1 結婚
それまで浮ついた恋の駆け引きのひとつやふたつ、無かったわけじゃないけれど、ある日突然、柏木のお役所に勤める摂関家の御曹司あの人から、求婚があったと知らされたことが始まりだった。ただそれが全然普通じゃなくて、たいていは女房や兄弟など然るべき人を介して恋文などを送って始めるというものなのに、なんと宮中にいた父に直接、本気とも冗談ともつかぬような言い振りで私と結婚したいと言ってきたそうだ。家に帰ってきた父は、すぐさま私のところへやって来て伝えた。
「とんでもないわ!」
私はすぐさまそう言って本気にしなかった。父に呼ばれて私の部屋に来ていた母も、いったいどういうことなのかしらと訝っていた。父は、右大臣家の三男と私が縁付くのかと浮き足立っていたが、母も私も本気にしなかったので、だんだん冷静になってきて、もしかしたら何かの間違いかもしれないと思い直して部屋を出ていった。母も、浮かれて騒いだら両家の面目が潰れるからと、騒がぬようきつく女房達を諭して出ていった。
両親がいなくなった後、妹が部屋にやって来て、
「お姉さま、右大臣家のご子息に求婚されたって、本当?」
「全然そうじゃないわよ。お父様の勘違い。」
そばに控えていた乳母子が、
「それにしたって、右大臣家のご子息と結婚したら、すごいわね。あちらは藤原の本流のお家柄。兼家様がいずれ大臣になるのも夢じゃないわ。」
他の女房達も我慢していたのが、堰を切ったように話し出した。
「でも、確か兼家様にはすでに奥方がお一人いらっしゃるわ。男の若様もお一人お生まれになっていたかと。」
「あら、その奥方様って、中正様のご息女でしょ。家柄でいったらこちらの方が上じゃない?」
「そうよ、右大臣師輔様と姫君のお父様は、お祖父様同士がご兄弟で、はとこのご関係よ。」
「そうよ、そうよ。姫様はお美しいし歌もお上手だし、申し分ないわ。」
「もうやめてよ。この話は終わりよ。」
話がどんどんエスカレートして、聞くに耐えられなくなって制止した。それからは、悪い冗談だったと忘れて、穏やかに過ごしていた。
翌日、馬に乗った使者がやって来て、我が家の門を叩いた。「どなた様からで?」と家人に問わせたところ、分かりきったことだろうといった態度で、あの人からの使いできたと大騒ぎしている。対応した家人はあたふたして奥に取り次いだ。それを聞いてまた、奥でも大騒ぎになった。
「昨日の求婚話は本当だったのかしら?」
「とりあえず、お手紙を見てみましょうよ。」
見れば、ひどく変わった手紙だ。こういった場合、美しい料紙にここぞとばかりに凝った筆跡で書くというもの。それが、分厚い事務用紙に、適当に流し書いた体でこうあった。
『噂だけ聞いて悲しいほととぎす 言い交わしたい思いがあります』
花も何も添えられず、ただそれだけ書いてあった。なにこれ、ありえないと、心の中で思った。
「嫌だわ、お返事を差し上げなければならないのかしら。」
と女房達と相談していると、奥から騒ぎを聞きつけた母がやってきた。母も訝しそうに手紙を見ていたが、
「やはりご返事なさるのがいいですよ。」
古風で礼儀正しい母は言う。仕方なく、こう書いて送った。
『語り合う人ない里にほととぎす いたずらに声を無駄にするかと』
これを初めに、何度も手紙を送ってきた。無視していると、悲痛そうな文面でこう書いてきた。
『不安です音無の滝の水なのかと あてどなく瀬を探しています』
あまりにしつこいので、『後ほどこちらからご連絡いたします。』と体よく断ったら、馬鹿みたいにこんなふうに返してきた。
『人知れず今か今かと待つうちに 返事が来ないのはわびしいものです』
これを見て、古風な母が、
「まぁ、恐れ多いこと。大人の女性の対応をして、きちんとご返事なさい。」
なんて言うものだから、仕方なく筆まめな女房にそつなく返事を書かせて送ってやった。そんな代筆の手紙をあの人は心底喜んで、その後も頻繁に手紙を送ってきた。ずっと代筆の手紙でやり過ごしていると、あちらは外堀を埋める戦略に出て、母に結婚を許して欲しいという手紙を書いてきた。それに添えられた私への手紙には、
『浜千鳥のあしあと渚にふみ見ぬは 我越す波が打ち消すのかと』
これにも、筆達者な女房に代筆させてあしらった。その後、
『いつも丁寧なお返事をくださいますのは、心から嬉しいことですけれど、今回もまた同じように代筆というのは、あまりにも辛いことです。』
と、いつになく真剣な心情を書き綴った文面に、歌が添えられていた。
『何にせよ嬉しい気持ちはあるけれど 今度こそあなたの言葉が欲しい』
少し心が揺れたけれど、いつものように代筆で返した。こんな調子で、真面目に手紙だけを交わすだけで、月日が過ぎていった。
秋になった。あの人は父のもとに結婚の許しを得るための手紙を書いたり、しまいにはあの人のお父上の右大臣から父に結婚の打診があったりもしたようだった。どんどん外堀を埋められて、逃げ場がなくなっていく。あの人にはすでに妻も子もいて、しかも中流貴族の私とでは身分が違い過ぎる。結婚しても苦労が尽きないだろうと思って、頑なに拒んでいた。その日も、父に宛てた手紙に添えられて、
『ご用心し過ぎのようにお見受けするのが辛くて、我慢はしていましたが、どうしてでしょう、
鹿の声の聞こえぬ里に住むけれど 何故だか合わない目をみることです』
返事はもう代筆というわけにいかなくて自ら書いた。
『高砂山の高嶺あたりに住もうとも それほど眠れぬとは聞かぬものを
本当に不思議なことですわ。』
とだけ書いた。
父も母も、あの人と私の結婚は逃れられないとして、あの人の思いのほどを確かめながら私との距離を少しずつ近づけていくお膳立てをしていった。私の部屋だった場所は、あの人を迎えるには手狭ということで、寝殿を仕切ってしつらえた。初めて会った時は、庇の間に通して御簾越しに、さらに几帳を隔てて侍女を間に入れて会った。私の側は、明かりを落としてあったので、几帳越しにもあの人の姿がよく見えた。あの人がゆったり動くと、いい香りが漂った。花薄のかさねの衣装は艶があり、動くたびに柔らかく滑った。最初はよそよそしい緊張した空気だったが、あの人は周りの女房たちを会話に巻き込みながら陽気に会話して、雰囲気を和ませていく。少し強引な感じで、もし受け入れてくれるなら一生共に過ごしたいと口説くあの人の様子は自信に溢れていた。眼差しには、私の心を捉らえるまで決して諦めないといった決意めいたものを感じた。どんなに言葉を連ねてもずっと心変わりしないなんてことはないだろうと、不安でいっぱいだった。
また、少し経って、
『逢坂の関が何だというのだ 近いのに越えられなくて嘆いて過ごす』
返事、
『逢坂の関というより 名の通りくるなの関こそ越えられないのです』
などと、男女の一線を越えないままに手紙が何度も行き来して、どんな朝のことだったか、
『夕ぐれの流れくる間を待つうちに 涙は大井の川になろうぞ』
返事、
『思うことおおいの川の夕ぐれは 心にもあらず泣けてしまうのです』
また、三日目の夜が明けた朝のこと、
『東雲におきて帰った心は空に なぜだか露と消えそうだった』
返事、
『儚くも消えそうと言う露のあなたに 虚しく頼る私は何なの』
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