2 父との別れ

 結婚して間もない頃、事情があってしばらく他所に仮住まいしていたことがあった。そこは、京にほど近い山を少し入ったところにあった。私と女房たち、召使を連れて滞在していたが、手狭な家だった。そこへあの人がやって来たその翌朝、

『いつも忙しくて、今日くらいはのんびりしたいと思っていたのに、迷惑そうにしていたから失礼したよ。どうしている?まるで山に隠れてしまったようだね。』

と言ってきた返事に、撫子の花を添えて歌だけ書き送った。


『思いがけない垣根におれば撫子の 花に露はとどまらないのね』


 そんなやり取りとりをしているうちに、九月になった。


 月末ごろ、あの人が続いて二夜来なくて待ちくたびれた朝に、手紙だけが来た。今晩も来ないのかと悲しくなって、こう返事をした。


『消え入りそうで露も乾かぬ袖の上に 今朝は時雨まで降っているわ』


あの人から、


『君思う心が空になったから 今朝は時雨が降っているようだ』


とあったが、返事を書き終える前に本人が現れた。

 少しして、訪れが途絶えていたころ、雨が降っていた日に、『きっと暮れに行くよ』などと連絡があったのだろう、


『柏木の森の下草は暮れごとに 待てというのか雨が漏るのに』


と書いて送った。返事は、本人がやって来てはぐらかしてしまった。

 こんなふうにして、十月になった。私の家が物忌みになってしまい会えずにいたので気がかりでならないとあの人が手紙で言って来たときに添えられた歌。


『夢だけでも会いたいと裏返した衣の上に 涙だけでなく時雨まで降る』


そんなやり取りをしているうちに、頼りにしている父が国守に任命され、任国の陸奥に旅立つこととなった。

 私との結婚の祝儀としてあの人のお父上の右大臣様が私の父を推薦して得た役職だった。陸奥国は大国で一度なれば大きな収入を得ることができ、一族みんなが大喜びしていた。陸奥は辺境の地でまだ未開拓な土地がたくさんあり、それらの土地を支配下におくということで朝廷からも大いに活躍が期待されていた。中央政界での出世が望めない父にとっては、国守になることは大きな躍進であった。


 季節は、ただでさえもの悲しい初冬のこと。あの人との関係はまだ打ち解けるというほどではなく、会うたびに黙って泣いてばかりいた。父が遠くへ行ってしまうと思うと、心細くて悲しくて、どうしようもなかった。あの人は同情して、僕がいるんだから、僕を頼ればいい、決して忘れたりしないよと慰めてくれるけれど、人の心はそんなふうにはならない、きっと心変わりしてしまうと信じることができず、ひたすら悲しくて心細かった。

 いざ出発と、皆出ていく日になって、旅立つ父も涙が止まらずにいた。残る私は、まして言いようもなく悲しい。

「出立のお時間が過ぎております。」

と言って急かされるまで父はなかなか立ち上がることができずいたが、傍にあった硯箱に手紙を巻き入れると、また父の目には涙が溢れてきて、顔をくしゃくしゃにしながら出ていった。しばらくは父の手紙を見ようとも思えなかった。見送りがすっかり終わって、家の中が静かになると気を取り直して硯箱に近寄って、何が書いてるのかしらと見てみた。


『君だけを頼りに旅立つ心には 行く末遠く思われることです』


きっとあの人に見てもらおうと詠んだ歌なのだろうと、父の心を思って悲しくてならなかった。元通りに硯箱に戻し、少しするとあの人がやって来た。目を合わせることもできずうつむいていると、

「どうしたのだ。こんなことよくあることなのに。そんなに悲しむとは、私を信じてないのだろう。」

とあれこれ慰めて、硯箱にあった手紙を見つけると、

「不憫な。」

と言って、出立のため集まっている父の一行のところに手紙を送った。


『我のみを頼むというなら行く末の 松の契りを来て見てほしい』


 こうして日が過ぎていったが、旅先の父に思いを馳せては悲しくてならないのに、あの人は私のところが生活の中心ということはなく時々通って来るといった有様で、家族として拠り所になりそうには思えなかった。


 十二月になった。横川に用事あるといって、比叡山に登っていったあの人が、


『雪に降り込められて、しみじみあなたのことが恋しくてあれこれ思っているよ。』

と書いてある手紙が来たので、使者にことづけて、


『凍てついた横川に雪は残るので 消え入る私ほど悲しくないのね』


と書き送った。そうこうしているうちに、その年はあっという間に終わった。

 一月、あの人が二、三日来なかったときに、他所へ出かけようと思ったので、

「殿が来たら渡して。」

といって、書き置きした。


『知らないわ鶯みたいに出ていくわ 泣きながら行け野にも山にも』

返事があった。


『鶯が気まぐれで行く山辺でも 鳴き声を聞けば訪ねていくさ』


などといっていた頃から、体が普通ではなくなって、春夏とずっと体調が悪く過ごして、八月の終わりに無事に男の子を出産した。そのころのあの人の心遣いは、本当に優しいものだった。私も産まれた子も、大切にされ愛されていると思えた。

