5 兵部卿の宮
目障りな町の小路の女のところでは、今となってはなりふり構わずあの人の心を取り戻そうと躍起になって、惨めな様を晒していると聞いて安心した。結婚してからのこのままならぬ生活は耐え難く苦しいけれど、私の宿世がつたないからなのだと自分を責めつつあれこれ思い乱れながら数年が過ぎた。その間に時姫様のところにはさらに男女二児をもうけ、別の女との間にも女児が生まれたと聞いた。そして、この間にあの人のお父上が亡くなった。一家の大黒柱を失って、あの人の家は大騒ぎだった。長兄を始め、あの人の兄弟はまだ若く官位がさほど高くなかったので、時間が経つとともにだんだん政権の本流から外れていくようだった。
その頃、あの人は小納言の年功を積んで四位の位に昇ったが、、同時に兵部省の大輔の職に任命された。それはそれまでいた政権の中枢から外れた役職だったので、殿上の間の出入りもできなくなり、あの人はすっかり拗ねてしまって、世間からいじけ者の大輔と呼ばれるようになっていた。毎日面白くない様子で、あちこちの女のところ以外に出歩くこともなくなって、私のところにも二、三日のんびり過ごすことがよくあった。
そんな頃、不満に思っていた役所の上司である兵部卿の宮様からこんなお手紙が来た。
『乱れ糸のつかさが一緒になったのに くることがなぜ絶えてしまうのか』
あの人がお返し申し上げたのは、
『絶えるとはとても悲しいきみがため 同じつかさにくるかいもなく』
またすぐ御返事が来て、
『夏引きの糸もっともよ二妻(ふため)三妻(みめ) より歩く間に時は経つこと』
あの人から、
『七ばかり妻がおります夏引きの いとまはありましょう一妻二妻なら』
また、宮様から、
『君と吾やはり白糸をどうかして つらいふしなく別れようかな
妻の二、三人とは、少なく見積り過ぎたな。物忌みになったので、これで終わりにする。』
とあったのに対して、
『古くより契り交わした男女でなし 別れるなんてありますまいよ』
と申し上げた。
その頃、私のところでは五月二十日過ぎから四十五日間の物忌みになった。忌みを避けるため、父の邸に移り住むことにした。それは父が伊勢から帰ってきてから手に入れた家で、兵部卿の宮様のお邸と垣根を隔てたすぐ隣にあった。六月にかけて雨がひどく降り続いていたので、宮様のところも私のところも雨に閉じ込めらてすることもなかった。ちょうどあの人がやって来ていて、まだ家の手入れが行き届かなくてあちこち傷んでいたので雨が漏って騒いでいたとき、それを見た宮様が酔狂にもこんなふうにお歌を詠みかけてこられた。
『徒然に眺めていると漏れてくる ことの次第が楽しみというもの』
これにあの人が対して申し上げたのは、
『どこにでも長雨が降るころなので 世間の人ものんびりしてはいないでしょう』
また、おっしゃってきた。
『のんびりできないとか、
天の下に大騒ぎする大水で 誰もが濃泥(こいじ)に濡れているだろう』
あの人から、
『夜とともに会う人変わる濃泥(こいじ)なら 水も涙も乾かないでしょう』
また、宮様から、
『そう言った君こそきっと濡れるだろう 常に住む我が家は濃泥(こいじ)などなし』
「まぁ、ひどいおっしゃりようね。」
なんて言いながら、あの人と一緒に手紙を見ていた。
雨が止んだ隙を見て、あの人がいつもの時姫様のところに出かけて行った日、例の宮様からお手紙があった。
「今日は殿がいらっしゃいませんと申し上げましたが、いいからとおっしゃってお渡しなさいました。」
取り次いだ侍女がそう言って宮様からの手紙を差し出したのを見ると、美しい撫子の花が添えられていて、
『撫子に恋しい思いが癒えるかと 君の垣根に折ったのですが
それにしても、仕方がないので、失礼する。』
とあった。二日ほどして、あの人が来たので、先日の宮様とのやりとりを説明して手紙を見せると、
「何日も経ってしまったから、しょうがない。」
と言って、ただ、
『近頃は何もお言いつけをしてくださいませんことです。』
と手紙のことは知らぬふりをして宮様にお手紙を差し上げていた。宮様からの返事は、
『大水で浦もなく水が覆うので 千鳥の跡をふみ惑うことよ
と見える。うらみなさるのは、筋違いというもの。本人が書いて寄越してきたというのは、本当か。』
