猫屋敷華恋の出納帳 「迷い道」

北見崇史

迷い道

「さっきの小学校、けっこう怖かったな」

「山奥にポツンとある廃墟って、すっごく不気味よね」

「男子便所でションベンしたときに、後ろのドアが開いたんだ。ガキどもが見てたけど、あえて知らんぷりしてたさ」

「それホントなの」

「ウソだよ」

「っもう」

 四輪駆動車の後部座席で、健司はリラックスしていた。靴を脱いで胡坐をかき、左隣にいる友里へ冗談を飛ばしている。

「けっこう遅くなっちゃった。早く帰りたいけれど、夜は運転しづらいわ。迷いそう」

 運転しているのは奈緒美である。三人が乗っているのは、彼女が父親から借りた車だ。

「ナオちゃん、ゆっくりいこうよ。真夜中に、こんな山道で事故ったら大変だよ」

「おうよ、友里の言うとおりだ。俺は友里と奈緒美と、ずっとこのままでいいけどな」

「一生まっ暗な山の中でドライブするつもりなの」

「だから、二人と一緒ならって話だよ。両手に華だろうが」

 同乗者はいつも気楽なものだが、運転手はそうはいかない。

「なんか、冗談じゃなくてホントに迷ったみたい。さっきから同じところを走っている気がする」

 狭くて未舗装の山道は、あちこちに枝道があって迷いやすい。右に左に曲がり、一度通った道へ戻っていた。

「昼間だったらいいんだけど真っ暗だからね。距離感がつかめないのよ」

「燃料は大丈夫なの」

「お父さんがいつも満タンにしているから、ぜんぜん心配ないよ」

 燃料に不安はないが、帰りの行程は難儀なことになりそうだ。それでも奈緒美はたいして気負いもせずに運転している。

「たぶん、着くのは三時過ぎになるんじゃないかな」

 だいたいの到着時間を告げた。

「やだ、夜が明けちゃう。ガタガタしてると、お母さんたちが起きちゃうかな」

「なら、俺の部屋に泊っていけよ。昼までゆっくり寝ていられるぜ」

「ええ、まあ」

 友里の返事はあいまいだ。

「昨日もだから、二日連続になるよな」

 健司が得意になって言うが、友里は身をすくめて黙っている。奈緒美がギアチェンジを試みると、ハスキーで耳障りな金属音が鳴り響いた。

「ったく、また三速が入りにくくなった。オンボロ車め」

「この四駆、もう三十年選手だからな。奈緒美の親父さんは物持ちがいい」

「あの当時は流行ってたのよ。テレビ番組の景品にもなってたし」

「あれ、おもしろかったよね。月曜日が楽しみだった」

「俺は、ゲストのダーツが下手すぎてイライラしてたけどな」

「ほんと、惜しいところでタワシとかね」

「あははは」

 一瞬緊張しかけた雰囲気が元通りとなった。気まずさが長く続かないことに、彼と彼女たちは満足している。

「ねえ、あそこになんかいない?」

 四輪駆動車の速度が極端に遅くなった。奈緒美がブレーキを踏みながらハンドルに上体をのせて、フロントガラスの向こうを見つめている。後席の二人も前方に身を乗り出した。

「ホントだ、カモシカかな」

「この山にカモシカはいねえだろう」

「だったら、なんなの」

 健司と友里が話している間にも近づいている。三人が右側前方を凝視していた。

「ねえ、人だよ」

「ああ、そうだな」

 運転手がそこへ着く少し前で車を停めた。光量が弱くなった黄色のヘッドライトが淡く照らしている。

「なんか、女の子っぽいけど」と奈緒美。

「あれってセーラー服じゃない」友里が指さして言った。

「とすると、女子高生か」

「それとも中学生?」

 それから車内が無言になった。十数秒が長く感じられる。

「誰かに置いてけぼりにされたのかな。乗せてあげないと」