 九月になった。あの人が帰った後、ふと手なぐさみにと硯箱を開けてみると、他の女に宛てた手紙が入っていた。あんまりだわと思って、見たわよと知らせてやりたいと端に書きつけた。


『疑うわ他のひとへの手紙とは ここは見限るということかしら』


それからあれこれ気を揉んでいると、案の定、十月の終わりに三夜続けて来ない日があった。女を正式な妻として迎えたのだ。あの人はその後やってくると平気な顔で、

「しばらくあなたを試しているのだよ。」

なんて含みを持たせて言う。

 私の家にいたとき、夕方になって、

「避けられない急用ができた。」

と言って出ていったので、おかしいと思って後をつけさせたところ、

「町の小路のこれこれのところにお車をお停めになりました。」

と言ってきた。やっぱりだと、すごく悔しくてならなかったけれど、なんて言ってやればいいか分からなかった。二、三日経って、暁の頃、門を叩く音が聞こえた。きっとあの人だろうと思ったけれど、頭に来ていたので開けさせなかったら、例の女のところに行ったようだった。翌朝、このままでは済ませられないと思って、


『嘆きつつひとり寝る夜の明ける間は どんなに長いものか知ってる?』


と、いつもより特に心を配って美しい紙を選び、筆跡も取り繕って書いて、色の移ろった菊に結んで送った。

返事は、

『開けてくれるまで様子を見ようと思ったけれど、急用を知らせてきた使いがあってね。お怒りなのも仕方ないとは思うが。


もっともだ冬の夜だけでなく門の戸も 遅くあけるのは侘しいものよ』


 それにしても、私がこんなに腹を立てて傷ついているのに、何を考えているのか分からないくらい浮気なんて普通のことだっていう顔をしている。しばらくの間は、表向きだけでも内緒にして、「宮中で用事があって」とかなんとか言ってその場を取り繕い、私の面目を立てるというものなのに。あの人の態度は、私を蔑ろにしているようで忌々しくてならない。

 年が改まって、三月になった。桃の節句ということで花を用意して待っていたのに、あの人は来なかった。同じ邸に住んでいる姉の夫も普段はいつも入り浸りのようなのに、その日は来なかった。節句が明けて四日の早朝、二人が揃って現れた。昨夜から待っていた侍女たちが、

「このまま無駄にしてしまうよりは。」

と言って、準備していた食事や飾りをを運んできた。美しく咲いていたのを折った花が運ばれてくるのを見て、黙っていられず手遊びに近くにあった紙に書きつけた。


『待つうちに昨日を過ぎた花の枝を 今日おるなんて甲斐のないこと』


あぁ悔しいと、書いたものを隠したその様子を見たあの人が、奪い取って横に返事をしたためた。


『三千歳を見るべき我は年毎に すくわけではない花と教えよう』


その歌を、同じように同じ邸の別棟で過ごしていた姉の夫が伝え聞いて、


『花によってすくというのが嫌なので 昨日はよそで過ごしたのですよ』


と歌を読みかけてきた。


 こうして、今となっては公然と町の小路の女の元に通うようになった。私は毎日嫉妬で悶々としていた。何を見ても聞いても全てがあの人の浮気と結びついて苦しかった。女房の中で一番気心の知れている乳母子が私を慰めようと思ったのか、

「一番最初に結婚した時姫様でさえ、町の小路の女のことでは珍しく不快に思っていることが多いそうですわ。」

と噂話をした。私と同じ苦しみを抱えている人が他にいると聞いて少しは慰めになるけれど、嫉妬の怒りは身を苛んで辛く、どうしようもなかった。

 同じ邸に住む姉の夫がこの家に頻繁に出入りしていたが、それを見ていつも羨ましくてならなかった。こんな仲睦まじい夫婦仲もあるのにと、あの人の薄情さが際立って辛くてならなかった。姉とは仲がよく何でも話す関係だったので、同じ姉妹なのに何故こんなに違うのだろうと苦しんだ。そういう気持ちを表に出すことはしなかったけれど、仲のよさ故に自ずと伝わってしまったせいなのかは分からないが、姉の夫は気兼ねせず姉と過ごせるようにと他に邸を用意してそこへ姉を移すことにした。父が居なくなり、姉まで出て行ってしまうなんて、残される私は、心細くて仕方ない。引っ越してしまったら、なかなか会うことはできまいと思うと心底悲しい。私たちは小さい時から結婚してもいつも仲よく過ごして来たのだ。姉たちがいざ出て行こうとして車を寄せた時、こんなふうに歌を詠みかけた。


『なぜこんなに嘆きの木は繁るのに 人は枯れていく宿なのかしら』


返事は姉でなく、夫がしたようだった。


『思いやる我が言の葉をあだ人ゆえに 繁るなげきに添えて恨むな』


などと言い置いて、二人とも出ていった。思った通り、あの人の訪れもないこの邸で私ひとり寝起きしている。

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