しているのを聞いて、もっと詳しく知りたいと思うと同時にひどく悲しくなって、こんなふうに独り言を言った。


「母がいるというなら教えてよ その名の通りの耳楽の島を」


近くにいた兄がそれを聞いて、泣きながら、


「どこなのか噂にだけ聞く耳楽の 島に隠れた母を尋ねよう」


 こんなことをしている間もあの人は穢れに触れぬよう立ちながら毎日見舞いに来て、穢れで満足に会えないもどかしさや、心配に思う気持ちなどを煩わしいほどにあれこれ手紙に書いてくれたけれど、この頃は何も考えられなかったので実際のところ何があったのかほとんど憶えていない。

 家に急いで帰らねばならないということもなかったのでこのままずっとこうしていたいと思ったが、私の一存ではどうにもならず、みんなで下山して京に帰ることになった。来るときは、私の膝にもたれていた母を何とかして楽になるようにと思いながら必死に汗をかきながら体を支えていて、心にはきっと良くなるという希望があった。今は、来たときみたいに気が張りつめることもなく、驚くほど広々と車に乗っていることが道中ひどく悲しくてならなかった。家に帰り着き車を降りて邸内を見ると、さらに何も考えられないくらい悲しみがこみ上げてきた。母とともに丹精込めた育ててきた庭の植栽が、母の病が重くなってからすっかり放ったらかしにされていたのだが、今は庭一面に生い茂って花が咲き乱れていた。親類一同母の供養のために写経や念仏などをして、それぞれの部屋にこもって思い思いに過ごしているので、私はひとり何もせず自室でぼんやり物思いに沈んでいた。生い茂る庭を見て、


「君が植えた ひとむらの薄 虫の音の」(薄は茂り虫の音は激しい秋の野辺です)


の古歌が口をついて出た。


「手入れせずとも花は盛りになりました 母の残した愛の露のおかげで」


などと、ひとり呟いた。

 殿上人はこういった場合別のところで謹慎しなければならないが、親族には誰も殿上の間に出入りする者はなかったので、穢れの謹慎もこの邸で一緒にすることになった。几帳や屏風などを隔ててそれぞれの部屋を俄かにしつらえて暮らしていたが、私だけは悲しみの紛れる間もなくていたたまれなかった。夜になると母の供養のための念仏の声がどこからともなく聞こえ始めて、そのまま眠ることもできず泣きながら朝を迎えた。四十九日の法事は誰一人欠けることなくこの邸でとり行った。あの人がほとんど全てを取り仕切ったようだったので、弔問客が大勢押しかけてきた。私からは母の供養として仏像を描かせた。四十九日が過ぎると、皆部屋を引き払ってそれぞれの家に帰っていった。みんながいなくなってしまい、それまで以上に心細くなって、いっそうやりきれない思いでいたので、あの人はそれを感じてか今までよりは頻繁に通ってきてくれた。


 さて、山寺へ病が重くなった母を連れて出た後、あれこれとり散らかされたままになっていた物を暇に任せて整理していた。日頃母が使っていた道具類や書きさしのままになっていた手紙などを見て、切なさに息が止まりそうになった。すっかり弱ったしまった母が受戒して尼削ぎをした日、立ち会ったお坊様が母に袈裟をかけてくださった。その袈裟がそのまま死穢に触れてしまって返せずに置いてあったのを見つけた。これをお返ししようとまだ暗いうちに起きて、『この袈裟』などと書き始めたとたんに涙にかき昏れてしまって、

『この袈裟のお陰様で、


 蓮の葉の玉となっていましょう 紐結ぶ袖の濡れてるけさの露でございます』


と書き送った。

 この袈裟のお坊様の兄上も僧で、長年祈りのことなど何かとお願いして頼りにしていた方だったが、その方が急にお亡くなりになったと手紙のやり取りをしている中で知った。弟君の袈裟のお坊様のお気持ちを思うとたまらなくなり、私自身もとても残念で、またしても頼りにしていた人が一人亡くなったと悲しみで心が乱れて、何度もお見舞いをした。亡くなった兄君は、事情があって雲林院にお仕えしていた方だった。四十九日が終わったので、こう書き送った。