 奈緒美がギアを一速に入れようとしたところで、健司が刺すように言う。

「ダメだ」

「どうしてよ」

 ギアはニュートラルに戻されたが、彼女の手はシフトノブを握ったままだ。

「こんな山奥に女子高生だか女子中学生が一人でいるわけねえだろう」

「恋人に捨てられたとかじゃないの」

「真夜中だぞ。カップルが来るとも思えんし、だいたい、ほかの車とすれ違ってねえだろうが。ここに来たのは俺たちだけだ」

「じゃあ、なんなのよ」奈緒美も尖った口調となった。

「たぶん、霊とか、そんなもんだよ」

 一瞬、車内の空気が固まった。

「ケンちゃん、やめてよ」

「健司、シャレにならないって」

 友里と奈緒美に咎められたが、健司の主張は変わらない。

「じゃあ、なんであんな所に立ちっぱなしなんだ。助けてほしいんだったら、こっちに手を振るなり走ってくるなりするだろう」

 ヘッドライトで照らされているのに、セーラー服の女子は身動き一つしない。立ち尽くしているように見えた。まるで魂のないマネキンである。

「たしかに、ちょっとヘンかも」

 友里も気味の悪さを感じていた。

「奈緒美、いいから突っ切れ」

「でも、迷子だったらどうするの。山の朝は冷えるし、クマもいるんだよ」

 正体不明の相手でも、運転手は人道的であろうとする。

「ゆっくりそばを通って、助けてほしそうだったら乗せてあげれば」

「ダメだ。きっと成仏できない怨霊なんだって。呪われるぞ、俺たち。そうなったら、一生付きまとわれてしまう」

 どこか追い詰められているような言い方だった。

「バックしても切り返せないから、このまま行くわ。もし助けを求めてきたら乗せるからね」

 すでにギアは一速に入れられていた。真っ暗闇にディーゼルエンジンのくぐごもった騒音が響いた。

「絶対に怨霊なんだ。ヤバいことになるぞ」 

 四輪駆動車が発進した。歩いているのと同じ速度で近づいてゆく。

「中学生じゃなくて、高校生っぽくない」

「スタイルいいね」

「友里、あの制服って見たことある?」

「ううん。ちょっと派手で、変わったデザインのセーラーだよね」

 あれこれと値踏みをする奈緒美と友里の会話に、健司は加わらなかった。

 ほどなくして、三人がそのセーラー服の女子とすれ違う。体は相変わらず微動だにしないが、暗闇に照らされた顔は薄気味悪く微笑んでいた。

「・・・」

「くっそ、笑ってるぞ」

「ヤバいっ」

 運転手がアクセルを踏みこんだ。四輪駆動車が土煙を蹴って急激に加速する。

「ほらみろー、あれがまともな人間かよ」

「うん、なんかおかしい。わたしを見ていたかも」

 妖しく笑うセーラー服の女子と目が合ったように思えて、友里は身震いしていた。

「あれはいったい、なんなの」

「だから怨霊だって言ってるだろう。かかわると、とり憑かれるぞ」

 急げ急げと後部座席の男が言うが、奈緒美はスピードを緩めた。荒れた山道なので、とくに真夜中のドライブは気をつけなければならない。

「ねえ、ひょとして、ついて来てるんじゃない」

 恐る恐る後ろを振り向いた友里が、ひそひそ声で言った。

「んなわけねえだろう」

 健司が振り返った。後ろの森が真っ暗闇であることに安堵していたが、ブレーキランプが後方を一秒ほど照らすと、吃驚の声をあげた。

「おーーーーーっ、追いかけてきたぞーっ」

「きゃあー」

 健司の大声と友里の悲鳴が奈緒美の右足を踏みつけた。勝手知った山道を、右へ左へ曲がり枝道に入っては前進させた。チラッ、チラッ、とルームミラーを見ながら熟達した運転技術で走らせていた。

