11 風は吹いている


飛んでいった黒いクロッシェ

どこから来て、どこに行った?




 アイドルになったら芸人に口説かれまくるんだと思っていたが、しかし、そんなことは全然なく、はじめてわたしを口説いた芸人は小太りのおっさんだった。とは言え、彼は日本中の誰もが知っているようなギャグをいくつも持っている大ベテラン芸人で、そんな有名ならば、さぞかし裏では偉そうに踏ん反り返っているんだろうと思うが、彼は誰に対しても優しかった。もちろん芸能界に入ったばっかりのわたしに対しても、彼は優しく、色々なことを教えてくれた。


 ある日のバラエティ番組の撮影の日の事だった。


「ちくわちゃん! 俺が「押すなよ!押すなよ!」って言ったら、これは「押せ」ってことだからさ、遠慮なく押すんだよ!」

「はい!わかりました!」

 そうしてわたしは、言われるがまま、彼を熱湯風呂に向かって押し倒すのだった。

 バチャーン!と激しい水飛沫を上げ、彼が湯船から顔を出す。

「あっ、あちあちアチーーッ!!おっ、おまえなにするんだーー!!訴えてやるー!!」

「え、あ、ご、ごめんなさい!ごめんなさい!許してくださいっ!」

 訴えてやるー!までの流れが1セットのギャグだなんてことも、熱湯風呂が実はぬるま湯だなんてことすらも、当時のわたしは知らなかったのだった。あらあら、やっちまったよ的な空気に包まれる現場だったが、そんな空気を理解できないほど無知だったわたしは、泣き続けるしかしかできなかった。まあ、こんなハプニングで終わるのも、たまにはいいかとの番組ディレクターの判断で、その日の撮影は終了になった。

 好きなアイドルのことくらいしか知らなかったわたしは、その日を境にあらゆることに興味を持ち、学ぶことにしたのだった。そして、その知識はたいして可愛くもないわたしの武器になるのだった。


 それから何ヶ月後、わたしの誕生日のことだった。

「ちくわちゃん!君にプレゼントがあるんだ!」

 彼だった。あの事件から一度も共演したこともなかったのに、わざわざわたしの誕生日を調べていたのか、誕生日の日にわたしに会いに来てくれたのだった。

「あのときは悪かったねえ、おわびだと思って受けとってくれないかい」

 プレゼントの箱を開けると、中から出てきたのは意外にもおしゃれな黒いクロッシェの帽子だった。そういえば彼もいつも帽子を被っていて、最近は帽子をくるくると回すギャグが推しネタのようだった。

 さっそく、黒いクロッシェを被るわたし。鏡を見ると、思ったよりも似合っていて、わたしはすっかり気に入ってしまった。

「あらー似合ってるじゃん!よし!くるりんぱも伝授してあげよう」

「それは遠慮しておきます」

「なんだとー訴えてやる!!ヤーー!!」

 もうすっかり芸能界に染まっていたわたしは、彼のギャグを適当にいなしつつ、訊ねた。

「ーーさんの誕生日はいつでしたっけ? わたしからもプレゼント送りますよ。なにがいいですか?」

「うーん、なんにしようかな?ちくわちゃんにほっぺにチューでも、してもらおうかな?」

 おどけた顔でそう答える彼だったが、具体的な商品名でもあげてわたしに余計な金を使わせるのが嫌だったのだろう。彼がそういう人であることを、その頃のわたしは充分に理解していたのだった。

わたしなら、彼に何を贈れるだろう。彼に似合う帽子でも、送ってあげようか。なんなら希望通り、ほっぺにチューしてあげても構わない。今にも泣き出してしまいそうな、不思議な彼の笑顔を見ながら、わたしはそんなことを考えていた。

 しかし、その思いが果たされることはなかった。

 彼は、その数日後に自宅で首を吊ったのだった。


ーーねえ、最後にあなたはその哀しげな目で何を見ていたの?






大丈夫だよ

世界中の誰もがあなたのことを忘れてしまっても、わたしはあなたのことを覚えているよ

覚えている限り、あなたは死なないから

だからずっと生き続けるんだ

安心して、あなたはわたしのことを見ていてね






ーーくるりんぱ!

どこかでそんな声が聴こえた気がした。

それは優しくて、儚げで、そしてやっぱり哀しい声だった。

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