3 町の小路の女
世間的に見れば申し分ない暮らしをしているように見えただろうけれど、あの人にもっと愛されたいと切望する私の心はいつも満たされず苦しんでいた。長年連れ添ってきた時姫様のところでも通いが絶えてしまったと聞いて、物のついでがあったときに一緒に手紙を書き送った。五月三日、四日ごろだった。
『そちらさえ刈ると聞いた真菰草 いかなる沢に根をとどめたのでしょう』
時姫様から返事が来た。
『真菰草を刈るとは淀の沢ですわ 根をとどめている沢はそこでは』
六月になった。月初めにひどい長雨が続いた。外を眺めながらひとりでに、
『我が宿の嘆きの下草色深く 移ろっていく眺めている間に』
なんて歌が口をついているうちに七月になった。
いっそすっかり終わってしまったなら、たまに通ってくるのを待つよりましだろうと思い詰めていたら、あの人がやって来た。私が意地になって一言も話さないのであの人がつまらなそうにしていると、前にいた侍女たちがその場を取り繕おうとあの人の話し相手をしていた。先日の下葉の歌のことを、もののついでに語ったところ、あの人は言った。
「夏なのに色づいたというもみじ葉は 時にあった今こそ美しい」
私は硯を引き寄せて、その辺にあった紙に書いた。
『秋に合う色こそまして侘しいわ 下葉にだって嘆いていたのに』
こんなふうに完全に終わってしまわない程度にあの人は訪れてはいたけれど、私の心は穏やかでいられずはずもなく、ますます態度がよそよそしくなっていった。あの人が来ても私の機嫌が悪いので、
「旅人も倒れる立山」
と冗談言いながら、すぐ立って帰ってしまう日もあった。隣に住むこちらの事情を知っている人が、あの人が帰るのに合わせてこんな歌を詠みかけてきた。
「藻塩を焼く煙が空に上るのは やきもち焼くか悔しい思いで」
お隣さんが私たちの夫婦仲が険悪になっているのを心配して、こんな歌を詠みかけておせっかいをやくくらいお互いに拗ねてしまい、この頃は長いこと訪れもなかった。
他の女に心を奪われる前はそんなことはなかったのに、近頃は我が家に置いていったいろいろなものを持って帰るという癖がついてしまった。このまま終わるのだろうか、あの人のことを思い出すよすがになりそうなものはすっかり無くなってしまいそうだわと思っていたら、十日ぐらい経って手紙が来た。『御帳台の柱に結びつけてある小弓の矢を取ってこちらに送って』とあったので、まだこんなものが残っていたわと悲しくなって寝室に結んであった小弓の紐を解いて下ろして、
『思い出す時などないと思ったけど やと言ったのではっとしました』
と、矢を包んだ紙に歌を書いて送った。
こんなふうにあの人は訪ねて来なくなったけれど、我が家の前の道はあの人が宮中に行き来する時に必ず通る道だったので、夜中だろうが明け方だろうが構わず先払いをして素通りしていく。聞くまいと思っても耳について落ち着いて眠ることもできない。ただでさえ秋の夜長は物思いで眠ることができないものなのに、あの人だわと思って見聞きするのは、例えようもなく苦しい。今はなんとかしてあの人のことは考えないようにしようと思うのに、
「以前はご執心だったお方にも、今はすっかりお見限りのようで。」
などと、我が家にやって来ていた誰かが侍女をつかまえて私の陰口を言うのが聞こえてきた。やりきれない思いに苛まれて、あの人が来ない夕暮れ時は、いっそうわびしくてならなかった。
子供がたくさんあると聞く時姫様のところにも、近頃はすっかり絶えてしまったと聞いた。お気の毒に、私以上にどんなにかお辛い思いをなさっているだろうと思って、お見舞いをした。九月のことだった。同情の気持ちをたくさん書き連ねて、
『吹く風につけてもお便りいたします 細蟹の通った道が空に消えようとも』
返事は、細やかにしたためてあって、
『色変える心と見えてつけてという 秋風不吉に思われること』
とあった。
こんなふうではあったが、さすがにずっと来ないということもできないようで、たまにくることもあって、冬になった。毎日幼い息子を相手にして過ごしていると、
「どうにかして網代の氷魚にお聞きしたい」(あの人が来ないのはなぜ?)