「もう、大丈夫じゃねえのか」

 どれくらい経ったのか、車内の緊張が緩んだところで健司が口を開いた。

「ねえ、ほんとうに追いかけてきたの。真っ暗で見えなかったけど」

 奈緒美はルームミラーの角度をしきりに微調整している。

「ああ、まあ、なんか、来ている気がしたんだ」

「わたしも、そんな感じかもしれないけど」

 後部座席の二人は、あいまいで、そして自信なさそうに言った。

「いきなり驚かさないでよね、友里。おっきな声出してさ。こっちは運転してるのよ」

「ケンちゃんが最初に叫んだんじゃないの」

「耳元で大声出されると、ビックリして事故るかもしれないんだから」

「だから、わたしだけじゃないでしょう。なんなの」

 自分への責めがしつこいと感じて、少しムッとしていた。

「ともかくよう、なにごともなく通り過ぎたんだからいいじぇねえか」

 ホッとしたのか、健司がタバコを取り出そうとするが、どのポケットに仕舞い込んだのかわからず体のあちこちを触っていた。

「早く帰ろうよ。今日は縁起が悪いような気がする」

「そうだな。奈緒美、さっさと山から出ようや」

「そんなの、わかってるって」

 運転手は前のめりになってハンドルを操作している。目を細めて、暗がりの中を見極めようとしていた。

「なんだよ、また迷ってんのか」

「しょうがないでしょう。真夜中なんだから」と真由美が言ったところでブレーキを強く踏んだ。

「うわっ、なんだ」

 いきなり停車したので、後部座席の二人がつんのめってしまう。

「いる」

「え」

「だから、あそこにいるって」

 運転手がフロントガラスに手をくっ付けんばかりに指し示した 黄色のヘッドライトが照らすぼんやりとした輪の中に、あのセーラー服の女子が立っていた。

「マジかよ」

「うそー、だってさっき通り過ぎたよね」

「また戻ってしまったのか」

「いいえ、違う」

 真由美の声が固くなっていた。

「私たち、あの子に迷わされているのよ」

 数秒の沈黙が数分に感じられた。

「奈緒美さあ、言っている意味がわかんねえぞ」

「たぶん、私たちが迷っている原因があの子だってことよ。この車に乗せてくれってことじゃないの」

「わたしも、そんな感じがする」

「そんなバカな」

 確信があるような言い方ではなかったが、友里も同調した。健司はあれこれ文句を言っていたが、二人に押され気味である。

「人か亡霊か知れないけど、きっとどこかに行きたいのよ。乗せてあげて、そこに連れて行けば私たちも戻れるんじゃないの」

「うん、絶対そうだよ」

「わかった、わかったよ。好きにやればいい。だけど俺は気がすすまないってことを言っておく」

「決まりね」 

 四輪駆動車をギリギリまで寄せる。運転席のウインドウを半分ほど下げて、奈緒美が顔を合わせた。

「ねえ、あなた、どうしたの。こんな夜中に、こんな山奥で」

「迷いましたね」と、セーラー服の女子は言った。

「迷っちゃったんだ」

「ですよね」

 じっさいに話してみると、それほど気味悪さを感じなかった。奈緒美の緊張が解けて、力まずに会話をしている。

「町に出るまで乗せてあげようか」

 その申し出を待っていたようで、微笑みが一段階上がった。