宮様は女文字で柔らかく崩してお書きになっていた。それなのにあの人はこのお手紙のご返事を男文字の漢字ばった無骨な書体で書いていた。それを見て別に何も悪いことはしていないのに、何故だか胸がドキドキした。
『浦に隠れて見ることのできない跡ならば 潮が引くまで待つしかありません』
また、宮様から、
『浦もなくふみやる跡をわたつ海の 潮の引く間も何になろうか
と思っているが、妙なことになってしまったな。』
とあった。
こうしているうちに、六月の月末の祓えの行事も済み、明日は七夕という日になった。物忌も四十日が過ぎた。この数日体調が悪く、咳がひどいので、物怪のせいかもしれない、僧たちを招いて加持をしてもらおうと思ったが、仮住まいの父の家は狭くてやたら暑い頃だったので、いつも出かける山寺へ行くことにした。十五、六日になっていたので、寺では人々がお盆のお墓参りをしていた。滞在していた建物は山の中腹にあって、麓から登って来る人々がよく見渡せた。粗末な服装の者たちが大勢いて、それぞれお供え物を大事そうにかついで心を込めて準備して集まって来ていた。そんな人々の様子を私に付き添ってくれたあの人とともに見て、感じ入ったり笑ったりして過ごした。体調が元通りになって忌みも明けたので、京に戻った。秋冬は変わったこともなく過ぎた。
年が改まったが、特に変わったこともなかった。あの人はいつもと違って私と多くの時間を過ごし、愛情深く感じられるときは何事も平穏だった。正月の初めから、あの人は殿上の間の出入りを許されるようになった。
世間が賀茂祭りの話題で持ちきりの頃のこと。我が家でも一連の行事を見物しようと準備していた。御禊の日、例の宮様から、
『御禊の見物にいらっしゃるなら、そちらの車に乗せてもらえないだろうか。』
とおっしゃってきた。お手紙の端にこんな歌があった。
『いざ君よ南へ跡を辿りながら まちの私をたずねて来られよ』
あの人と一緒にひとつ車に乗ってお迎えに参ったが、いつものお邸にはいらっしゃらなかった。あの人は町の小路あたりの通いどころかもしれないと考えてそちらに参上したら、思ったとおり、
「こちらにいらっしゃいます。」
とその家の召使が言う。そこで硯を借りてこんなふうに書いて宮様に送った。
『君のいるまちの南に遅い春は 今こそ急いで訪ねてきました』
そうして、宮様と一緒に御禊見物に出かけた。
祭りの頃も過ぎて、宮様がいつものお邸にいらっしゃったときに、あの人と一緒にお邸へ招待されたことがあった。宮様のお邸は庭や建物や調度品を始め、お支えする人々の身だしなみや態度の隅々まで心配りが行き届いていて、見ていて心地よかった。去年父の邸に滞在していたとき、隣の宮様のお庭に咲いている花々が美しく風情があったのを思い出した。今は、薄が群れになって茂っていて、その穂先が繊細にふわふわと美しくたなびいている。それを見ていたらたまらなく欲しくなり、
「この薄をもし株分けしてくださいますなら、少しだけいただきとうございます。」
とお願いした。そんなことがあってから少し経って、たまたま鴨川に禊をする用があって宮様の屋敷の前を通りすがった。親族が一緒だったので、
「これが以前話した宮様のお邸よ。」
と説明した後、召使を呼んで、
「『あれから参上したいと存じておりましたが、機会がありませんでした。今日はあいにくと連れがおりまして。先日お願いしていた薄をよろしくお伝えください。』と、お仕えする侍女に伝言するように。」
と召使を宮様の邸の中へ言いに行かせて、私は車に乗ったまま通り過ぎた。ちょっとした祓えだったので、すぐに河原を離れて家に帰り着くと、
「宮様から薄でございます。」
と言うので見てみると、長櫃の中に掘った薄が綺麗に並べられて、青い色紙が結びつけてあった。そこに、歌が書かれていた。
『穂を出せば道ゆく人も招くのに 家の薄をほるがつらさよ』
とても面白いお歌だこと。このお歌のご返事はどうしたかしら。忘れたところをみると大したこともなかったのだろう。もちろん、これまでの歌だってどうかと思うものがたくさんあったけれどね。
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