の古歌が思わず口をついて出てきた。
年が変わって春になった。たまの訪れの後、近頃読むといって持ち歩いていた本を我が家に忘れていった時、案の定使いを取りによこしてきた。本を包んだ紙に、
『ふみおいた浦も心も荒れたので 跡をとどめぬ千鳥のようです』
と書いたら、返事は、薄情なのは自分ではなく、私の心が離れたように言いなして、
『心荒れてふみ返しても浜千鳥 その浦にこそ跡をとどめよう』
と自分の方は愛情たっぷりなのだというふりで機嫌を取ってくる。使いがまだいたので、
『浜千鳥の跡の在り処を探しても 行方も知れず恨みもすまい』
と伝えた。
こんなやりとりをしているうちに、夏になった。今をときめく町の小路の女のところでは、出産が近づいていた。出産するのに良い方角ということで選んだ場所へ移動するとき、あの人と女は同じ車に乗り、都中の注目を集めるほどに綺羅綺羅しくたくさん車のを連ねて、聞いていられないくらい派手に先払いしながら長い列をなして通り過ぎていく。それもあろうことか、わざわざ我が家の前を通っていくなんて。私は怒りとショックですっかり正気を失って口もきけずにいると、私のそばにいる人たち、侍女をはじめ使用人もみんなして、
「ひどく酷い仕打ちだこと。広い世間にいくらでも道はございましょうに。」
などと、大騒ぎしているのを聞いていたら、怒りと屈辱と絶望でもういっそ死んでしまいたいと思った。それでも簡単に死ぬこともできないので、これからは気を強くもってあの人との関係をすっぱり切ってしまうとまではできないけれどせめて会うまい、なんて苦しいのかしらと思っていると、三四日あって手紙が来た。呆れたこと、人の心をこんなに踏みにじっておいて、白々しく手紙なんか寄越してくるなんてと恨みながら読んでみると、
『近頃こちらのお方がお産でふせっていたので伺えなかったが、昨日無事にお産をお済ませになったよ。穢れもあるので伺ってはご迷惑かと思って、しばらく失礼するよ。』
とあった。呆れるほど非常識なことこの上ない。ただ、受け取りましたとだけ伝えさせた。あの人の使いに侍女が聞いてみたところ、
「男君でございました。」
と言っているのが聞こえて、胸が潰れそうだった。三、四日経って、あの人は何食わぬ顔をして現れた。何の用できたのかと無視していると、とりつくしまもなくて帰るということが度々になった。
七月になった。相撲の節会のころのこと、古い衣装と新しい衣装とひと組ずつ包んであるのを送りつけてきた。節会で使う衣装なのだろう。『これを仕立ててください。』と手紙が添えられていた。こんなことをしらっと言ってくるなんて、見ているだけで怒りのあまり眩暈がしてくる。古風で礼儀正しい母は、
「まぁ、お気の毒な。あちらにはして差し上げる人がいないのでしょうね。」
と言い、侍女たちは、
「未熟な者たちばかり集まって、はしたないこと。」
「出来もしないくせに、ケチをつけられそうですわ。」
などと、普段の不満を吐き出すように言った。みんなで相談して結局そのまま仕立てずに返してやったら、案の定あちらこちらに分けて仕立てさせたらしい。あの人にしてもこのことはひどく薄情だと思ったようで、二十日以上訪れがなかった。
どんな折だっただろうか、手紙があった。
『お伺いしたいのは山々だけれど、気が引けてね。はっきりと来いと言ってくれたなら、恐る恐るでも伺いたいが。』
返事なんてしてやるものかと強情を張っていると、侍女たちが、
「それでは薄情過ぎますわ。あんまりです。」
などと言うので、
『穂を出して決して言うまいなりゆきは なびく尾花に任せてみよう』
すぐ返事があって、