「よろしくです」

 許可を得たセーラー服の女子が、後部座席に乗り込もうしてドアに手をかけた。

「こっちは満杯だ。助手席に行け」と健司が突き放した。

 微笑んだまま四輪駆動車の後ろを回り、助手席へ座った。奈緒美がギアを入れて発進した。

「ええっと、あなた、名前は」

「猫屋敷」と、ただそれだけだった。

「気色悪い名前だな。化けネコなんじゃねえのか」

 後ろからぞんざいに貶されても、猫屋敷の微笑みは消えない。

「ねえねえ、この子、すごく可愛いよね。健司の好みじゃないの」

「知らねえよ」

 友里が健司に、そうっと耳打ちをした。ただし、漏れ聞こえるくらいの声だった。アクセルワークの微妙な瑕疵により、車がガクガクと震えた。奈緒美が質問を続ける。

「どうして、あそこにいたの」

「道案内ですね」

「道案内をしていて、てめえが道に迷ってるのかよ」

 健司にそう言われても、とくに言い訳したりはしなかった。

「ねえ、猫屋敷ちゃん。親に連絡しようか。私、携帯電話を持っているから」

 猫屋敷は前を向いたまま答えない。奈緒美がチラチラと様子を見て、その必要はないと判断した。

「携帯電話いいなあ、わたしもほしい」

「俺はいらねえ。あんなの、うるせえだけだ。金高えし」

 相変わらず不機嫌な健司だが、友里は友好的であろうとする。

「猫屋敷さん、その制服ってどこの高校なの。このあたりじゃないよね」

「あなたの高校はどこですか」

「え、わたし?」

 後ろの席に問いかけているのだが、猫屋敷はキッチリと前を向いている。

「青葉西高校だけど」

「そのあとは」

「そのあとって、どういう意味なの。高校はちゃんと卒業したよ」

「なにをしていましたか」

「ふつうに就職して、信金で事務をやっているけど」

「そのあとは」

「そのあとは・・・、だから」

 友里が言い淀む。

「あれえ、わたしって、なにしてたんだっけ」

 考えが浮かばず、そのことが心に引っかかるのか、眉間にシワを寄せていた。隣にいる健司は口を固く結んで窓の外を見ている。沈黙が優勢になろうとしていた。

「女の人は好きですか」

 唐突な質問だった。そう言った猫屋敷はじっと前を見つめている。健司が即答する。

「当り前だ。男だったら女が好きだろうよ」

「お一人様ですか」

 なにかを言いかけた奈緒美だったが、その言葉を飲み込んで運転に集中した。

「一人でも二人でも、いい女だったら好きになるってことだ。ガキにはわかんねえだろうけどな」

「縛っておきたいですか」

「あ?」

「一人でも二人でも、好きになった人と、いつまでも一緒にいたいですか」

「ああ、そうだよ。だけど、てめえみたいな薄気味悪い怨霊はいらねえぜ。一緒にいるのがケッタクソ悪い。早く降りろや」

 ドンと、斜め後方から助手席の右端を蹴っ飛ばした。足は直接触れていないが、衝撃は伝わっている。だけど、猫屋敷の微笑みが曇ることはなかった。

「健司、やめなさい」

 もう一回蹴ろうと足を上げていたのだが、奈緒美に注意されてしまい、振り上げたものを静かにおろした。険悪になってしまった車内の空気を入れ替えようと、運転手が他愛のない話題を振る。