『嘆かれます 雲の林をうち捨てて空の煙になるだなんて』


などと、私自身の気持ちが悲しみでやりきれなくて『野にも山にも』の古歌のように心がさまようことばかり考えていた。


 心が弱って消え入りそうな思いで秋冬を過ごした。同じ家に兄と叔母が住んでいた。兄は通いどころがあるのでいつもいるわけではなかったが、叔母は私の所から少し離れた建物に静かに暮らしていて何かにつけて頼りにしていた。この親のように思っていた叔母も、やはり母が生きていた頃のことを恋しく思いながら泣き暮らしているようだった。年が改まって春夏も過ぎ、今は忌明けの一周忌の法事をするといって、母の臨終を迎えた山寺でとり行うことになった。この山寺に一年ぶりにやってくると亡くなるまでの母と過ごした日々がありありと思い出され、いっそう悲しみで胸が痛くなってくる。法要を導く僧が始めに、

「ここにお集まりの皆様方は、何も秋の山辺を楽しみにお越しになられたのではありません。故人が永眠なさったこの場所で、お経の真髄を学ぶためにいらっしゃったのです。」

と言うのを聞くと涙が込み上げてきて何も考えられなくなり、その後何があったのかわからなくなったほどだった。しきたりどおり一連の儀式を終えて帰った。そのまま喪服を脱ぎ、喪服をはじめ調度品など黒い物はすべて、扇のひとつまで祓えをするために鴨川へ出かけた。


「藤ごろもを流す涙の川水は きしにも勝るものでございます」


という歌が心に浮かんだが、ひどく泣いていたので誰にも言わなかった。

 命日も過ぎて、いつものように暇をもて余していたら、侍女が喪が明けたということで琴を差し出してきた。弾くというわけでもないけれど手遊びにかき鳴らしていると、いつの間にか喪も明けてしまったのだな、悲しくても心細くても時は過ぎていくのだわと思っていた。すると同じ邸内に住む叔母から、


『喪が明けてひきだした琴の音を聞くと 恋しい人が思われて悲しい』


とあった。特に素晴らしい歌ということではないけれど、叔母の心情を思うといっそう泣けてきて、


『亡き人は訪れもせず 琴の緒を絶っていた月日だけが帰ってきました』


 たくさんいる兄弟姉妹の中でも、とりわけ頼りにしていた姉がこの夏から遠い地方へ旅立つことになっていたのだが、服喪中ということで延期していた。それがいよいよ喪が明けたということで出発するという。姉がいなくなると思うと、心細いどころではなかった。今日が出立という日に会いにいった。装束を一揃いと、ちょっとした品々を餞別に硯箱の中に納めて持って行った。姉の家はいざ任国へと人々が大勢押しかけていて賑やかに活気付いていたが、私も姉も目を合わせることができず、互いにうつむいて声を立てずに泣いていた。近くにいた侍女たちが、

「どうしてまたこんなときに。我慢なさいませ。」

「涙は不吉でございます。」

などと言う。このまま姉が車に乗って出ていくのを見送るのは、どんなに辛いだろうと思っていると、家から、

『早く帰ってきなさい。こちらにきているのだから。』

とあの人から連絡が来た。車を寄せて姉が乗り込むと、ゆく姉は二藍の、残る私は薄物の赤朽葉の小袿を着ていたのを交換して別れた。九月十日過ぎの頃だった。家に帰っても、

「どうしてそんなに泣くのだ。縁起でもない。」

とあの人が咎めるまで、大泣きしていた。

 昨日今日くらいに逢坂の関にさしかかる頃だろうと姉のことを思いやっていたとき、月がたいそう美しいのを眺めながら座っていると、叔母も起きていたようで、琴を弾きながらこんなふうに言ってきた。


『引きとめたいというわけではないけれど 逢坂の関の朽目の琴の音に泣く』


叔母も私と同じように思っている人なのだった。


『逢坂を思って鳴らす琴の音は 聞いたら袖に朽目がつきそう』


などと、姉を思って悲しんでいるうちに年が明けた。

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