『穂が出ればすぐにもなびこう花薄 こち(東風)という風吹くに任せて』
使いがまだいたので、すぐ返事を伝えた。
『嵐ばかり吹いている宿に花薄の 穂が出たとしても甲斐がないでしょう』
などと、こちらが程よく折れたので、また来るようになった。
二人で寝床で横になっていたとき、前栽の花々が色とりどりに咲き乱れているのを見やって、あの人が、
「とりどりに乱れ咲く花の色は 白露が置くからそう見えるのだろうか」
と呟いたので、
「我が身の秋を思い乱れる花の上の 露の心を言っても仕方ないわ」
と返した。その後もまた、いつものように訪れは間遠になった。
寝待ち月が山の端を出ようとするころ、その日訪れたあの人は帰ろうとする素振りをした。帰らないでもよさそうな夜だわと思っている私の気持ちを察したのか、
「泊まらなければならないとあれば、泊まっていくよ。」
と言うけれど、私はどうしても泊まってほしいとは思わなかったので、
「どうしましょう 山の端さえとどまらず心も空に出ていく月を」
と言ったら、あの人は、
「ひさかたの空に月が出るならば 影はここにとどまるべきだね」
と言って、泊まっていった。
さてまた、野分の風が吹き荒れて、二日ほどしてやって来た。
「先日の風はどうだったかと、普通の人なら見舞ってくれたでしょうに。」
とあの人が大風のことを何も言わないのでさりげなく言ったら、確かにそうだと思ったのだろう、はぐらかすように、
「言の葉は散ってしまうかと留め置いて 今日は自ら見舞いにきたよ」
と言う。あんまり白々しいので、
「散ったとしても見舞いの言葉を送るべきよ あんなに吹いた東風(こち)を頼りに」
と言った。私の家は、あの人の家の西方にあったのだ。すると、あの人は、
「東風だなんて大雑把過ぎるよそんな風に 大事な手紙を託せようか」
私を思って心配してくれたらどんなにか嬉しいのに、言い訳ばかりで自分はちっとも悪くないという態度なので、悔しくなって言い返した。
「散らすまいと惜しんでおられる言の葉を 来てすぐになぜ言わなかったの」
これにはあの人ももっともだと納得したのだろう、黙ってしまった。
十月ごろ、どうしても帰らなければならないことが起きたと言って、あの人が帰ろうとした。雨がかなり降っていて、しかも夜も更けているというのにだ。呆れる思いで思わず呟いた。
「大切なご用事とはいえ夜も更けて こんな時雨にふり出ていくとは」
それでもあの人は強引に帰っていった。
そうこうしているうちに、かのときめいていた町の小路の女のところでは、子を産んでからあの人の足が遠のいてしまったようだった。憎しみにのたうち回る私の心の中では、あの女に長生きさせて私が味わった苦しみを同じように味わわせてやりといと思っていたのが、まさにその通りになった。しかも、大騒ぎして産んだ子供さえ死んでしまうなんて。女は天皇の孫で、時流から外れて捻くれていた皇子のどこぞの落とし胤だそうだ。お話にならないほどつまらぬ女だわ。近頃、事情を知らない世間の人が、あの人の想い人だということでちやほやするのに甘えていたのが、急にこんなふうに落ちぶれたので、私が苦しんだよりもう少したくさん辛い目をみているだろうと思うと、今こそ胸がすくような気持ちだ。こうなってから、時姫様のところにはよりを戻して通っていると聞いた。一方、私のところには今までどおりたまにしか通って来ないので、不満だった。近頃は幼い息子が片言を話すようになっていて、あの人が帰り際に言う「また来るよ。」という言葉をおぼえて「また来るよ。」と口真似してよちよち歩いていた。
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