「猫屋敷ちゃんには恋人とかいるの。やっぱり、カッコイイ男子が好きなのかな」

「あなたには好きな人がいますね」

「え」

 猫屋敷の直球質問に緊張したのは前の座席だけではない。

「ねえ、そういうこと言うのは失礼だと思うけど。だって奈緒美が訊いているんだし、あなたより年上で、あかの他人なんだよ」

「では、あなたは好かれることが好きですか」

「ちょっと、なによ。どういうこと」

 猫屋敷の真意がわからず、友里は眉をひそめた。

「おい、化け猫。おまえさっきからおっかしいんだよ。言いたいことがあるならハッキリ言えや。俺たちの生き血でも啜りてえのか」

「ちょっとやめてよ」

「ほんとに!」

 生臭くも残虐なたとえ話に、女たちの表情が曇った。

「奈緒美さんとお付き合いをしてから、友里さんとお付き合いをして、まだ求めますか」

「俺が誰と付き合おうと、おまえにとやかく言われる筋合いはねえ。ぶっ飛ばすぞ、このクソガキ」

 健司がふたたび足を上げようとするが、今度は友里が止めた。少し持ち上がった彼の膝を押さえて、そうっと降ろした。

「私たちのことは、あなたに関係ないでしょう。いきなり、なんなの」

 奈緒美が不機嫌になるが、助手席はお構いなしである。

「元恋人が後ろにいて、恋人同士が後ろで付き合っています。あなたは平気ですか」

「健司とは、もう終わったの。私は引きずらない。別れた男が誰と付き合おうと、なんとも思っていないんだから」

「ほんとうにですか」

「そうよ」

「半分の本音と、半分のウソ。うまく混じり合いませんね。どういう化学反応が起きているのでしょうか」

「うるさいっ」

 運転手がギアを下げた。角度のある下り坂でエンジンブレーキがよく効いている。前のめりな姿勢に耐えなければならない。

「ねえ、高校生さん。もう降りたほうがいいんじゃないの。さすがに気分が悪い」

 彼らはまだ奥深い山の中だ。未成年者を放り出すのは問題だが、友里は我慢できないようである。

「降りていいのですか」

 そう尋ねる猫屋敷は不思議と前へ寄らない。背もたれにピタリと付いていた。

「残りたいのだったら、もう、わたしたちのことをアレコレ言わないこと」 

 年上の大人としての忠告だったが、猫屋敷は気にすることなく攻め続ける。

「友里さんがお付き合いを始めたのは、健司さんと奈緒美さんが別れた次の日の夜でしたね」

「な、なにいってんのよ」

「猫屋敷ちゃん、私たちのなにを知っているの」

 初対面の高校生が事情通なことに、女たちは焦りを感じていた。唯一の男性も、これ以上の詮索を嫌っていた。

「もういい、誰もなにも言うな。俺はこのままでいい。なにも変わりたくないんだ」

「認めるのがイヤなのですか、健司さん」

「なにを認めるのを、俺は嫌がっているんだ」

「それは猫屋敷がここにいる理由ですね」

「その理由をしゃべるんじゃねえぞ、ガキ」

「あなたがたが迷い続けているのは」

「しゃべるなって言ってるだろう。ぶん殴るぞ、このーっ」

 健司の恫喝まがいの指示により猫屋敷の勢いが止まった。ただし運転手は先に進んでほしいようである。。

「私たちは、どうして迷ったの」

「それを知りますか」

「知りたい・・・。いいえ、知りたくない」

 そうしてはいけない気がして奈緒美が言葉を切った。よけいな追及がないように、じっと息をひそめる。健司が口を開こうとした時だった。

「死者の中に生者がいます」

 いきなり、猫屋敷が言った。

「死者の中に、じつは一人だけ生者がいるのです」とも付け加えた。

 三人が同時に息を飲み込んだ。ほぼ真っ暗な車内において、呼吸をするのも忘れて沈黙に身をゆだねていた。ただし、自らの鼓動を確かめようとはしない。

「生者は一人だけ」 

 猫屋敷が言い切り、さらに続ける。

「生者が死者を縛っています。それは呪いにも勝る桎梏であって、だから、あなたがたは迷い続けている」

 言い終えた猫屋敷が辛抱強く待つが。まだ誰も言葉を発しない。もう一押しが足りないようである。

「三十年も」

 無言はさらに重苦しくなりそうだったが、一人が勇気を出した。

「ねえ、わたしは生きているの。まさか死者ってことはないよね」

 口火を切ったのは友里である。不安そうな声だが震えてはいない。

「安心してください。あなたは死んでいます。生者ではありませんよ」

 その事実が心休まることなのか、友里はよくよく考えなければならなかった。 

「そうですよね、健司さん」

「ああ」

 猫屋敷の問いかけに健司は素っ気なく答えた。諦めて不貞腐れたような態度だった。

「どうして、どうしてわたしは迷っているの。三十年も、この車の中でずっと、ってことなの。だって、山奥の廃墟へ肝だめしに来ただけじゃないの。おかしいでしょう」

「そこで死んだのですよ、三十年前に」

 そう言われて、一気にまくし立てていた友里が黙った。

「俺はこれでもいいと思ったんだ。友里といるのも、奈緒美と一緒なのも、すごく楽しいからな。たしかに迷い続けているけど、それがなんだってんだ。誰の迷惑にもなってねえ」

 健司のカラ元気は友里の関心を引かない。彼女は知りたがっている。

「わたし、どうやって死んだの」

「殺されましたよ」

「えっ」

「カッターで首を切られました。頸動脈だったので、出血多量ですね」

「そう、なんだ・・・」

 予期せぬ自身の最期に感慨深さはあまりないようだ。それよりも気になることがある。

「生者って、誰なの」

「それは」

「黙れ」

 奈緒美が言いかけるが、後ろから強力な制止がかかった。運転手が瞬時に口をつぐむ。

「わたしを殺したのって、ひょっとしてその生者なの」

 顔を少し上げて、斜め下から彼を見上げた。荒れた凸凹道に四輪駆動車が撥ねているけど、友里の姿勢は上下しない。健司は、窓の外にある暗闇に自分の顔を映したまま口を閉じている。猫屋敷が言う。

「友里さんは、友里さんを愛する人に殺されました。おぼえていませんか。三十年前です」

「わたしは、あの時はけっこう楽しくて、そうしたら、いきなり後ろからだったから、ええっと、わからない」

 三十年前のアーカイブは、あまり鮮明ではない。彼女がよく覚えているのは、三人で楽しくドライブしていた夜の思い出である。

「ねえ、どうして、どうしてわたしを殺したのよ」

 健司を揺さぶりながら問い詰めていた。

「愛していたからですよ」と言ったのは猫屋敷だ。

「そう、俺は愛していたんだ。どうしようもなく愛していた」

「だったら、わたしを殺すことないじゃないの。それに、なんでケンちゃんだけが生者なのよ」

 そう言った途端、クラクションが凄まじく鳴り響いた。

 奈緒美が血相を変えてハンドルを押していた。何度も何度もしつこく押し込んで、そのうちプッツリと鳴り止んだ。それでも運転手は、まだ押し続けている。 

 大音響がなくなったあとの静けさは、果てしのなさを感じさせるほどの空虚だった。

「健司さんは死者ですよ」

 猫屋敷の声がやさしく聞こえた。

「健司さんが深く愛していたのは、友里さんではなく奈緒美さんです」

 右を見ていた友里が斜め前に視線をやった。

「え、ウソでしょう」

「健司さんが奈緒美さんをふったわけではありません。奈緒美さんが健司さんをふったのです」

「どうして」と訊いたのは友里だ。

「あなたを愛していたからです」

 猫屋敷の言っていることが理解できず、もう一度質問しなければならなかった。

「だれが」

「奈緒美さんです」

 友里がゆっくりと首を振った

「それは、そのことはナオちゃんにも言ったけど、わたしたちは女同士だから、付き合っていたわけではないよ。友だちだったでしょう。それ以上になったことはないし、なるつもりもない」

「奈緒美は、そうは思っていなかったんだよ」

 健司が言う。姿勢を正しくして、しっかりと前を向いている。

「友里が俺と付き合いだしたから、俺たちを殺したんだろうな」

「私はケンちゃんが好き。だから付き合っているの。ケンちゃんだってそうでしょう」

「もちろん好きだよ。大好きさ」

 こわばっていた友里の表情が一瞬ゆるくなるが、戻るのに時間はかからなかった。

「でも愛していたのは、本気だったのは奈緒美なんだ。ごめん、おまえと付き合っていたのにな」

「なによ、それ。そんなの聞かされたら死にたくなるでしょう」

「もう死んでいますよ、友里さん」

 猫屋敷の指摘は注目されない。

 奈緒美が言う。 

「そう、私があなたたちを殺した。健司だけのつもりだったけど、友里もやっちゃった」

 奈緒美はまだクラクションを鳴らそうとしていた。しかし音が出ないので、ハンドルを叩いても空の響きだけだった。

「楽しすぎたから、あの夜は。こんな時がいつまでも続けばいいと思ったら、もうどうしようもなく殺したくなった。私には耐えられない楽しさだったのよ」

 奈緒美の告白を、後部座席の二人は黙って聞いていた。怒ったり、責めたりはしなかった。ほんの少し間をおいてから、友里が訊く。 

「ケンちゃんはどうやって死んだの。わたしたちは誰かに見つけられた?」

「健司さんも首を切られて死にました。お二人のご遺体は山奥にある小学校の廃墟で、お便所の便槽に投げ捨てられましたよ。多少の臭いがあっても誰も気にしませんね」

 遺体については落胆しかないので、それ以上の詳細を訊こうとしなかった。かわりに、自分とは別の人生を歩んでいる友人に尋ねる。

「ナオちゃんは生きているんだ」

 奈緒美が緊張している。アクセルを踏む足への力が断続的となり、車体がガクガクと揺れていた。猫屋敷が見つめている。

「あの夜、私も死のうとしたんだよ。でも、できなかった」

「死ぬ気がなかったからですね」

「そう」

「死ぬくらいなら、親しい友人と愛した人を縛りつけておこうと決心しましたね」

「そう」

「あなたには耐えられないお二人との楽しい時も、お二人とならいつまでも過ごせる」

「そう」

「すがすがしいまでの混乱であって、もはや混沌です。わけがわかりません。迷うはずですよ」

「・・・」

 奈緒美は運転に集中していない。定まらぬ目線を上下左右に泳がせながら、ハンドルを握っていた。

「わたしは、いったいどうなるの。死んでいるんでしょ」

「俺たちはもう、このままじゃいられないんだ。三人でいると楽しかった。三人でいることが、すごく大事だった。だから俺は奈緒美を許したんだ」

 愛している女に殺されても彼女を責めず、彼女に束縛されることを許容していた。死んではいるが、三人で迷い続けることが生き甲斐となっていたのだ。

「死者の魂を、あるべきところへ導きます」

 猫屋敷の背中から大きな翼が展開された。狭い車内いっぱいに拡がったので、とくに運転手を圧迫した。

「うわっ、な、と、鳥? 鳥くさっ。どうなってんの。まぶしい、眩しい」

 純白の翼から放射される光に目がくらんだ奈緒美は、デタラメにハンドルを切っていた。意味のない言葉をしばし羅列した後、ハッとして我に返った。

「なにっ、どうして誰もいないの。みんな、どこいったのよ」

 廃車寸前の古い四輪駆動車が、真っ暗な山道を這い進んでいた。運転手は五十路過ぎの女であり、彼女一人だけのドライブである。

 淡い黄色のヘッドライトが照らす先に人が見えた。若い男と女、そして翼があるセーラー服の女子が一人。

 痩せた中年女が運転する四輪駆動車がゆっくりと近づいている。すれ違う刹那、奈緒美はブレーキを強く踏み込んだが、そのまま止まらずに通りすぎてしまう。ドアミラーには、セーラー服の女子が大きく羽ばたいて、若い男女と共に天空へ昇ってゆく光景が映し出されている。星も煌めかぬ暗黒の空から一筋の光が差し込み、彼らを高く高くいざなっていた。

「一人はイヤだわ」

 そうつぶやいてハンドルを握り直した。吸い殻の山となった灰皿からシケモクを一本抜き取り、口に咥えて火を点ける。ふー、とヤニにまみれた息を吐き出したところで耳元がざわついた。

「奈緒美、うしろ、うしろ」

 誰かがささやいた。反射的に振り返る。背後の闇の中に真っ赤なモノが見えた。荒く息を吐き出しながら迫ってくる。

「ハンドルが効かない。アクセルも、ブレーキも」

 四輪駆動車を制御できないまま、深山のさらに奥へと突き進んでいた。


 

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